姥捨て山
出るよ、と彼女は言った。ほら、丘の上の。ぼくにそう伝えた人が彼女だったのか彼だったのか、もはや覚えていない。ぼくはその頃ほんの子供で、だから近寄っちゃいけないよとか、早くおうちに帰りなさいだとか、きっとそういった聞き飽きたような言葉と一緒に伝えられたのだろうから。
丘の上には確かにうら寂れた建物が建っていて、子供だったぼくの冒険心をひどくくすぐった。近所の大人たちの間では「あそこに黄色い救急車で運ばれた人がいる」という噂が流れていた。当時のぼくは黄色い救急車という言葉の意味がわからなかった。救急車ということは病院なのだろうが、その人が退院してくるところを見たことは無かった。
ある日ぼくは、無性にその建物に行きたくなった。というのも、もうすぐ工場で働かなくてはならなくなったので、漠然と、入院をすれば働かなくても済む、と思ったからだ。一番上の兄が片目を失って帰ってきたあと、家にいても許されることを知った。ぼくは怪我をすることにして、あの丘の上から滑り落ちようと決めた。
丘といっても小さな山のようなもので、子供のぼくが登るにはなかなか骨が折れた。枝で杖をつき、森のような中をなんとか登りおえると、視界が急に開けてその建物が目に入った。滑り落ちて近くにあるこの病院に運ばれるつもりだったのに、ぼくは建物によばれている気がした。有刺鉄線、そんなものを知ったのはもっと後だったが、その建物はそれで囲まれていた。扉は閉ざされていて、出るよ、と誰か大人が言った言葉を思い出してぼくは震えた。本当に幽霊が出るんじゃないだろうか。ぼくは帰れなくなるんじゃないだろうか。その時、扉が開いて、中からおじいさんとおばあさんが顔を出した。
ぼくは驚いて、ぎゃっと声を上げた。その二人が幽霊なのだと思った。一目散に丘を駆け下り、やっとの思いで家にたどり着くと小便を漏らした。姉に抱きとめられ、涙もだらだら流れた。二度と近付くまい、と思った。
ネオンを見ながら今なら思う。黄色い救急車なんかがたどり着く場所ではなく、きっとあそこはホテルだったのだと。おじいさんとおばあさんは、幽霊なんかじゃなく、山に捨てられたふたりだったのだと。