明彦×美鶴
私はいつも、少し悲しい。
そうたとえば性交の後、眠ってしまった男の横でぼんやりと前を向いている時などにその悲しさはふいに訪れる。部屋は月明かりで仄明るく、目が慣れているので隅々までどうなっているかがわかる。男――名を明彦といって、私は明彦以外の男と寝たことがない――の規則正しい呼吸を聴き、睫毛ににじむ微かな疲労さえも感じ取り、その時には既に悲しさはしっかりと私を待ち構えている。私には、逃れる術は無いのだ。
少し前、岳羽という少女(私とほんの一年しか違わないのでそう言うと語弊があるのだが、彼女にはほんとうに少女という言葉がよく似合う)になじられた。私調べたんです。本当のことを言ってなかったなんて、騙していたんですね。大きな瞳に涙をいっぱいためて、ああ、こぼれる、と思った瞬間に彼女が涙を拭ったので私はかろうじて現実に踏みとどまる。重苦しい空気。いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。
私はゆっくりと目を閉じる。悲しさと憂鬱とにまんまと飲み込まれ、まるで私が悲しさそのものになってしまったみたいだ。私は目を開け、隣で寝息を立てている明彦の髪を撫でる。明彦は目を開け、ゆっくりと起き上がった。
「何を考えている?」
起きたばかりで少し不機嫌に聞こえる声で明彦は言った。長い睫毛にふちどられた目でまっすぐ見つめられ、私は答えを見失う。私は自分がさっきまで明彦のことを考えていたようにも、岳羽のことを考えていたようにも思える。あるいは、何も考えていなかったのかも。
「この間のことか?」
私が答えないでいると、明彦は、お前のせいじゃない、と言った。
「岳羽も言い過ぎたと思ってるさ」
そう言って明彦は私をそっと抱きしめる。私は明彦の肉体の力強さとうつくしさに息を呑む。
私と明彦の間に、恋愛感情は無い。
かつてはそうだったのかも知れないが、もう思い出すこともできないほど遠い昔のことだ。長い長い時を経て、私たちはこの場所へたどり着いた。肉体関係を含んだ友情――あるいはそれに類すると思われるもの――は、私が最も信頼しているもののうちのひとつだ。
信頼。悲しみに支配されたこの身体にも信じられるものがあるのだなと思い、私は少し笑った。
そろそろ夜が明ける。明彦は衣類を身に着け、皆が起き出す前に息を殺して部屋に戻らなければならないだろう。
「じゃあな、美鶴」
明彦は後ろを向いて上着を着ながら言う。私はふいに恐ろしいほど寂しくなり言った。
「……行かないでくれ」
明彦は驚いた顔でこっちを振り向く。私は顔が熱くなるのを感じ、いやその、と小さい声で付け足した。
「……それでも行かなきゃならない」
斜め下を向いて明彦はぽつりと呟く。私は、じゃあ、もう少しだけ、と明彦が言わなくて心から良かったと思った。私は恐れていたのだ。悲しみから解放されることを。明彦に連れ出されてしまうことを。
そうして私はひとり、また悲しみの中に取り残される。明彦が出て行き、私ものろのろと衣類を身に着ける。私はいつも少し悲しい。ぼんやりと思考を巡らせながら、私は涙ぐみそうになりあわてて目をこすった。