遠くにカラスの声が聞こえる。歩いていた僕は立ち止まり、ふっと顔を上げる。西の空から夕暮れが迫っていた。
 夕方はいやねと怜奈が呟いた。少し前を歩いていた彼女の背をちらりと見、うんと返事をする。ビニール袋からのぞいている葱の冴えた緑に目線を動かし、僕は暗澹とする。

 ベッドの中に怜奈は居なかった。自分の脇腹のあたりと、シーツに散った赤をぼんやり見つめる。彼女は齧ることが好きだ。消毒液を取りにそっとベッドから降りる。居間のテーブルの上に、明日の朝には戻ります、の書き置きがあった。
 怜奈が僕といない間、どこで何をしているのか僕は知らない。それでも僕には職も出て行くあてもないので、毎日こうして彼女の帰りを待つ。不満がないわけではないが、怜奈がいないと暮らしていけないと分かっているので何も言わない。
 夕方はいやねと怜奈は言った。僕は朝の方がいやだと思う。朝の、怜奈がいつ帰ってくるのか分からないような時間が。
 消毒液を脇腹に塗る。少し染みたが、ひんやりとして心地よかった。

 次の夜が明ける前に怜奈は帰ってきた。ベッドに潜り込んできた彼女をそっと抱きしめる。怜奈からは夜の匂いがした。
 朝はいやだ、と僕は呟く。肩のあたりに鋭い痛みが走る。やわらかい部分を噛むのをやめてくれたので僕はうっすら満足する。窓から差し込む朝焼けがシーツを照らしていた。怜奈には赤が似合う。地獄の血のような赤が。
 同じ景色を見て、同じものを食べて、同じことをして生きている。そのうち内臓か何かがくっついてしまっても僕は驚かない。
「今日はすき焼きを食べたい」
 怜奈が子供のような声で呟く。うんと僕は返事をする。じゃあまた葱を買わなきゃな、と思う。彼女が肩の皮膚を噛み切る。胸のあたりに生温い血が伝うのを感じ、僕はそっと目を瞑った。