五百万回の朝と夜
1
森でひとりぼっちのそいつと出会った。手を伸ばしてやわらかな茶色を抱え上げる。そいつは大人しく、私を不思議そうに見上げた。よく見るものだったが、触るのは初めてだった。頬をすり寄せるとくすぐったそうに身をよじった。
かごの中のりんごをよけ、そいつの入るスペースを作る。慎重にかごの中に入れる。わずかに体温が高く、健やかな生命の匂いがした。
膝の草をはたいて立ち上がる。森の奥が見えなくなってきたのでそろそろ夕方だ。今日のご飯は何にしよう。私はかごを抱え、急いで元来た道を戻った。
ただいまあ、と声を上げる。私を見たイリアの眉がひゅっと顰められる。がたんと音を立てて立ち上がり、「そいつに触るな!」と叫んだ。
私は驚いてかごを見る。森で拾ったそいつが顔を出していた。怯えたように耳を伏せ、イリアをじっと見つめている。私もイリアをじっと見ると、イリアは気まずそうに斜め下を向いた。
「いや……ごめん、お帰り」
わずかに微笑んでイリアは呟いた。普段通りのイリアだ。うん、と言い、私はかごの中から採ってきたものを取り出す。
「里のおじさんが釣りしててね、魚と交換してくれた」
うん、とイリアは頷く。読んでいたらしい本を閉じ、ご飯を作ろうか、と穏やかに言った。
「うん!」
私は返事をした。イリアとご飯を作るのは好きだ。何でも知ってるし、たまに面白いことを言ったりする。かごの中から出てきたそいつをそっと撫で、私は先にキッチンに向かった。
夕食を終え、本棚から取り出した図鑑をめくっていた。ちゃんと絵が入っている図鑑だったが、そいつのことは載っていない。
「ねえ、なんで図鑑に載ってないの」
イリアは足元に伏せているそいつを見下ろす。なんでだろうね、と肩を竦めて私を見た。
「イリアにも知らないことがあるんだ」
「そりゃあるよ」
イリアは笑い、森でよく見る獣なのにね、と不思議そうに頭を掻く。ふーん、と私は返事をした。
「じゃあ名前付けよう!」
私はそいつを抱え上げる。目を合わせると、そいつもじっと私を見た。
「りんご」
「もっと紛らわしくない名前にしない?」
私はすこし考える。森に花がたくさん咲いているのを思い出した。
「ハナ」
うん、いいねとイリアは笑った。私はハナを床に下ろす。椅子の下に行き、丸くなって目を閉じた。
イリアは早く眠る。よく眠る、と言った方が正しい。私より先にベッドに入り、私より遅く起き出してくる。
「おはよう」
朝、のっそり寝室から出てきたイリアを眺める。椅子に座って机に突っ伏した彼女を見つめ、目の前にパンとコーヒーを置く。
「里に行くけど、イリアは」
「……フィールドワーク」
眠たげなイリアから目線を外し、ハナの前にもパンと木の実を置いた。イリアの仕事は考古学者、らしい。何をしているのかは良く分からない。
「うん、夕方までには帰るね」
机に伏したままひらひら手を振る彼女を眺め、私はかごを持って外へ出た。
家の前の茂みを抜け、森に入る。木漏れ日が静かに落ち、遠くの方から鳥の声が届く。私は森が好きだ。秋の森は木の実が採れるし、少しずつ色も空気も変わる。足元の茶色を踏みしめ、森の匂いを確かめながら歩いた。
里に行くとにわかに温度が上がる気がする。いつかイリアと里に来た時、人が住んでいるからだねとイリアは言った。その時私はもっと子供で、知らないことが今よりずっと多かった。
「あら、ミズキちゃん!」
里のおばさんが駆け寄ってくる。こんにちは、と挨拶すると、おばさんの後ろから男の子が顔を出した。私より少しだけ背が低かった。
「先生に伝えてくれる、この前いただいたお薬よく効きましたって」
はい、と返事をして男の子を見つめる。男の子はふいと目を逸らした。おばさんが男の子を見、背中に手を回す。
「うちの子」
「……リン」
彼の名前のようだった。私を見ると再び目を伏せる。きれいな金色の瞳だった。
「……ミズキです」
里で同じくらいの男の子を見るのは初めてだった。照れてる、とおばさんが笑う。男の子は足元の棒を拾って駆けていった。
「あの子のケガによく効いたの」
ふふ、と笑ったおばさんに、ふふ、と私も笑った。ふと日が高くなっているのを見て、私は里を見渡す。
「ミズキちゃんは、今日は」
「ご挨拶回りです」
イリアに社会性が無いので、と言うと、おばさんは声を出して笑った。
「気を付けてね」
手を振る彼女に頭を下げ、私は駆け出した。
家に帰り着くと灯りは消えていた。ただいまあ、と声を上げるとハナが駆け寄ってくる。イリアは眠ったんだな、と思いながら私はハナの首のあたりを撫でる。
イリアの机から紙を一枚取り、リビングのテーブルに置く。『里のおばさんが、この前いただいたお薬よく効きましたと言っていました』と書き、私はキッチンに向かう。ゆうべ煮たスープが残っていたので、それとパンを食べることにする。
文字はイリアに教わった。たくさん本があるのでそれも読んだ。それでも私はイリアの子供ではないらしい。ずいぶん前にイリアが教えてくれたが、それを特に寂しいと思ったことも無い。
食べ終わったお皿を下げ、イリアの寝室に向かう。イリアがむこうを向いて寝息を立てていた。規則正しく動く掛布を眺め、そっと隣に寝そべる。ベッドサイドの灯りを点けて持ってきた絵本を開く。いつの間にか入っていたハナが、ベッドの下にすり寄って伏せた。
2
「先生!」
声を掛けられ私は振り返った。眼鏡の女生徒が駆け寄ってくる。午後の講義を終えた後で、丸い講堂はさざめくようなお喋りで満たされていた。
「ん、分からない所でもあった」
眼鏡の女生徒は照れたようにはにかんだ。あまりできが良くなく、普段から何かと私に質問する生徒だった。今日は違います、と生徒はおかっぱ頭を揺らす。
「顎髭が呼んでましたよ」
「うわ、何だろ」
私は頭を掻く。顎髭というのは教授のあだ名だった。年中髭を生やしているのと横柄なのとで、生徒の間で不名誉な呼ばれ方をしている。学長室ですって、と生徒は私を窺うように見る。
「行ってみるね、教えてくれてありがとう」
言い、私は講義で使った資料をまとめる。講堂を出ようとすると、先生、と声が届く。
「今度免疫教えて下さいね」
「うん、質問ちゃんとまとめて来てね」
