うそ
傷が治るんだ、と言う人を見たことがある。治るってどういうことなのか訊くと、無かったことになる、と真顔で言った。
「包丁を使うのが苦手だけど、2、3日くらいで治っている」
私はその男性を見つめる。先輩に誘われてなんとなく行った飲み会の、帰りの電車だった。包丁を使うのが苦手ってどういうことだろう。面倒だなぁと思いながら「怪我しちゃうってこと」と訊ねる。
男は真面目くさって頷く。この人がどの席にいて、どのくらい飲んでいたか覚えていない。それ痛くはないの、と仕方なく訊くと、痛いことは痛い、と返事をする。いいな私痣とか治んなくなってきたし、てか料理するんだ、と笑う。ふっと見上げた男の表情が、信じていない、と言っていた。
ふふ、と笑い、窓に頭をくっつける。ガラスの冷たさが心地よかった。作り話を笑い流せるというのは幸福なことだ、と思った。
「じゃあさ、今度ご飯つくってよ」
「いいよ。怪我すると思うけど」
うん、いいよいいよと笑う。目を閉じ、電車の揺れに身を委ねる。無かったことになるならいいじゃない。小さく笑い、私はゆっくり目を閉じた。