死ぬならあなたのせいがいい

1

自分ちの風呂場で手首切って死にかけてた人間を拾った。拾った、というよりは、私がそいつの家に住みついた、という方が正しい。けれどそいつは生きる力が根こそぎなくなってしまったみたいな顔で、自分で自分の手首を切っていたような奴だから、私はつまり、そいつの命を拾った、ということなのである。
前々からあたりをつけていたその家にちょっくらごめんなさいよと入り――風呂場から入ったのがいけなかったのだ、台所の窓でも壊せばよかったのに――真っ暗な浴場で湯舟に半分浸かって、包丁(あいつはカッターナイフだと言い張るけれど、あの大きさはどう見ても包丁だった)を右手に持って、左手首から流れ出る液体をぼんやり眺めているあいつを見た。私が入った物音にゆっくり顔を上げる。私はとっさにそいつの右手の包丁を奪って「騒ぐと殺す」と凄んだけれど、つまり今から死のうとしてる奴に「殺すぞ」と言ったって何の意味も無いのだった。
そいつは包丁を構えた私をつまらなさそうに眺める。その間にも左手首からは血がだらだらだらだら流れ出ていて、こいつ本当に死ぬんじゃないかと私は思い、そう思うとやや不安になり、とりあえず風呂場の明かりを手探りで点けた。暗くてそいつの性別すら、満足に判らなかったのだ。
「うわっ」
明かりを点けた私は声を上げた。真っ赤になった湯舟は昔話の血の海のようだった。いや本物の血だから本当に血の海なのか、などと悠長なことを考える。そいつは女だった。プリン状態になりかかっている金髪を束ねることもせず、垂れた髪の毛の間から私を見つめる。その瞳は半分生気が無くなっていても綺麗に澄んだブラウンで、私はいてもたってもいられずそいつの家の居間に走って電話を取った。こんなこと言うのは死ぬほど恥ずかしいし、もしもあいつに訊かれても「目の前で死にそうな奴がいたから動転しただけ」と言うだろうけど、醜い私が生きていて、あんなに綺麗な目をした女の子が死にかけてるなんてまったく理に適っていないと思ったのだ。
さっきよりはわずかに落ち着いた気持ちで風呂場に戻る。血の海に口まで浸かって、あいつは目を閉じていた。
「ちょっと」
私は怯えて叫んだ。そいつはうっとうしそうに目を開ける。私はほっとして、それから理不尽な苛立ちに襲われた。
「救急車、呼んだから」
私がタオルを手に取りながらつっけんどんに言うと、そいつは心底億劫だという風にゆっくり湯舟からあがった。大きなおっぱいを隠すこともせず、プラスチックの椅子にどっかりと座る。不健康に白い肌と紫色の唇。
「私はあんたの同居人だから、いいね」
厚手のタオルをそいつの左手首に巻きながら私は言った。「いいけど、刃物片付けといた方がいいよ」と小生意気な口調で言う。私は、こいつは私より何歳下だろう、と考える。左手首に巻いた白いタオルはみるみる血に染まり、私が黙っているとそいつは唇を動かした。
「ねえ泥棒、わたしの生きる理由になってくれる」
私が、えっ、と聞き返すより先にそいつはがくりと首を垂れた。私が焦ってそいつの背を叩いて声を掛けた時、遠くから救急車のサイレンが響いてきた。