はぁい、と不満げに返事をする女生徒に手を振り、私は講堂を後にした。
学長室には既に教員が集まっていた。お疲れ様です、と小さく言い、後ろの端の席に座る。立っていた顎髭が私をちらりと見、ホチキスで留められた資料を手渡す。機密、という文字が目に入った。
「……日々学校運営に尽力ご苦労様です、今回お集まりいただいたのは国から大学への指示が出たためです」
前の席に座っていた学長が口を開く。資料のページをめくる音がかすかに響き、私は学長を見つめた。
「ヨーロッパの方で起きていた原因不明の突然死ですが、微生物が原因であることが研究により分かりました。共通していたのが少し前に野生の動物を触っていたことで、恐らくですが食事を摂らなくなり、一週間後の致死率は80%……」
80パーセント、と私は頭の中で繰り返す。言い間違いではないかと思ったが、学長は目を伏せたまま続ける。そっと辺りを窺うと、教員達は戸惑ったように顔を見合わせていた。
「……わが国も微生物の研究と撲滅に乗り出しました、現在分かっているのは哺乳類に住み着く寄生虫のようなものであること、微生物の進化が異常に速いこと、栄養の吸収力が非常に高いこと……」
学長が資料をめくる。手元の資料をそっとめくると、顕微鏡から覗いた状態の微生物の写真が載っていた。アメーバのような外見で、0.01mm、と写真の横に書いてある。
「えー……この微生物について、皆様にも研究を依頼したいということで……」
学長、と少し前に座っていた教員が遠慮がちに挙手した。顎髭が彼を見やり、どうぞ、と呟く。
「危険はないんですか」
「研究用具と防護服が送られています、学校側も皆様の安全を最優先に考えています」
教員達がにわかにざわめく。静かに、と顎髭がやや大きな声を出す。
「……しばらく授業は中止、生徒は自宅待機にする予定です、三ヶ月間の学校設備の改築だと説明するのでくれぐれも生徒に気取られないように、保護者や生徒から何か質問があれば私までお願いします」
学長は下を向いた。顎髭が咳払いをして口を開く。
「先生方からご質問があれば私まで、学校の閉鎖は来週からの予定です、よろしくお願いします」
来週、と再び頭の中で繰り返す。三ヶ月間だけだ、と思い、私は資料を折り畳む。ふと窓の外を見ると、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。
ただいまあ、と声を上げながら玄関を開ける。リビングに顔を出すと、おかえり、と母親が微笑んだ。
「お父さんは」
「もうすぐ帰ってくると思うけど」
んー、と返事をして自室に向かう。鞄を置いてリビングに戻ると玄関が開く音がした。おかえり、と玄関に向かって声を出すと、ただいまあ、と返事が返ってくる。ご飯なに、と母親の方を向くと、キッチンから鍋を運んでくる姿が見えた。
「来週から学校で研究だって」
「いつも研究してるんじゃないの?」
「いやなんか急に、ヨーロッパの微生物の話で」
シチューの人参をよけながら返事をする。へえ、と父親が呟いた。
「授業はそのままなのか?」
「中止だって。三ヶ月間」
大変ねえ、と母親が小さく言う。三ヶ月だけだし、と母親を見ると、体に気を付けてね、と笑った。
「そういえばお兄ちゃん、再来月帰ってくるって」
「へえ、今どの辺に居るの?」
アジア、と言いながら母親がスマホを取り出す。なんていう国だったっけ、と言いながら写真を開いた。南国のような景色が広がっていた。
「忙しいんだな」
父親が頷く。お土産何かなあ、と呟くと、リクエストしておいたら、と母親が真顔で私を見た。
研究はとどこおりなく始まった。学校に長くいるわけでもなく、経歴の長い教員に言われるまま数時間毎に顕微鏡を覗いた。たまに顎髭が見に来たり、学長からの差し入れがあったりした。
「ん……?」
数時間前より少し大きくなっている気がする。私は、先生、と初老の教授に声をかけた。
「少し大きくなった気がします」
教授は目を細めて顕微鏡を覗く。確かに、と彼は呟いた。
「私は形も変わったような気がしますね」
教授を見上げる。ふふ、と彼は笑った。
「ジョージ先生に伝えてきましょう」
私は彼の背を見つめ、再び顕微鏡を覗く。濁った緑色がわずかに動いていた。
教授と入れ替わりに顎髭が入ってくる。ちらりと私を見て頷き、顕微鏡を覗き込む。しばらく無言で考え込み、写真を撮っておくように、と短く言った。
はい、と返事をして顎髭からカメラを受け取る。撮って顔を上げるともう顎髭は立ち去っていた。私は辺りを見回し、帰ってきていた教授に声を掛ける。
「カメラ、どうしたらいいでしょう」
「数時間毎に撮っておいてあげると嬉しいんじゃないかと思います」
教授は片頬で笑った。私は頷き、白衣のポケットにそっとカメラを入れた。
帰宅禁止の指示が出たのはその日の夕方だった。実験室のようになった空き教室で、他の教員と交替で休憩を取っているところだった。前の扉から入ってきた顎髭がにわかに疲労しているのが分かった。
「学長より、先生方は本日学校に泊まっていただくように、とのことです」
私は顎髭を見つめる。他の部屋も回っているんだろうと思い、はい、と返事をした。一緒に休憩を取っていた教員が、子供に電話をしてもいいですか、と遠慮がちにたずねる。
「構いません、学長室でお願いします」
顎髭と教室を後にした彼女をぼんやり眺める。おおごとのようですね、と初老の教授が呟いた。
「教授はいいんですか、電話」
「私は身軽な独り身なので」
おどけたように肩を竦める彼を見る。ふふ、と笑い、両親に連絡はしておこうかな、とスマホを取り出す。皆さん使ってますね、と感心したように教授が頷いた。
「あ、便利ですよ」
「持てと言われるんですが、なんだか面倒くさくて」
前の扉から顎髭が入ってくる。初老の教授をじろりと見て、非常時の寝具を持ってきたので空き教室で仮眠を取ってください、と声を出した。寝袋を置いて部屋を出て行った顎髭を見て、仲いいんですか、と私は訊ねる。
「私は好きですよ、誤解されやすいようですが」
あっさりと言い切った彼を見上げる。へぇ、と頷き、私は頭を掻いた。
