マ
バケツは黄色。パレットの端の絵の具は緑。緑だと私が言う度に、ビリジアンだよ、と先生は笑った。
先生の描く絵が好きだ。絵を描く時の先生はもっと好き。斜めを向いた先生の、カンバスを見つめる安らかな表情。
「どう、高校は」
右手を動かしながら先生はたずねる。私は目を伏せ、うん、と答える。膝の上に結んだこぶしが頼りなく見えた。先生は息をもらすようにして笑う。
「真央にはいずれ、ここでアシスタントをやってもらうからね」
「……通ってるよ、ちゃんと」
出した声は負け惜しみのように響いた。先生のアトリエは懐かしかった。
「美術部はあったの」
「……あった、けど」
美術室の匂いになじめなかった、とは言えなかった。先生は黙って筆を動かす。窓からわずかに風が入り込み、アトリエの空気をふるわせた。
忘れ物をした夜、先生の居ないアトリエに一度入ったことがある。鍵は開いていた。暗く狭いアトリエで、バケツも布の掛けられたカンバスも生気が無くて不気味だった。先生が居ないからだ、とわかった。ここに一晩居たら、私もあんな風になる、と思った。
シンクに水を流す音がして、私はふと顔を上げる。先生が目だけで微笑んだ。
「今日はおしまい」
家にお帰り、と静かに言う。先生の声は穏やかなのに、有無を言わせない調子があった。
アトリエの扉を閉め、私は深呼吸をする。五月の夕方のやわらかな空気が心地よかった。
明日は美術室に行けるだろうか、とぼんやり思う。私は静かに足を踏み出した。