2

要するにそいつは、助けた責任を負え、と私に要求してきたのだ。
「だってあなたが救急車なんか呼ぶからまた生きなきゃいけないし」
白のマニキュアを塗りながらけろりとそいつ――マコ、と名乗った――は言った。風呂場で初めて出会った時とは違いばっちり化粧もしているし、つけまつ毛が影を落とす頬の血色もいい。マコが退院して、ようやく落ち着いて話ができると思ったらそんなことを言われて私は面食らった。
「あんたねえ」
私は口を開いたけれど、あんたねえ、の続きは思い浮かばなかった。善意を押しつける気も、(もちろん実際に私がそういう考えを持っていたにしろ)命を大切にしろだなんて言えるはずもなかった。ただの空き巣のくせに。
あ、とマコが声を上げ、私の顔をまじまじと見た。化粧がけばけばしくて分からないけど、この子はなかなか整った顔立ちをしてるんじゃないかと思った。
「わたしは名乗ったけど、あなた、名前なんていうの」
「……ねね。丁寧の寧」
本当の名前ではない。空中に「寧」と書いてみせた。ふうん、とマコはぼんやりと言う。私はマコがわかっていないのか、それとも偽名を見透かされたのかわからなかった。
「案外かわいい名前だね」
けれどマコはそう言った。半乾きの爪に息を吹きかける。伏せた瞳はやっぱり綺麗なブラウンだけれどどうでもいいと思っているようにも見えた。
「じゃあわたしはお仕事行ってくるけど、出かけるんだったら鍵のこととかあるから連絡してね」
あ、アドレス教えてなかったね、とマコは携帯電話を取り出す。表面にはキラキラ光るビーズのようなものがたくさんくっついていた。
「ちょ、ちょっと待って」
私はうろたえてマコを見た。訊きたいことは山ほどあったが、口をついて出たのはどうだっていいようなことだった。
「私、携帯持ってない……」
え、ほんとにー、とマコは言って、紙とボールペンをカバンから取り出して番号を書きつけた。この番号に電話してくれたらいいから、と言う間にさえ、私は口を開くことができなかった。マコの一連の動作があまりに自然で、私を疑う気持ちなんて欠片もないみたいだったからだ。
「じゃあね、行ってきます」
はっとしてマコの方を見たけれど、玄関のドアが無情にも閉まったところだった。私はため息をついて居間に戻り、窓際に置いてある小さな時計を見た。午後六時。秋のおわりの空は真っ暗だ。こんな時間から始まる仕事って……。私はもう一度盛大にため息をつき、マコの昼ごはんをつくってあげておいた方がいいだろうかと考える。女の一人暮らしに空き巣に入った卑劣な泥棒で、いつ警察に突き出されてもおかしくないのにマコの接し方は奇妙で、どのような形であったにせよ久しぶりに人に信頼されて、私は胸のあたりがぼんやりと温かかった。心ならずも。

3

久しぶりに祖母の夢を見た。顔も知らない父親とろくでなしの母親に捨てられた私を育ててくれたのが祖母だった。老人とは思えないほど背筋がしゃんとしていて、大概はにこにこと優しかったが私が「人の道を外れること」をするとひどく悲しそうな顔をした。祖母は夢の中でやはりにこにことしていて、私は小さい子供のような気持ちで、私が泥棒していることがばれたらどうしよう、とばかり思っていた。

「おはよう」
マコがのっそりと起きだしてくる。寝起きの声はいつもよりややトーンが低い。
「あ、オムライス」
匂いだけで料理を言い当てると、ダイニングの椅子にパジャマのまま腰かける。私が、顔洗ってきたら、と言うと、うん、と素直に頷いて洗面所に向かった。
今まで見てきた限り、マコは一人暮らしだ。訪ねてくるような友達もいない。友達がいないのは私もそうだから構わないが、一人暮らしなのにベッドがダブルだったり、食器が2セット揃ってたり、それは私にかつてここにいた同居人の影を感じさせた。ダブルベッドということは男だろうか、と考えたが、まあどうでもいいか、とすぐに思い直した。そのうちに、ここは出て行くつもりだった。
マコがあくびをしながら洗面所から戻ってくる。私はテーブルにオムライスの皿を置いた。「いただきまーす」と言い、マコはスプーンを手に取った。
「わ、案外おいしい」
「案外ってなに」
思ったとおり、化粧を落とすとかわいらしい顔立ちをしている。あんた、そのままの方が可愛いのに、と言おうとしたが、自分がひどく年を取った生き物になってしまった気がしてやめた。
「ねねは食べないの?」
私はその言葉が自分を示しているのだと気付くのにしばらくかかった。ああ、うんそんなにお腹すいてないし、と、しどろもどろに答える。名乗った偽名を忘れるなんて、そんなこと今までなかったのに。マコのマイペースにあてられたかな、と思い、思った瞬間に心の底から怯えた。私は今この子に心を許したのだろうか? 恐ろしい疑念を打ち消すように、私は言葉を発した。
「あんた、もうひとりで平気?」
マコはちらりと目を上げた。オムライスの乗ったスプーンを口に運び、咀嚼して口元を拭う。
「おいしかった、ごちそうさま」
満面の笑みでマコは言った。立ち上がり、食器を下げるマコの後ろ姿を私はぼんやりと見つめる。そのまま洗い物をはじめたマコの背中にもう一度同じ質問をしようとした時、マコの声が聞こえた。
「ねねってさ、何してる人なの?」
流し台に目を落として水を流したままマコは私に尋ねた。私はこの子が私を陥れようとしているのかものすごく馬鹿なのかわからなかった。水を止めて振り返り、ダイニングの椅子に座っている私の目を見る。
「わたしはね、お嫁さんになりたかったの」
私はわけがわからずマコを見た。およめさん、と、聞き返す。
「そうお嫁さん。でもなれなかったから、今のわたしはお水の花道」
洗い物を終えたマコは流し台に寄りかかって私を見る。私は夜に仕事に出かけて朝帰ってくるマコや、一人暮らしに似合わないダブルベッドなんかを思い出したりしていた。
「お金のことは心配しなくていいよ、女の子ひとりくらい養えるって」
にっこり笑ってマコは言った。女の子、というのが、私を指していることに気付くのに少し遅れた。
「あ……、そう……」
マコと出会ってから私はすごく間抜けだ、と思いながら、そう言うほかなかった。はぐらかされてしまった。しかも、私はここに住むことになっている。私は奇妙な脱力感に襲われ、ぐったりと肩を落とした。でも祖母なら、ようやくあなたに友達ができたのね、と言って喜ぶかもしれない。祖母はとうに亡くなっていたが、そんなことを思い私はすこし笑った。