次の日も、その次の日も学校に泊まるように指示が出た。様子を見て写真を撮っていたが、覗く顕微鏡が数時間で入れ替えられるようになった。にわかに疲労を感じ、ぼんやり窓の外を眺めていると顎髭が私を呼ぶ声が聞こえた。
「ご家族の方から電話だ、学長室に来るように」
顎髭に続いて学長室に入ると誰もいなかった。学長は問い合わせの対応をしている、と私に受話器を手渡す。もしもし、と言うと、忙しいの、と母親の声が聞こえた。
「うーん、忙しいっていうか、まあ」
顎髭の視線を感じて私は言葉を濁す。そう? と返事をする。お兄ちゃんがお土産、お菓子にしようと思ってるって言ってたの伝えるね、明日お父さんと買い物だから昼間いないからね、あ、白衣のポケットに紙とペンが入ってたの机に置いといたから……。
うん、うん、わかった、と私は返事をした。張りつめていた心がゆるむのを感じた。最後の、携帯充電しといてね、に小さく頷いて私は電話を切る。窓の外を眺めていた顎髭に受話器を返し、お疲れ様です、と呟いた。
「携帯の充電器か何かってありますか」
いつ帰れるんですかと言うのは気が引けてそう訊ねた。倉庫になければ無い、と短く言うと、学長室の奥の扉が開くのが見えた。私に手で挨拶し、顎髭は奥の扉に消えていった。
小さく息をついて学長室を後にする。廊下の窓からビルや道路なんかを見下ろす。外に行きたいなぁ、と思った。
空き教室に戻ると、一緒に休憩を取っていた教員と初老の教授がスマホを覗いていた。私の姿を確認し、ニュースになってるんですが、と彼女が呟く。
「各国で散発していた突然死は寄生虫が原因だった、哺乳類を宿主にする、寄生虫の進化が速いため哺乳類は隔離、体調不良などがあったら病院や保健所に連絡を……」
「うーん、こんな軽い感じなんでしょうかね」
初老の教授が腕を組んで息を吐いた。ねえ、とスマホを覗いている教員が頷く。
「学長が、致死率80%って……」
顎髭が教室の扉を開ける。険しい表情をしている彼を思わず凝視する。すみません、先生方はしばらく学校に泊まっていただくようお願いします、と顎髭は息を切らせて言った。
「何かあったんですか」
「詳しいことは学長から説明があるかと思います、今体調がよくない先生はいらっしゃいますか」
「いえ……」
「分かりました、食事やシャワーの手配は今日から行います、よろしくお願いします」
教員が学長室に集められたのはその日の夕方だった。なんとなく空気が重く、誰も彼も疲弊しているように見えた。一緒に休憩していた教授達を見つけて近くの席に腰掛ける。初老の教授が私を見、仕方なさそうに肩を竦めた。
「……微生物の研究へのご協力ありがとうございます、えー……研究資料を国に送付したところ、関係者はしばらく学校に宿泊するようにとの指示が出ました」
前に座っていた学長が、机に目を落としたまま口を開いた。学長室が静まり返るのがわかった。挙手した教員が、研究はどうなりますか、と硬い声で尋ねる。
「研究は中止だそうです、微生物は後日政府の方が回収に来るらしく……その際に今後のことをお伝え下さるそうです」
「後日って、いつ頃ですか」
「具体的な日付はまだ……本日連絡します」
「それまで学校から出られないんですか」
学長が黙り込む。重苦しい沈黙が流れ、私も思わず息を吐いた。しばらくして顎髭が、学長、と小さく呟く。
「……微生物について今分かっていることをお話します、引き続きご協力をお願いします」
現在は3cm程のミミズのような外見をしている。おそらく数日でアメーバの状態から進化したのだろう。哺乳類に寄生する恐れがあるため実験用の暗室に隔離してあり、鍵は学長が保管している……。
「……なんだか、最低限の情報って感じでしたね」
空き教室に戻り、用意された弁当に手を付けながら教員が呟く。白髪の混じり始めた生え際を眺め、この人の子供は何歳ぐらいなんだろう、と思った。
「人類は進化の早い微生物に滅ぼされた、なんてことに」
初老の教授が重々しく呟く。誰も何も言わないので、彼は小さく咳払いをした。
「……でも、これからどうなるんでしょう」
思わず口を開いた。二人が顔を見合わせる。教員が弁当を置き、顎髭の持ってきた非常用の袋を探った。スマホは充電器が無くて今使えないんですが、と彼女は携帯ラジオを取り出す。
「……哺乳類を扱っている施設は閉鎖、野生の哺乳類やその死骸には決して触れないようにお願いします、動物を飼っているご家庭は保健所の者が検査に伺いますのでご協力を……」
あら、と教員は眉をひそめる。これは、と初老の教授も呟く。
「広がっちゃった、ってことですか」
「……学校にいた方が安全かもしれませんね」
私はうつむいた。この後どのくらいの速さで進化するんだろうと思った。けれどそれを口にするのは憚られ、黙って膝の上の拳を握る。両親や兄の声を聞きたい、と思った。
3
靴を脱いで足を川に浸す。遠くに見えるイリアの背を眺め、私は持ってきた本を開いた。フィールドワークに一緒に行きたい、と言った時、面白いことは無いと思うよ、とイリアは肩を竦めた。
「やることが無いと生きていけなくて」
イリアは大げさだ。今日は川底に沈んだ金属を漁っているらしい。瓶に詰めてほんの少しだけ持って帰る日もあるが、全部戻してしまう日もある。その瓶もいつの間にかなくなっていたりする。木陰でうとうとしているハナを撫でていると、森の遠くから声が聞こえた。
「ミズキちゃん!」
声のした方を振り返る。里のおばさんが大きく手を振っていた。近くでリンも川に釣り糸を垂らしている。私は本を閉じ、手を振り返して立ち上がる。
「元気そうだね、少し背が伸びたんじゃない」
「はい」
11になりました、と付け足すと、あら、とおばさんは目を丸くした。
「うちの子と同じ」
川面を眺めていたリンが振り返る。近くに置いてあったかごを抱え上げ、おばさんの足下に置いた。
「大漁」
リンは満足げに頷いた。ひさしぶり、と声を掛けると、ん、と返事をする。
「その獣はなに」
「一緒に住んでるの、ハナ」
私の後ろから顔を出しているハナを抱え上げる。ふうん、とリンは頷いた。おばさんはイリアを探しに行ったようだった。
「どこに住んでるの」
「森」
