男二人がぼそぼそ喋る話


 雨の匂いがする。ゆっくり寝返りをうって目を開けると、北条が窓を開けて両手を外に出していた。何時、と声をかけると、八時半、と窓の外を向いたまま返事をした。
「……目覚まし鳴らなかったけど、会社はいいの」
「……忌引き」
 へぇ、と返事をして、北条は静かに窓を閉める。ゆるく波打っている髪がさらさらと揺れた。なんか食う、とぼそりと呟き、壁に背を凭せる。こいつは昔から目立っていた、と修也は思う。
「……お前さ、昔から目立ったよな」
「何それ」
 北条は片頬で笑った。起きて、顔洗って、ヒゲ剃って、着替え、とうたうように言う。冷凍庫の米使うよ、と言いながら台所に向かって行った。遠くに響く雨の音を聞きながら、修也は上半身を起こして布団から出た。

 五日前、母親が死んだ。浴槽で貧血を起こして溺れたそうだった。修也が仕事を早退した時には既に母親は病院にいた。病室に駆け込むと、救急車を呼んでくれた生協の人と医者が気の毒そうに修也を見た。
 見つかった時には事切れていたらしかった。生協の人の説明を他人事のような気持ちで聞き、死んだ母親を斎場に送るともう外は真っ暗だった。ぬるい夜の空気に混ざる雨の気配を感じながら、ひとりぼっちだ、と思った。

 台所から戻ってきた北条はお椀を持っていた。ちゃぶ台の修也の前にお椀を置く。豆腐の浮かんだ味噌汁に米が入っていた。
「好きか分かんないけど」
 北条は呟いた。お前は、とたずねると、朝は腹減らないんだ、とどうでもよさそうに返事をした。
「……これからどうすんの」
 お椀に口をつけた時に北条がたずねた。修也は斜め下の方を見る。親のアパート解約して片付け、とぼんやり言うと、ふうん、と片膝を立てた。
「どっか行く?」
「どっかって、どこ」
「映画とか、水族館とか」
 こいつは話を聞いていたんだろうか、と思いながら修也は目を上げる。膝にあごを乗せ、北条は修也をじっと見ていた。
「息抜き、嫌じゃなきゃだけど」
「…………行く」
 呟き、こいつはこんな奴だったのか、と珍しい何かを見る気持ちで北条を眺めた。

 母親を斎場に送った帰り、修也は定食屋に寄った。なんとなく疲れた気がして早く帰りたかったが、帰ってから何か用意するのも億劫だった。もそもそと肉野菜炒めを食べていると、斜め前に座っている男に声をかけられた。
「下田」
 修也は顔を上げる。パーマをかけた男が修也を見ていた。声を掛けてくるということは知り合いのようだが、誰なのか思い出せなかった。しばらく男を見ていると、西南中だったろ、と男は呟いた。
「……西南中だった」
「サッカーやってたろ」
 修也は男を見つめた。思い出せないのは失礼な気がしたが、男はふっと目元を緩めた。
「知らないかも、部活やってなかったし」
 修也は目を伏せた。よく知らない相手と喋る気分ではなかった。会話を切り上げたい気持ちで、今日親が死んでさ、と言うと、へぇ、と男は呟く。
「俺も死んだよ、親父。去年」
 修也は男を見た。半分伏せられた瞳には何の感情もなかった。

 水槽はうっすら青く、暗い室内で発光して見える。修也は少しかがんで水槽の中を覗き込んだ。白い砂の上をザリガニのような生き物が歩いていた。
「水族館ってザリガニいるんだ」
 呟くと、エビだってさ、と解説を読んでいる北条が返事をした。平日の水族館に人影はまばらで、時折小さな子供を連れた母親がいるくらいだった。
「お前のこと、いいなって言ってる女子いたよ」
 ふうん、と北条は解説から目を離さないまま頷く。どんな時、と言い、修也の近くに来て水槽を覗き込む。
「雨の日の掃除の時」
「あー俺わりと好きなんだよね、雨」
 北条はまたどうでもよさそうに返事をした。二年生の時に同じクラスだったらしかった。定食屋で出会った後、修也のアパートで何となく酒を飲んで喋りながら中学生の時の話をした。北条の持て余し気味にやや長い手足を眺めているうち、修也は後ろの方の席にいた背の高い男子を思い出した。
「モテるだろ」
「どうかな、仕事してないし」
「うっそ」
「嘘、フリーター」
 修也は北条を見上げた。でも今は途切れてるよ、と水槽を見つめたまま呟いた。
「……うち来る?」
「住む場所はある」
 北条は真顔で修也を見た。すこし笑って、優しいんだな、と意外そうに付け足す。修也はどう返事をしていいのか分からず水槽に目を戻した。
「優しいってか、なんか……会社に話せる奴もいないし」
 小さく呟いた。今ひとりになったら、母親の死が現実味を持つような気がした。北条が何も言わないので、やっぱ忘れて、と口を開きかけると、行く、と小さく声が聞こえた。
「お前、住んでるとこはいいの」
「どっちだよ」
 北条は低く笑った。隣を見上げるとさも楽しそうに目を細めていた。
「一人暮らし?」
「親父と結婚した人」
 修也は何も言えず北条を見た。何話したらいいかなんて分かんないよ、とぼそりと付け足す。青い光に照らされた横顔に表情は無かった。
「飯何する?」
「……簡単なのがいい、鍋とか」
「暑いんじゃない」
 北条は片頬で笑った。順路を進む背を眺め、修也はしばらく水槽の前に佇んでいた。