4

次のマコの休日には買い物に出かけた。私の洋服や、日用品が足りないからだ。私は、わざわざ買わなくてもマコの服を借りることを考えたが、マコの服は私にはすこし小さかった。それにどれもひどく派手なものばかりなのだ。
駅に隣接したショッピングモールを、マコは慣れた足取りで進む。私は行き交う人に躓きそうで、マコについていくのに精一杯だった。思わずマコの腕をつかむと、ようやくマコは止まってくれた。
「あんた、歩くの早すぎ……」
息を整えながら私が言うと、マコはごめんごめんと能天気に言った。ショッピングモールにいるマコは普段より楽しそうで、私は仏頂面でつかんだマコの腕を離す。ちょっと可愛いな、という気持ちと、まだ私はマコの家を出ることを諦めてない、という気持ちが入り混じっていた。
「あっ、これねねに似合いそう」
マコが手に取ったのは赤いボーダー柄の服だった。私は、自分に似合うとか似合わないとか言われてもよくわからない。服装に頓着したことなんて今までなかったから。
「そちら、ご試着されてみますか」
店員がにこにこしながら近付いてくる。私はどう答えていいかわからずマコを見ると、マコは他にも服を何枚か取り、この子なんですけど試着お願いできますか、と慣れた様子で言った。

結局、マコの選んだものを全部買わされて(マコのお金だから、買ってもらい、という方が正しい)、店を出ると私はぐったりしてしまった。何せ試着している最中に店員が「いかがですか」などと話しかけてくるのだ。そしてマコがカードを出してお金を払う時に、店員に「素敵なお姉さんですね」とにっこり微笑んで言われた。お姉さん!? 説明を求めてマコを見ると、マコは素知らぬ顔でカードを受け取っていた。