もり、と繰り返し、学校には行かないの、と続けた。
「学校?」
「学校」
リンを見つめる。金色の瞳は不思議そうに私を窺っていた。
「ミズキー」
イリアの声に川の方を振り返る。里のおばさんとイリアが連れ立って歩いていた。
「その子、里の男の子は」
「リンです」
ミズキがたまに話してるよ、とイリアは笑い、お茶でもどう、と私とリンを順番に見る。はい、とリンはイリアを見上げて頷いた。
家に他の人を入れるのは初めてだった。物珍しげにリビングを眺めているリンに座るよう促し、イリアはキッチンに向かう。
「本がいっぱいある」
「イリアの本」
リンに返事をすると、へえ、と驚いたような声を出した。私はなんとなく誇らしい気持ちで椅子に座る。リンも用意された椅子に腰かけた。
「リン君は学校に行ってるの?」
キッチンから出てきたイリアがたずねる。はい、とリンは返事をした。マグカップを三つテーブルに置き、イリアも椅子に座る。
「いいよね、学校は」
「先生も学校に行ったんですか」
「ずっと昔、ほかの学校にね」
リンは神妙に頷いた。マグカップの紅茶に口をつけ、私は二人のやりとりを聞いた。
「学校で何を勉強したんですか」
「医学」
いがく、とリンは繰り返す。ぼんやりイリアを見つめているリンに、学校でもやるの、とたずねる。リンは首を横に振った。
「近くはビルが多かったんだけど公園もあってね、そこでお弁当を食べるのが好きだったんだ……」
目を伏せて夢見るように呟いているイリアを眺める。リンに、あんまり気にしなくていいよ、と耳打ちした。ビルって何とか、公園って何とか、聞いても返ってこないよ。リンは私をちらりと見て頷いた。
「おかわり飲む?」
マグカップが空になっているのを見たイリアがたずねる。外で遊んできてもいい、と私はイリアを見た。行ってらっしゃい、暗くなったら帰っておいで、とイリアは微笑んだ。
リンを見送り、家のドアを開ける。駆け寄ってきたハナを撫でてからリビングの灯りを点ける。イリアがテーブルに突っ伏してうたた寝しているのを見て、ただいま、と声を掛けた。
「……おかえり」
のっそりと顔を上げ、イリアは頬杖を突く。少しの間ぼんやりして、ご飯何にする、とかすれた声で呟いた。
「私も学校に行きたい」
学校……、とイリアは繰り返す。里の学校、と付け足すと、しばらくして、うん、と返事をした。
「今度里に行って聞いてみようか」
まだ眠そうな声でイリアは言った。うん、と返事をして、ご飯はパンがいいな、とイリアの肩に毛布を掛ける。
「起きるよ」
笑みを含んだ声でイリアは言う。ご飯を食べなきゃね、とささやく彼女の足元にハナがすり寄る。ハナの頭を撫でるイリアを見て、私はキッチンにパンを取りに行く。
4
「ケイト先生、コロニー2で配布だそうです」
青年の声に私は振り返る。右手の携帯ラジオを持ち上げてみせるので、机に置いてある包帯を端によけた。どうも、と片頬で笑い、彼はラジオを机に置く。
「俺行ってきますけど、何かいります」
「今回はいいや、ありがとう」
ラジオから流れる品目を聞き終え、私は彼に笑いかける。青年は急に真顔になり、笑うといいっすね、と私の顔を見た。
「何歳ですか」
「36」
診療道具をしまいながら返事をする。へぇ、と呟いた彼が、でも生きてるって奇跡だぜ、とラジオをポケットに入れる。お互いにね、と返事をすると、青年は肩を竦めて枝や材木なんかを集めてある方へ向かっていった。
「ケイト先生、この子がそこで転んでしまって」
幼児を抱いた母親が近付いてくる。四つか五つだろうか。消毒液を取り出しながら、どうぞ座ってください、と笑いかけてみせた。
寄生虫が発見されてから七年が経った。致死率80パーセント、今はもう少し高かったのではないかと思う。嘘のように人が死に、奪い合いや詐欺が蔓延した。政府は機能しなくなり、ニュースはいつの間にか流れなくなった。ラジオ局に人がいないんじゃないかと、まことしやかに噂が流れた。
生き残った人は恐ろしい迫害を受けた。窓の割れた学校の体育館で怪我人を診ながら、人間があんなに残酷であることを知らなかった、と思った。
擦りむいた膝に絆創膏を貼ると、先生ありがとうございます、と母親が言う。幼児に、もう大丈夫だよ、と話しかける。うつむいて母親に抱きついた女の子を見てから、大変でしたね、と声をかけた。
「ええ、でもようやく落ち着きそうで」
母親はほっとしたように息をつく。三ヶ月前、寄生虫の細胞分裂を速め、アメーバの状態のまま死滅させることに成功したとニュースが流れた。人間の次に哺乳類に寄生することは稀だったため、それで事実上の収束となった。
「そういえば、ジョージ先生が探してましたよ」
「分かりました、今どこにいますか」
あ、急ぎじゃないみたいです、と母親は付け足す。
「ケイト先生に会うことがあったら伝えてほしいって」
「……じゃあ明日にしようかな」
私は頭を掻く。あちこちの集まりに出ていて捕まえる方が難しい。暮れてきた窓の外を眺め、小さく息をついた。
「頼りにしてます、お医者様が二人もいて下さるなんて」
「何かあったらすぐ仰って下さいね」
すっかり慣れた医者らしい言葉を発し、母親と幼児に微笑みかけた。
家に帰り着くとヴェラがもう帰っていた。おかえり、とキッチンから顔を出すヴェラに、ただいま、と声をかける。
「今日はごめん、適当」
豆と缶詰の魚を炒めた皿をテーブルに置く。彼女の横顔に疲労が滲んだのを見て、お疲れ様、と呟いた。ヴェラとは数年前から一緒に暮らしている。両親が死んで兄とも連絡は付かず、家族と住んでいた家で一人で寝起きすることにそのうち耐えられなくなった。同じように拠り所を無くした若い女は他にもいて、そのうちの一人がヴェラだった。
「人がいない」
目を伏せて大きく息をつく。彼女の率直な物言いにぎょっとすることもあるが、裏表がなく快活なヴェラを今や好もしく思ってもいた。
「明日は私がご飯作るよ」
言うと、ありがと、と目を上げる。ヴェラは今、コロニーで野菜を育てる仕事をしている。5歳は若いであろう彼女は以前結婚していたらしかった。私も7年前は学校にいたのだ、と思うと、ずいぶん遠くまで来たというような気がした。
