種馬


 ゆうべは彼女のお腹ばかり見ていた。彼女の呼吸にあわせて上下するタオルケット、ぼくの子供がおさまっているすこやかな丸いふくらみ。その日は一日じゅう雨で、降り続いている雨のにおいが部屋の中にまで満ちていた。うっすら目を開けた彼女が「どこを見ているの」と言い、お腹に手をやった。ぼくは彼女の手に目を奪われる。左手をお腹にあてたのは、わかっていてのことなのだろう。
「外を見ていたんだ、雨、止まないね」
 ぼくは嘘をついた。彼女は返事をせず、再び目を閉じた。

 ぼくの目が覚めるとベッドの中に彼女はいなかった。雨は止んで、日が高く昇っている。買い物に行ったか、台所にいるのかもしれない。そっとベッドから這い出て台所を見に行った。彼女は着替えていて、ぼくの台所へ入った物音に振り返った。
「止んでよかった」
 そうだね、とぼくは返事をした。心の中に苦い水が染み出るのを感じていた。こんなにきれいな晴れの昼間には、彼女の薬指にはまった小さな指輪がひどく目立つ気がする。彼女は言うだろう。また連絡する。朝ごはんを食べましょうとか歯ブラシを買ってきてくれないとか、ぼくが一番望んでいるのはそんな言葉なのに。

 彼女はお腹に両手をやってぼくを見た。お腹をぼくからかばうように。そこにいるのはぼくの子供なのに、ぼくがその子供の顔を見ることはないのだ。
「ねえ」
 ぼくは声を出し、彼女の左手を取った。指輪のつめたい温度がぼくの手のひらに伝わった。
「送って行くよ」
 ぼくの出した声はみっともなく震えていた。彼女は聖母のように微笑み、肯定も否定もせずに首を傾げた。