日用品を買い揃えている最中、私は気になってマコにたずねた。
「あんた、何歳なわけ?」
えー? と、マコはマグカップを手に取って見比べながら言った。右手には水玉模様、左手にはへんなキャラクターが描かれたマグカップを持っている。
「こっちとこっち、どっちがいい?」
真剣な表情で私に訊いた。またはぐらかされそうな気がする……。私は慎重に、マコの右手のマグカップを指差した。
「わたしはこっちが好きだけどなあ」
マコは残念そうにキャラクターの描かれているマグカップを棚に戻した。私はマコの横顔を眺める。チークでうすく色づいた頬、マスカラのたっぷり乗ったまつ毛。私は、でももしかしたら、マコが言いたくないのなら無理に言わせることもないかもしれない、と思いながらも言葉を重ねた。
「お姉さん、って――」
「二十三」
えっ、と私は聞き返した。マコは横を向いたまま、どうでもいいと思っているような声で呟いた。ややあって私の目を見る。綺麗な、ブラウン。
「ねねは?」
「……二十三」
うそー、と言ったのはマコだった。私はこの数日でマコに嘘をついても仕方ないということを学んでいたので、二十三歳というのは本当のことだ。
「ねねってば、絶対わたしより年下だと思ってたよ」
私だって、絶対あんたは私より年下だと思ってたよ。喉まで出かかった言葉を、その時どうして言わなかったのかわからない。ただマコが、いつもマイペースなマコの表情が、なんだか翳りを帯びているように見えたのだ。
「高校やめて、お水はじめて、六年かぁ……」
私はぼんやりと呟くマコを見た。はじめに出会った時、湯舟に浸かって左手首から流れ出る血を眺めていたマコを思い出し、どうしてそんなことを思い出したのかと自分自身にうろたえ、マコの名前を呼んだ。
「……マコ?」
あ、とマコは顔を上げた。そしてみるみる笑顔になる。
「ねね、私の名前呼んだの初めてでしょ」
「……へ?」
「いつも、あんた、って呼んでくるんだもん」
せっかく名前教えたのに、と、マコは楽しそうに続けた。私は気が抜けるのを感じた。いつものマコだ。少し遅れて、名前を呼んだことと、そんなことで嬉しそうにしているマコに対する気恥ずかしさのようなものが生まれ、私はむすっとして「マグカップ買ったら、帰ろう」と横を向いた。マコが「ねね可愛い、赤くなってる」などと言うので、私は余計に腹が立って、帰るよ、と言ってマコの手を引いてずんずん進む。マコは楽しそうに笑いながら、待って待って、お金払わなきゃ、と言っていた。私に手を引かれながら腰を折って笑い続けるマコを横目に見て、私は、この子を放っておくことなんてできない、と感じていた。

5

マコが仕事に行ったあと、キッチンでひとりで洗い物なんかをしていると、決まって今の私のように洗い物をしている祖母の記憶が蘇る。水を流す音、祖母の鼻歌、スリッパを履いた痩せたふくらはぎ。あの頃うちがどれほど貧しかったか知らないが、私の幸せな記憶はそこで止まっている。十五で祖母が亡くなる前。
食器を拭いて、棚に戻す。もう晩秋に近いので手はすっかりかじかんでしまっている。施設に入ってからは暗黒だった。そこで知り合ったろくでもない男に私は泥棒の手ほどきを受けた。死にたくなるようなこともあった。そんな時に私は祖母や祖母の言葉を思い出し、泥をすすってでも生き延びようと思っていた。ろくでなしの男は施設を出てからも何度か私の携帯に電話をよこしたが、ある時私はまっとうに生きようと思い携帯をドブに捨てたので男が今どうしているかは知らない。
そこまで思い出して私は少し笑った。まっとうに生きようだなんて、随分無茶なことを考えたものだ。親がいず、中卒で、お金もない私は、結局食べるものに困り、その日のうちに泥棒をはたらいたのだったが――。
やめよう、と思う。こんなことを思い出すのはやめよう。祖母は「何があっても、生きていればいいから」と私に繰り返し言って聞かせた。その言葉が私の支えだった。しかし祖母は、私が悪事を働いていると知ったらきっと悲しむだろう。そのことを思うと、私は胸がすうすうするような不安に苛まれる。
疲れを感じ、私はダイニングの椅子に腰かけた。早くマコが帰ってくればいいのに、と思った。