診療所に出向くと外壁にポスターが貼られていた。「寄生虫は口減らしをしたい政府の陰謀だった!」と書かれたそれを剥がして鞄に入れる。たまにこういうポスターが貼られていることがあり、捨てずに政府に提出しているらしかった。顎髭の机に置くと、ポスター置き場に置いて下さい、と背後から声が聞こえた。
「……ジョージ先生」
「探していた、これから出られるか」
はい、と頷いてポスターを再び鞄に入れる。書類を置いてある机のポスター置き場は山崩れを起こしそうだった。後で整理する、と彼は小さく息をつく。
「あ、やっておきます」
すまない、と頷き、顎髭は踵を返した。早足で診療所の入口に向かう背を眺め、私は慌てて後を追う。
顎髭が向かったのは簡易墓地だった。わずかに雑草がみえる地面に、木や石で造った十字架が建てられている。ここは形だけで亡くなった人は眠っていないらしいが、どこに亡骸があるのか私は知らない。
「今は一人で暮らしているか」
並んだ十字架をぼんやり眺め、顎髭は口を開く。ルームメイトと二人で住んでいます、と言うと、そうか、と呟いた。
「若い医者はいるかと政府の方から連絡があった」
私は思わず顎髭を見る。十字架を見つめている彼の表情は見えなかった。
「明後日来るそうだ、声を掛けるので会ってほしい」
「引っ越すことになったりするんですか」
わからない、と呟く。しかし今この辺りにいる医者は俺とお前だけだ、と付け足した。学校にいた人達のことを思い出しそうになり、私はぎりぎりの所で踏みとどまる。
「…………はい」
うつむいて呟く。顎髭にも妻と娘がいたらしかった。たった7年しか経っていないのに、何もかも遠い昔の出来事のようだった。
5
緑の島がひとつありました。ひとつの島の、森の奥から獣がやって来ました。獣は人間を呼び、人間は島に里を作りました。そうして獣と人間は共に暮らすようになりました……。
「ミズキ」
声をかけられ顔を上げる。リンが夕陽を背にして立っていた。
「そろそろ下校だって」
うん、と私は返事をする。さっきまで周りで遊んでいた生徒たちが遠くの方を歩いている。ずいぶん長いこと本を読んでいたようだった。
「何の本を読んでたの」
「歴史の本」
立ち上がり、本を鞄にしまう。ふうん、と頷いてリンは隣に立った。
「母さんがまた先生に薬もらいたいって」
「うん、伝えておくね」
おばさんは最近寝込んでしまうことがあるらしかった。疲れが溜まってるんだと思うよ、とイリアは言う。それで二年ほど前から、たまにリンと夕食を摂ることがある。
「今日はどう」
今日は元気そうだった、と頬を緩めるリンをそっと窺う。ふいに目を上げ、先生若いよな、と呟いた。
「そうかな」
「うん、若いと思う」
里の入り口で立ち止まり、リンは手を振る。また明日、とかすかに笑って背を向けた。
家に帰るとイリアがキッチンに立っていた。おかえり、と顔を出すイリアに、ご飯つくってるんだ、と声をかける。
「たまにはね」
すこし笑ってイリアはキッチンに引っ込んだ。駆け寄ってきて匂いを嗅いでいるハナをひとしきり撫で、ねえ、とキッチンの方を向いて声を出す。
「学校の図鑑にハナが載ってた」
へえ、と返事をするイリアの隣に立つ。鍋を覗き込むと魚と野草が入っていた。
「新しい図鑑なんだ」
「文字も違う」
「私の本は昔のだからかな」
ふうん、と頷いてから、コンソメにして、とイリアを見上げる。今日は塩、といたずらっぽく笑うイリアを見て、先生若いよな、と言ったリンの声がふっと蘇った。
「ねえ、イリアって何歳」
「236歳」
「真面目に答えて」
「36歳」
多分ね、と呟くイリアを眺める。よく分からない冗談を聞き流し、鞄から本を取り出してリビングの椅子に腰かけた。
イリアの叫び声で目が覚めた。目をこすりながらベッドから下り、イリアの部屋に向かう。うすく明かりの差し込む部屋で、イリアが肩を抱いて震えていた。
「ひ、人が死ぬ、どこに置いたらいいか」
私はキッチンに急いだ。震えるイリアの背を撫でてコップを渡すと、ぼんやり眺めて口をつける。飲み干したのを見届けてから、どうしたの、と声をかけた。
「……ミズキ、ごめん」
怖い夢を見た、と小さく呟くイリアを見つめる。もうすぐ朝だよ、と言うと、うん、と子供のように頷く。
「部屋に戻るね、おやすみ」
イリアの掛布を肩まで持ち上げる。おやすみ、と息をつくとすぐに寝息が聞こえ始めた。昼頃まで起きてこないだろうと思いながら、私は薄明るい窓の外を眺めて部屋に戻った。
6
「政府の方」は二人でやって来た。診療所を出てしばらく歩き、大きな建物の扉を開ける。どこかの学校をそのまま使っているらしく、なんだか懐かしい匂いがした。
「……突然の話に対応いただきありがとうございます、現在はこちらの建物を政府が借りています」
廊下を進みながら白髪の男性が口を開く。はい、と返事をしながら隣を窺う。顎髭より高齢のようで、目尻に皺が寄っていた。
後ろを歩いていた女性が右側の扉を開ける。応接間のように設えられた部屋に入り、男性はソファに座るよう促した。そっと腰掛けると、男性が鞄から冊子を取り出して机に置く。「リヴィエラ計画」と表紙に書かれていた。
「寄生虫による被害について未だ全貌は掴めていません、政府は各コロニーの様子もようやく把握出来るようになったところです」
正面のソファに座った男性を盗み見る。男性も私を見ていたので、なんとなく気まずく机の冊子に目を落とした。
「今回、寄生虫そのものより恐ろしかったのは人間同士で傷つけ合ったことでした、コロニーによっては未だ物資が足りていない場所もあるようです」
私は返事をできずに押し黙った。その通りだ、と思った。男性は小さく息をつき、机の冊子を開いた。
「寄生虫を死滅させられるようになった今、政府は生き残った人々を安全な島に移住させる計画を立てました」
開かれた冊子に目を落とす。島の見取り図と、鮮やかな緑の中に家が点在している写真が目に入った。
「ケイトさんにはその島で、移住した人々の体調などを診ていただきたいと思っています」
私は顔を上げた。男性と目が合うと、彼はわずかに微笑んだ。そこに私も移住するということですか、と思わず訊ねる。