 中学生の頃、修也は真面目な子供だった。真面目だとは教師に言われただけで、修也にとってはそうしているのが普通だった。ただ、掃除をさぼったり成績のふるわない生徒を何となく下に見てもいた。なぜちゃんとやらないのだろう、と思っていた。
「部活やってないで何してたの」
 白菜の葉の部分を口に運びながら修也はたずねた。北条は目を上げ、親父の手伝い、と短く答える。
「俺サッカーやりたかったんだよね」
 鍋を覗き込み、北条は続けた。鶏肉と豆腐を掬って自分の椀に入れる。へえ、と頷きながら、それで自分のことを知っていたのか、と修也は思う。
「社会の先生さ、絶対ヅラだったよな」
 そうだっけ、と北条は笑った。豆腐をスプーンで割りながら、あんま授業とか先生とか覚えてないな、と呟く。
「勉強しない奴?」
「勉強しても意味なかったし」
 北条は片頬で笑った。大学に行く金が無かったのか、勉強ができなかったのか、その両方なのか分からなかった。ふーん、と返事をして、学校で何してたの、とたずねる。
「遊んだり、寝たり、雨見たり。下田こそ何であんなつまんなそうにサッカーしてたの」
 修也は北条をちらりと見る。伏せられた瞳は見えなかった。サッカーをやりたかった訳ではなく母親を心配させないために部活に入っただけだったが、それを口にするのはやめた。
「……忘れた、鶏肉もう煮えてる?」
「うん」
 北条が鍋をかき混ぜる。修也が椀を差し出すと、北条はそっと鶏肉を入れた。修也は北条を窺うことをせず椀に目を落とす。立ち上る湯気を少し眺め、鶏肉を口に運んだ。

 風呂から出ると北条が電気を消して窓を開けていた。雨は止んだようで、静かな夜気が薄暗い居間に入り込んでいた。
「何してんの」
「天体観測」
 窓から外を眺めている北条に近付く。タオルで頭を拭きながら、見えないだろ、と言うと、俺も風呂入ろうかな、と北条は呟いた。
「気分はどう」
「……会社行った時、気遣われるだろうなって思うと面倒」
 ふうん、と北条は返事をする。窓の向こうからかすかに犬の遠吠えが聞こえた。
「実感無い」
「そうかも」
 修也は小さく息をつく。明後日から仕事だ、ということの方が今の修也にとって身近で、それが何となく後ろめたかった。
「仲良かった?」
「……普通、だと思う、家出てからはたまに電話するくらい」
 うち父親いないから、苦労かけたと思うよ、と呟く。何も言わない北条を見上げると、大人だなぁ、と感心したように言う。
「そう言うことにしてんの」
「茶化すなよ」
「……でも本当、実感無い」
「彼女いないの」
 いねーよ、と返事をして窓から顔を出す。親父いるってどんな感じ、とたずねながら空を見上げる。雲が出ていて星は見えなかった。
「あーなんか、あんまり帰って来ないよ」
「へえ」
「入れ替わりみたいに綺麗なおばさんが来て、俺の世話する気満々」
 けろりと言う北条の声を聞き、修也は首を引っ込めて窓を閉めた。ふーん、と返事をして壁に背を凭せる。暗い室内は見慣れない部屋のように見えた。
「なんか、聞いちゃいけない感じかと思った」
「慣れたよ」
 肩を竦める北条を見る。お前もそうだろ、とその瞳が言っていた。
「……どんな人だったかなんて、分からないなって思うよ」
「母親のこと?」
「そう、うちもそんなに顔合わせないし」
 修也は目を閉じる。思えば母親の記憶はほとんど無かった。修也が起きる前に仕事に出て、帰ってくるのは修也が寝た後だった。たまの休みの日に昼食を作ってくれたりもした。自分で作った方が上手にできると思ったが、それでも嬉しかった。
「……死んだんだ、あの人」
 呟き、ゆっくり目を開ける。湿った空気がわずかに震えた気がした。隣で北条が修也を窺っているのがわかった。
「……俺も仕事探そうかなぁ」
 北条が呟く。修也はふっと現実に戻った。おー、探せ探せ、と返事をする。風呂入ってくる、と言って居間から出る北条の背を見つめ、修也は小さく息をついた。

「え、帰るの」
「まあ、黙って出てきちゃったし」
 玄関に立った北条を見る。荷物はまとめ終えているようで、起きたばかりの修也は目を瞬いた。
「アパート片付ける時呼んでよ、あと今度飯おごる」
 あんま家居たくないしさ、と片頬で笑う北条を見て、修也も小さく笑う。
「……分かった、連絡する」
「気ぃ落とすなよ」
 親が死んだって人生は続くんだ、と真顔で頷く北条に手を振る。アパートの廊下に日が射して、すっかり晴れているようだった。
「暑くなりそう」
「うん」
 じゃあ、と手を振った北条を見送り、しばらくして玄関を閉める。明日から仕事だ、と思い、修也は身支度をしようと洗面所に向かった。