ドアチャイムの音が、意識の遠くで聞こえている。音は不規則に繰り返し私の耳にひどく障った。私は頭を起こし、自分がダイニングの椅子であのまま眠ってしまっていたことに気付いた。窓際の時計を見ると夜中の十一時だった。ピンポン、ピンポン、とドアチャイムは鳴る。マコはまだ仕事の時間だし、第一マコだったら鍵を持っているはずだ。
「……?」
いったい誰だろう。私は徐々にはっきりする頭に思考を巡らせた。でもそういえば、マコの家族や友達が訪ねてくる可能性もないとは言えない。しかしこんな夜中に? それにマコは仕事なのに。私は恐怖を感じ始めたが、その間にもドアチャイムは鳴り続け、追い立てられるようにして玄関口に立った。マコの知り合いだったらなんと言い訳しよう。のぞき穴からそっとのぞくと、猫背の背ばかり高い、帽子をかぶった男が立っていた。チェーンを掛けたドアをそっと開ける。
「……どちら様ですか」
「マコは?」
年齢は三十前、だろうか。男はマコの知り合いのようだったが、別段私の存在に驚くこともなくぼそっと言った。私は男の瞳を見つめる。暗い、青に近いような黒。この人はマコの血縁ではない、と私は思った。
「……お仕事ですけど」
男の片頬に酷薄そうな笑みが浮かんだ。私は胸焼けのようないやな感覚に捉われる。こいつはマコをばかにしているのだ、と私は瞬時に理解した。
「まだ帰ってないんだ?」
「まだ、っていうか、朝まで帰ってこないと思いますけど」
「君、マコの友達?」
私は、はい、と答えようとして口ごもった。この正体の知れない男に、早く立ち去ってほしかった。それに私自身、私とマコが友達なのかどうかなんてわからなかった。私が戸惑い、男を睨むような格好になっていると、夜の闇の遠くから走るようなヒールの音が聞こえてきた。
チェーンを掛けたドアの内側から、音の響いてくる方を見る。化粧が半分崩れ落ち、ファーのついたコートの襟を整えることもせず走ってきたのはマコだった。きれいな金色に染められた髪が乱れているのに、わき目もふらずマコは走ってくる。私はすこしぼうっとしてマコを見つめた。あんなに真剣なマコを見るのは初めてだった。
「お兄ちゃん!」
マコは玄関の前で止まり、ゼイゼイ言う息を整える。まさかこの男はマコの兄だったのか、と私は驚いた。マコの綺麗なブラウンの瞳と男の暗い黒の瞳を思い出す。私が何も言えないでいると、マコが口を開いた。
「来るっていうから急いで帰ってきちゃった」
えへへ、とマコは媚びるように笑った。私は自分の胸にせり上がる得体の知れない不快感に困惑する。
「マコ……おかえり」
私がとりあえずチェーンを開けると、男がすっと玄関に入ってきた。続いてマコも靴を脱いで上がる。私は不安を覚えながらも、マコの後ろについてリビングに入った。
「あんた、仕事途中で帰ってきちゃっていいの」
マコに小声で訊いた。マコは男の背中を見ながら、「べつに、平気」と言っただけだった。お兄ちゃんが来た。その一点にマコの全神経は集中されているようだった。私は腑に落ちないまま、キッチンに立って男にお茶を淹れようとした。居候である私が男の前でこの場所にいるためには、そうするほかないように思えた。
「あ、いいよ、別に」
男はここが自分の家であるかのように鷹揚に言った。納得がいかなかったが、そうですか、と呟いて私はマグカップを食器棚に戻す。寝室で着替えていたマコが着替えを終えてリビングに出てくる音がした。気配に振り返って、私はマコの姿に仰天した。
上半身はピンク色のふわふわした生地で覆われているが、胸元が大きく開いている。スカートはごく短く、レースのついた膝上までの靴下を穿いていた。大きな胸とくびれた腰、むっちりした太腿。マコの姿は扇情的で、それは私にたしかにマコが酌婦であることを感じさせた。しかし、「お兄ちゃん」の前でそんな格好をすることが私には理解できなかった。
マコ、と私が声をかける前に、男が立ち上がってマコに近付いた。男の頭越しに見えるマコの、うっとりとした表情。私はそのあと二人がどうしたかは知らない。キッチンに引き返して扉を閉めたからだ。

6

扉の隙間から、光が差し込んでいる。冷蔵庫のブーンというモーター音。私は目を開けると、自分の吐く息が白いことに気が付いた。寒さにこわばる身体をなんとか動かし、扉のほうを見る。そこにはいつもどおりの服のマコが立っていた。私は一瞬、自分が夢でも見ていたのではないかと思った。
「……お兄ちゃん、帰ったよ」
マコが表情のない瞳で言う。私は、ああ、あれは現実だったのか、と落胆する。