「お返事をすぐにとは言いません、考えて下さればと思います」
家に帰り着くとヴェラがラジオを聴いていた。おかえり、と言い時計を見る。6時半を指しているのを見て、ご飯にしよっか、とはにかんだ。キッチンに向かおうとするヴェラの背に、あのさ、と声をかける。
「引っ越すことになるかもしれない」
ヴェラは振り返った。仕事で? とたずねる彼女に、うん、と小さく返事をする。自分ひとり安全な島に移住するとは言えなかった。
「……ケイトはお医者さんだもんね」
ヴェラはじっと私の目を見た。
「スマホが通じるようになったら連絡してね」
「うん、落ち着いたら会おうね」
手帳に電話番号を書き付け、ページを破って手渡した。淋しがったりしない方が傷が浅くて済むことを、私たちはよく学んでいた。
診療所の扉を開けて奥の机に向かう。暗い室内の中、顎髭が診察用の机で書類仕事をしていた。目が合うと、コロニーのことは心配しなくていい、と呟いた。
「……まだ何も言ってないです」
「どんな話があったのかは分からないが、お前の思うようにするといい」
「……島に移住して、そこで医者をやってほしいって」
そうか、と顎髭は目を伏せた。国の政府だ、妙なことにはならないだろう、と続ける。
「その話は受けたいのか」
私は黙り込んだ。受けたいというより、受けた方がいいのだろうなと思うくらいだった。ここに医者が二人もいるよりは、島に医者がいないのなら行った方がいい。どのみち今や天涯孤独なのだった。
「……受けようかと思っています」
そうか、と顎髭は再び呟く。深く息をつき、世話になったな、と続けた。
「ジョージ先生も、お元気で」
書類に目を落としたまま顎髭は片手を上げた。私も手を振り、診療所を後にした。
再び私は政府が借りている学校にいた。今回は以前の男性一人のようだった。私を見て微笑み、どうぞ、と応接間のソファを示す。
「先日はありがとうございました、こんな状況ですから、怪しんで来てくれなくなる方もいるんですよ」
私はどう返事をしていいのか分からず黙って頷いた。机に置かれた冊子を見、正面に座った男性を見る。
「先日のお話を引き受けたく伺いました」
男性は私を見た。ありがとうございます、と深く頭を下げる。顔を上げて冊子を開き、彼は写真を示しながら説明を始めた。
所有者のいなくなった無人島を政府が整え、川を引いて家を建てました。肥沃な土壌に植物を植え、野菜や果物を採れるようにしました。争いの起こらないよう、人口密度が低くなるように設計しました。
男性がふいに目を上げ、東洋の言語はご存じですか、とたずねる。兄の部屋にあった本を思い出して私は呟く。
「……読めませんが、辞書があれば少しなら」
分かりました、と男性は返事をした。帰りたくなったりすると良くないので、別の言語を公用語にすることを考えています、と続ける。英語を使ってもいいんですよね、と思わずたずねる。
「もし公用語にならなくても大丈夫です、移住する方も英語圏の方々です」
私は頷いた。さて、と息をついて男性は冊子を閉じる。
「……島には哺乳類もいます、政府の者が何度も行き来して確認しているので問題ないとは思いますが、万が一ということがあります」
思わず男性を見る。真剣そのものといった表情だった。私は頷き、彼の次の言葉を待った。
「寄生虫の感染を防ぐワクチンを政府が開発しました、移住する皆様に打っていただいているものです、今から医務室にご案内します」
分かりました、と返事をする。寄生虫ももちろん恐ろしかった。私は立ち上がり、扉に向かった彼の背を追った。
7
ミズキお姉ちゃん、と手を握られる。振り返って見下ろすと、下級生の女の子が獣を抱いていた。どうしたの、と言い獣を撫でる。毛は硬く冷たくなっていた。
「先生の所に行こうか」
言い、女の子の手を握り直す。うつむいたまま女の子は小さく頷いた。
机のない教室に円になって座る。布の掛けられた獣を不安げに眺めている生徒を見、先生が口を開いた。
「この獣は森に還りました」
私は先生をそっと窺う。斜め下を見ていた彼女が目を上げ、もう動くことはありません、と続ける。生徒たちは神妙に頷いた。
「命あるもの、いつかは死んで森に還ります」
私はいつか明け方に飛び起きたイリアを思い出した。イリアも人が死ぬと言っていた。数年前のあの時、死ぬとはどういうことなのだろう、とぼんやり思った。
「死んでゆく命もあれば、新たに生まれる命もあります、ついこの間にも、アマネさんに妹が生まれました」
下級生たちがにわかにざわめく。アマネという子が照れくさそうにはにかみ、誰からともなく拍手が上がった。
「獣は森に弔いましょう」
「……そういうことがあってね、今日は学校で森に行ってきた」
へえ、とキッチンに立ったままイリアは返事をする。丸めた背中がなんとなく以前より小さくなった気がして、思わずじっと見つめた。
「ハナも年を取った」
床に寝そべっているハナを撫でていたリンが立ち上がり、リビングの椅子に腰掛けて両手を組んだ。リンが来る日はイリアが食事を作る。今日は魚ときのこのソテーらしかった。
「二人はさ、一緒に住んでみたいとは思わないの?」
出し抜けにイリアがたずねる。キッチンから皿を持ってきてそっとテーブルに置いた。私は何も言えずイリアの顔を見る。瞳は面白がるように光っていた。
「一緒に、って」
「16で学校は卒業じゃない」
「……そうだけど」
私はリンの横顔を窺った。両手を組んだまま固まっている彼から目線を外し、イリアは、と呟く。
「いつまでも一緒にいる、というわけにはいかないよ」
イリアは目を伏せた。どうしていつまでも一緒にいられないのか分からなかった。けれど里で少し年上の男女が二人で住んでいるのも見たことがあった。
「……いきなり言われても」
私は下を向く。今すぐじゃなくてもいいよ、とイリアは笑った。考えておいてほしいんだ、と。床に寝そべっていたハナが私の足元にすり寄り、眠たそうに目を閉じた。
夜、私はイリアの部屋をたずねた。枕を持って行こうかと思ったが、16で学校は卒業だと言われたことを思い出してやめた。
「どうしたの、ミズキ」
珍しくまだ眠っていないらしく、ドアを開けたイリアは不思議そうに目を瞬いた。ううん、と呟いてベッドに座り、部屋の中をなんとなく眺める。
イリアの部屋は以前より散らかって見えた。床に積まれた本の上に衣類が置かれ、机にはノートや紙切れが重なっている。椅子に座ったイリアを見、死ぬってどういうこと、と私はたずねた。
「……どういうことだろうね」
イリアは疲れたように息をもらした。先生はなんて言ってたの、と続ける。
「死んだら森に還るって」
「じゃあそういうことなんだよ」
私は押し黙った。それじゃあわからない、と思ったが、どう訊ねればいいのか分からなかった。
「……イリアは、どうして私を拾ったの?」
昔に、森で拾った、と聞いていた。イリアは目を伏せ、ひとりぼっちだったから、と呟いた。
「ふうん……」
私は目線を外した。ハナと一緒だ、と思った。
「そういえばアマネさんって子がね、妹が産まれてイリアに」
名前付けてほしいって、と再びイリアを見る。彼女は背もたれに寄りかかってうたた寝をしていた。私は息をつき、ベッドにあった毛布をそっと掛けた。
8
鳥が飛んだ。ぼんやり窓の外を眺めていた私は室内に目線を戻す。文字の書き取りをしている子供たちの表情は真剣そのもので、少しぼうっとして彼らを眺めた。
「そろそろ休憩にしようか」
鉛筆を置く音が響く。私の次の言葉を待っている様子の彼らに、外に行ってもいいし集会所にいてもいいよ、と声をかける。暗くなったら戻っておいで、と。
歓声を上げて部屋から出る子供の背を眺め、再び窓の外に目をやる。緑のあいだから落ちる日は眩しいくらいだった。平和だ、と思った。
移住してから半年ほどが経った。島にはほんとうに緑が溢れ、野菜や果物がよく採れた。外が明るくなったら起き出し、暗くなれば家に帰って眠った。常に気を張らなくていいという暮らしがこんなに素晴らしいものだったのかと、私は信じられないような気持ちだった。
図書室で本のページをめくっていると(用意された本はもちろん東洋の言語だった)、子供が二、三人で部屋の入り口に立っているのが見えた。手を止め、彼らの方に顔を向ける。
「イリア先生」
遠慮がちに呼びかける子供に、どうしたの、と返事をする。うちのお母さんが先生を呼んで来てって、と子供は不安げな声を出した。
「お腹が痛いって」
わかった、と言い本を閉じる。子供達の親の中に大きなお腹を抱えた母親がいた。私は立ち上がり、彼らに笑いかけてみせた。
家に帰った時にはすっかり日が落ちていた。手探りで電灯のスイッチを点け、真新しい椅子に腰掛ける。ゆうべ煮たスープと塩漬けにした魚を夕食にしようと思い、私はぼんやり室内を眺めた。
医学書は英語だった。持って行く本も無かったので用意されたままそれを読んだ。ほかに図鑑や百科事典、白紙のノートも用意されていた。読む物と書く物があるのは集会所にある図書室と私の家だけだと聞いていた。事実そのようで、これまでに何度か診てほしいと人が訪ねてきた。図書室にある本の読み方を教えてほしいと言う大人もいて、毎日それなりに忙しく日々を過ごしていた。
食べ終わったスープと魚の皿を下げ、家に取り付けられたシャワーを浴びる。あの政府の男性と島を一回りしたあと、名乗る名前を変えさせてほしい、とも言われた。移住する皆様にお願いしている、と。私はかまわなかった。それでこの島ではイリアになった。
コロニーにいた人達のことを思い出さないわけではなかった。コロニーのことは心配しなくていいと言った顎髭、スマホが通じたら連絡してねと言ったヴェラ。スマホは持って行ったが、通じるようになる気配は無かった。
電灯を消してベッドに入る。目をつむり、明日も母親の様子を診に行こう、と思った。緑あふれる、静かな森の島で、私はイリアだった。
子供達の成長は早い。この間まで同じくらいの子と外を走り回っていたかと思えば、もう下級生の面倒を見ていたりする。
「先生」
14、5くらいの男の子が図書室の入り口に立っていた。6つくらいの女の子の手を引いていて、このあいだ妹が産まれた子だ、と思う。
「こいつに読める本はありますか」
絵本かなぁ、と言いながら私は本棚を眺める。ページが少なそうなものを数冊選び、男の子に手渡した。床に並べて女の子に表紙を見せる男の子をぼんやり眺め、大きくなったね、と声をかけた。
「はぁ、まあ」
男の子は不思議そうな顔で頷いた。しばらく黙ってから、先生ってどこに住んでるんですか、と呟く。
「里の外れ」
「へぇ」
彼は絵本を選んでいる女の子を見つめながら返事をした。気を遣ったのかもしれないと思い、私は左手に持っていた自分の本をめくるふりをした。
家に帰りつき、カレンダーの日付に印をつける。この島に日付が分かるものは無かったので、数年前からノートに書き込んでいるのだった。それに時計も無かった。日が昇ったら起き出して、日が沈んだら眠っていた。移住してしばらくの間は日時計を作ってみたりもしたが、時間を知りたいこともそう多くはなかったので今は日付だけを書くようになっていた。
日付を記録するようになってから5年が経っていた。子供を取り上げるのを手伝うこともあれば、移住前のことを思い出して恐慌をきたす人を診ることもあった。一日ぼんやりして日が暮れることもあったし、集会所で顔見知りと喋っていて夕方になる日もあった。いつからかカレンダーに今日あったことを書くようになり、それをたまに読み返すようになった。
「あれ、先生」
私は振り返った。家の近くに作った畑の雑草を抜いている途中だった。背の高い青年で、彼の後ろから差す日差しに思わず顔をしかめた。
「ここに住んでたんですね」
集会所に来ていた男の子だ、と思うのにしばらくかかった。ああ、と笑って立ち上がる。立ちくらみを起こし、少ししてから私は彼を見つめる。
「……大きくなったね?」
「ああ、結婚もしました」
今日は妹と森に行くって言ってたなぁ、と彼は続ける。少しぼうっとして彼を眺めた。
「……そんなに経った?」
「今も集会所で勉強を教えてるんですか」
うん、たまにね、と返事をする。この頃は文字を読める大人も増えていたので、以前ほど頻繁に集会所に通ってはいなかった。
「今度ぜひ、ご飯に来て下さい」