窓際の時計は七時を指していた。マコはキッチンに立ち、ミルク入りの紅茶を私にすすめた。朝に起きているマコを、私は珍しいものを見るような気持ちで眺める。訊きたいことは山ほどあったが、紅茶をすすっているマコの横顔に疲労が濃く滲んでいるので私は口をつぐむ。化粧を落としたのか、すっぴんでそうしているマコからは不思議な色香が漂っていた。
「……寒くなかった?」
「寒かった」
非難するつもりはなかったが私の声は異質にぽっかりと宙に浮かんだ。手のひらの中の紅茶に目を落とす。すこし前にマコに買ってもらった、私専用のマグカップ。
「あの人、本当にあんたのお兄ちゃんなの」
口をついて出た。私はマコの綺麗な目と、男のどんよりとくすんだ目を思い出す。深く考えて言ったわけではないが、血縁だと言われてもどうしても納得できそうになかった。マコは目を伏せて言う。
「なんで、わかるの?」
マコの顔がくしゃりと歪む。私は泣き出したのだと思ったけれどマコは微笑んだのだった。
「お父さんの、再婚相手の子供」
だからお兄ちゃん、とマコは続けた。さいこんあいて、という言葉が耳慣れなくて、私は返事をするタイミングを逃す。
「わたし、大好きなんだ、お兄ちゃんのこと」

マコがぽつりぽつりと話し始めたことは、私を不愉快な気持ちにさせるのに充分だった。
マコが十一の時に、マコの父親は再婚した。それから今までずっと、お兄ちゃんばかり見ている。十五の頃に父親が急に亡くなり、後を追うように継母もみるみる弱り亡くなった。そうしてマコとお兄ちゃんはふたりきりになった。十六でお兄ちゃんに処女を奪われ(もちろんマコがそう望んだのだろうが)、十七の時に高校を辞めて夜の仕事を始めた。でもそれはマコがやりたかったから、というよりは、その頃仕事を興して失敗したお兄ちゃんにお金が必要だったからなのだった。それから今まで、お兄ちゃんにお金を送り続けている。お兄ちゃんは泊まっていくこともあるし、今では女連れでマコの家に立ち寄ることもある。
私はマグカップを置いて、目線を斜め下に遣った。2セット揃っている食器や、一人暮らしなのにダブルベッドだった意味がわかった気がした。マコは、いつ来るとも知れないお兄ちゃんのためにそれを用意しているのだ。
「……そんなのって」
口をついて出た。マコが顔を上げて私の目を見る。否定的な言葉は許さない、というような、はりつめた視線だった。それでも私は言わなければならないことがあると思い、続けて口を開いた。
「そんなのって、よくないよ」
マコの瞳が傷付いたような色を浮かべる。それがどんどん怒りに変わっていくのが私にははっきりとわかった。
「わかってないよ、ねねに何がわかるの」
生まれて初めて友達ができて、私は少し、思い上がっていたようだ。マコの表情が追い詰められた手負いの獣のようで、もしかしたら自分は今ずいぶんと怖い顔をしているのではないかと思った。
「お兄ちゃんの、わたしとお兄ちゃんの、何がわかるのよお!」
マコは泣きながら叫んだ。そのまま涙を拭うこともせず子供のように泣き出す。あんたみたいないい子が、あんなどうしようもない不愉快な男に。私の全身を激しい感情が毒のように駆け巡る。言い返そうとしたが、いま口を開いたら自分も泣き出してしまいそうで、代わりに私は立ち上がった。
「マグカップありがとう、洋服も」
顔を真っ赤にしてわんわん泣いているマコに背を向け、私は早足で玄関に向かった。さようならだ、これでいい。私はもとの泥棒に戻り、マコは夜になったら普段通り仕事に出かける。気まぐれに立ち寄るお兄ちゃんに抱かれればいい。それでいい、それでいい、それでいい。
玄関のドアを開ける。秋の冷たい風が吹き、私は身を震わせた。雲ひとつなく晴れているのに。ドアを閉めると、ガチャンと取り返しのつかない音が響いた。

7

手に取った惣菜パンを、そっと袋の中に入れた。私の今日の晩ごはん。何事もなかったかのようにそのスーパーを後にする。あとは間抜けなおばちゃんの財布でもすって、しばらく漫画喫茶かどこかで過ごせばいい。
私はちゃんとひとりで生きていける。友達なんていらない。金輪際いらない。日はすっかり落ち、どこかから犬の鳴き声がする。手押し車を押しながら歩いているおばあさんが正面から歩いてきて、すれ違いざまに私は巾着袋をするっと引き抜いた。おばあさんは気付く様子もなく、鼻歌を歌いながら歩いてゆく。その瞬間の後悔をなんと表現したらいいだろう。私の中のとっくに麻痺して固まっていた部分が、ばかのようなマコと過ごしたせいで、ゆっくりと溶けだしたようだった。
もうマコのことを考えるのはやめよう。しかし、私は巾着袋の中身を確認して漫画喫茶に行かなきゃいけないのに、どうしてもそうすることができない。夜も更けてきたし、あんなにきれいに晴れていた空はいつの間にかどんよりと雲が垂れ込めている。一雨来そうだ、と思いながら、私はさびれた公園のベンチに腰かけた。マコはもう仕事に行っただろうか。それともまだ、ぐずぐずと泣いているだろうか。警察官らしき自転車に乗った男達が、二人連れで走っていくのが見えた。パトロールか何かだろうか……。空き巣増えてるらしいしなぁ、と思い、私は自嘲気味に笑った。
祖母は生きていればいいと言った。親がいなくても、友達がいなくても、生きていればいいことがあると言った。けれどもとの泥棒に戻って、それなのに今までのように麻痺した罪を感じる心も失ったまま、泥棒をし続けなければ生きていけない私にはその言葉は罰のように思えた。残りの何十年か、私はずっと罪悪感を感じながら生きていくのか。
肩に肌寒い雨を感じた。空気がしんしんと冷えてゆく。生きていくことが重かった。ああ、それでマコはああやって血の海に浸かっていたのか。生きる理由をなくしてたのか……。
私はそこまで考えてがばっと立ち上がった。マコはあの日、生きる理由になってくれと私に言った。素直で、綺麗な目で、笑うとかわいい女の子。私と同い年の女の子。もしかしたら、と思うと、いてもたってもいられなかった。

マコの家の玄関の鍵は開いていた。靴を脱ぎ捨て、リビングに走る。ダイニングには朝の紅茶がそのまま残っていた。寝室に走る。いない。キッチンの扉を開ける。冷蔵庫のモーター音がやけにうるさく聞こえた。私はどきんどきんと鳴る心臓を抱えながら、浴室のドアを勢いよく開けた。
「マコ!」
裸で湯船につかっているマコ、左腕にかけられた大振りな包丁、おどろいて見開かれるきれいなブラウンの瞳。私はマコの右手から包丁をはたき落とした。
「私はあんたの生きる理由なんでしょ、生きるよ!」
マコの表情が歪む。そのまま涙をぽろぽろとこぼした。遅いよぉ、ねね、と、大きくしゃくり上げる。もうすこしで、死んじゃうところだったじゃん、と叩く憎まれ口。それだけ元気なら大丈夫でしょ、と私も言い返す。
血の海からマコを連れ出し、タオルを左腕に巻きながら、私はマコを抱きしめた。綺麗な目をした女の子。私は汚い泥棒のくせに、なんだか知らないが、こいつの命を二回も拾ってしまった。バスタオルを羽織らせ、救急車を呼ぼうと今度はマコの手を握って居間の電話を取った。つめたいマコの手を、もう離すものかと思いながらぎゅっと握って電話をかけた。