青年は笑った。うん、ありがとうねと微笑んで手を振る。いつの間にかすっかり大人になっている、と、私は内心肩を竦めた。
夜、窓ガラスに映った自分を眺める。移住してから10年ほどが経っただろうか。あの時は36だったから、今は46になるだろう。あまり年を取った感じがしないのは気のせいだろうか。
机に歩み寄ってノートを開き、カレンダーの日付に印を付ける。ぱらぱらとページをめくって遡ると、きちんと歳月が刻まれていた。いずれはここで死ぬのだろうか、とふっと考え、そうなるだろうと思うのと同時にうっすら倦怠感のようなものを感じた。
ノートを閉じて医学書を開く。コロニーでの生活を思い出し、人間とは贅沢な生き物だ、と思った。向こうはそろそろ復興し始めただろうか。いつかは行き来ができるようになるかもしれない。
集会所の図書室で本を探していると、先生、と声をかけられる。たまに集会所で見る顔だった。
「こんにちは」
笑いかけると、久しぶりだね、と彼女も笑う。服に土が付いているのが見え、もう芋の季節ですか、と私はたずねた。
「あ、花を育てててね、趣味」
彼女は自分の服の裾をつまんだ。照れたように笑うと、最近腰が痛くてさ、と顔をしかめる。
「今から伺いましょうか」
「今日じゃなくてもいいよ、急ぎじゃないし」
でもありがとうね、と彼女はまた笑った。はい、では近日中に、と笑うと、彼女は私に向き直る。
「先生はお若いね」
「そんな、46です」
「冗談よして、うちの娘と大差ないでしょ」
ふいに彼女が窓の外を見る。やだ、そろそろご飯の支度始めなきゃ、と言って図書室から出て行った。日の暮れかけた窓の向こうを眺め、私はしばらくその場に佇んでいた。
ノートを開き、カレンダーの続きを書く。日付を記録するようになってから20年ほどが経った。家の電灯が点かなくなった時に私は森に移り住んだ。住民の誰かが建てたのか、丸太小屋のようなものが森に点在していた。
政府から何か便りが来ることも、行き来できるようになる様子もなかった。あの混乱のあと、忘れられたままになっているのかもしれないと、もう何度も考えたことをまた思った。
人が結婚し、子を産み育て、移住前のことが話題にのぼることは少なくなった。ここで生まれた子はもう大人になり、国から移住をした人も少しずつ老いていった。
少しだけ開けた玄関から外を眺める。家に入ってくる森の匂いに息が詰まるような錯覚を覚える。里の人に会った時に一瞬ぎょっとされることが増えた。先生あんたは年を取らないのかいと言われたタイミングで、私は集会所に行くのをやめた。
家の医学書や辞書は何度も読んだ。考え、気にしても仕方ないと忘れ、たずねてくる人にじっと見られる度にまた思い出した。何かの病なのか、そうでないのかも分からなかった。外見が変わらないほかに良くない所は無かった。
日々起きて、食事を摂って、外を出歩いて、畑を見て、暗くなれば眠った。たまに人が訪ねてくれば話をして、一緒に食事を摂ったりもして、また眠った。
その日は国から移住をした男性がたずねてきた。この頃食欲が出なくてね、と白髪頭を掻く。ふっとコロニーのことを鮮明に思い出し、最近哺乳類を触ったことは、とたずねる。彼は不思議そうに私を見つめ、少しして笑った。
「触っていないよ、この島にはあまりいないようだし」
「……そうですよね、ワクチンも打ちましたし」
「ワクチン?」
彼はじっと私の顔を見る。しばらくして目線を外し、僕は打たなかったと思うなぁ、と続ける。私は何も言えずに彼を見つめた。
「……政府の方から、寄生虫の感染を防ぐワクチンを、と」
「いやぁ……随分前のことだからね、僕も打ったのを忘れているのかもしれないね」
彼は穏やかに笑った。確かに、お医者様がいなくなったら大変だからね、と続ける。
「あれ……先生は移住をした人なのかい?」
私は頷くことができなかった。いえ、と短く答え、棚から野草の入った器を取り出す。これを差し上げますので様子を見て下さい、と呟いた声が震えているのが分かった。
日付を記録するようになってから120年余りが経った。古いものはページが朽ちて土に還したので、正確なところは分からない。紙が無くなったらどうしようかと危惧したこともあったが、その頃にはもう紙のようなものを作っている住民がいた。
外見が変わることは未だになかった。里に知り合いを作ることはひどく恐ろしく、私は住居を替えては森に住み続けた。島の人たちが示し合わせて私を騙しているのだ、と考えたこともある。けれど一体何のためにそんなことをする必要があるのか、現実に120年も経ったことはどう説明すればいいのかということに思い当たり、誰にも何も言えないまま月日が流れた。
死ぬことを考えたこともある。この島に武器は無かったので、少しずつ食事を摂るのをやめた。水だけを飲むようになった2日後、たずねて来た人に見つかってうまくいかなかった。
そのうちに私は諦めた。寄生虫の細胞分裂を速めることに成功した、というニュースを思い返し、恐らく政府の計らいだろう、と結論付けた。何も変わらない静かな森で、朝も夜も気の遠くなるような平和を、私は生き続けた。
9
木陰から日が落ち、地面に影をつくっている。何度も歩いた森に分け入って茂みを抜ける。そろそろ葉が落ち始める季節だ、と思いながら、私は玄関のドアを開ける。毛が白く、歩くのがゆっくりになったハナを撫で、ただいまあ、と声を上げた。
「……おかえり」
机に伏していたイリアが顔を上げる。半分寝ぼけているようで、どこに行ってたの、と眠たげに呟く。
「学校」
学校……、とイリアは聞こえないくらいの声でささやいた。彼女の顔が見える位置に回り込み、リンがね、一緒に暮らそうって、と続ける。
「うん……うん」
イリアは再び顔を伏せた。よかった、とくぐもった声が響いた。じっと彼女の後頭部を見つめる。嬉しいわけでも悲しいわけでもなく、イリアと離れて暮らすということに何となく実感が無かった。
「今までありがとうね、これからもよろしくね」
声を掛けたが返事はなかった。暗くなってきた窓の向こうを眺め、夕食の用意をするべく立ち上がる。ご飯ができたら起こさなきゃ、と思い、私はキッチンに向かった。