8

「……ほんとは、お兄ちゃんのこと、うすうすわかってたんだよ」
薄い桃色のマニキュアを塗りながら、きまり悪そうにマコは言った。ごく控えめな化粧をして、髪の色も、もとのこげ茶色に戻している。
「わたしは都合のいいように利用されてるだけだなって、お兄ちゃんのお嫁さんになりたかったけど」
それもできないなって、思った頃に、とマコは続ける。マコが退院して、夜の仕事は無断欠勤や早退がたたってクビになったので、アパレルショップでバイトしたい、と言い始めてから一週間経つ。(私はその時、アパレルショップってなに、と尋ねた。マコはすこし考えて、「昼間にやってる洋服屋さん」と答えた)
そう言ったマコは恐るべき行動力で部屋を引き払い、お兄ちゃんの連絡先を携帯の電話帳から削除して着信拒否をした。お金は、とたずねると、横を向いて「もう送らない」と言った。私が訊きたかったのは返してもらわなくていいのかということだったけど、それを問うのはマコに対して酷な気がしたのでやめた。
だから今この部屋には、洋服やら化粧品やらの詰められたダンボールがたくさん転がっている。私はそのダンボールのうちのひとつのように、所在なくマコの部屋にいた。マコに買ってもらった服を着て、雑誌をなんとなくめくってみたりしていた。
「……だからそれをねねに言われた時、そのもやもやが急に形をもったみたいで、すごく混乱した」
半乾きの爪に息を吹きかけながら、照れくさそうにマコは言う。懐かしい愛しい記憶を思い出すみたいに。
「でもそのあと、ねねが来てくれて嬉しかった、だから……ありがとう」
微笑ましい、でも少し戸惑うようなあたたかい気持ちで、どういたしまして、と私は答える。そのあと私もマコもしゃべらなかったので、なんだか恥ずかしいような間ができて、無意味に服の裾を握った。赤いボーダー柄の服。私は、あっ、と言って窓際の時計を見た。
「マコ、時間大丈夫なの」
「やば、急がなきゃ」
今日はマコのアルバイトの面接の日だ。夕飯オムライス、よろしくね、とマコはコートを羽織りながら玄関に下りる。行ってらっしゃい、と、小さい子の母親にでもなったような気持ちで私は言う。
「あっ、ねね、今度携帯買おうね」
「なんで?」
「不便だからー。待ち合わせして、お昼ごはんとか一緒に食べようよ」
マコは唇を尖らせる。私は「はいはい」と苦笑しながらマコを送り出す。がんばってね、と背中をぽんぽん叩くと、マコはにっこりしてバス停の方へ小走りに歩いていった。
生まれて初めての私の友達。けれど私が彼女に何かを買ってもらうことはもうない。涙ぐみそうになり、私はあわてて上を向いた。

マコが出て行った部屋はがらんどうのようだ。窓際の時計の秒針や、冷蔵庫のモーター音ばかりが耳障りに響く。
私は、出頭することにした。
この前の惣菜パンでも、おばあさんの巾着袋でもなんでもいい。いくらでも私の罪はある。このまま一緒に暮らしていたのでは、マコにもいずれ迷惑をかけてしまうことになるだろう。
それにマコも、もうひとりで平気そうだし――そこまで考えて私は微笑んだ。血の海に浸かってまで思い悩んでいた「お兄ちゃん」と決別したマコはもうすっかり吹っ切れたようだ。私はこの家にはじめて入った時の服を着て、たたんだボーダー柄の服の上に「オムライス作れなくてごめんね、さようなら」とメモを置く。
玄関の外に出て扉を閉めると、いつかのようにガチャリと音がする。けれど今度は、取り返しがつかないという感じはしなかった。

警察に行く前、私は電車を乗り継いで祖母の墓に立ち寄った。
「(おばあちゃん)」
墓石の前で、私は心の中で祖母に呼びかける。風がつめたく、耳元でびゅうびゅう鳴った。
「(今まで泥棒をしてごめんなさい、私はこれから罪をつぐないます)」
私はある種毅然として言った。マコのように、私もすっきりとした気持ちだった。
「(私、やっと友達ができたよ。ちょっと変わってるけど素直で、可愛い子です)」
また涙がうかびそうになり、覚悟が揺らぐ前に切り上げたいと思う。けれどみじめでかっこ悪い私は、まだ言わなければならないことがあると感じる。
「(おばあちゃん、自分になんにも無くても生きていてよかった。生きててよかったよ)」
だってマコに会えたから。マコが生きていてくれたから。綺麗な目をした、死んでしまいそうだった女の子の、命を拾えたから。
「(ありがとう)」
とうとう涙がこぼれる。私は今度こそ駆け足でお墓を後にした。

電車の中で、私は声を殺して泣いた。ごめんねマコ、携帯買えなくて。お昼ごはん一緒に食べられなくて。こんな形でしか別れられない、どうしようもない「ねね」でごめんね。
私は、初めてできた友達との別れ、そして自分のために泣いた。
ふらりと降りた駅で、交番を探す。いつか罪をつぐない終えても、まだマコにあの親しげな声で、ねね、と呼んでもらえるだろうか。昼間の交番には眠たげな警察官ふたりがいた。私は自分がだんだん緊張していくのがわかり、震えを抑えるために久しく呼ばれていなかった本当の名前を必死で思い出そうとした。


ブロマンス系 書いたのは2013年頃