ねっとくんがこうこうせいになったはなし
「熱斗、これ」
終業のチャイムが鳴りざわつく教室の中、後ろで聞き慣れた声がした。振り返るとB組の桜井が立っている。微笑んでいるような、緊張しているような不思議な表情。
「なんだよ、桜井」
中学生の頃から俺はこの幼なじみのことを苗字で呼ぶようになった。照れとか気まずさとか、そういったものがあったのだと思う。けれど慣れてしまえば苗字で呼ぶのもしっくり来て、それが今となっては俺と桜井のあいだに小学生の頃にはなかった膜を一枚張っているような気がした。
ん、と桜井は俺に手を出すよう求めた。請われるままに手のひらを差し出すと、俺の手にそっと手紙を握らせる。俺が桜井の顔を見上げると、桜井は「帰ってから読んで」とはにかんだ。
桜井が足早にA組の教室から立ち去る。俺は受け取った手紙を眺めた。薄い桃色の封筒に小さな整った字で「熱斗へ」と書いてある。俺が桜井のことを苗字で呼ぶようになっても桜井は俺を「熱斗」と呼び続けた。桜井の「熱斗」と呼びかける声は、張られた膜に気付かないふりを続けてきた俺を責める罰のように聞こえた。
「熱斗くん、今日こそ試験勉強しなきゃね」
PETの中でロックマンが怒った顔をつくって見せる。わかってるって、ちょっとインターネットやってから、といつも通りのやりとりを交わす。小学生の頃から何度こんな会話をしたかわからない。そっとPETを窺うと、幼い少年のままのロックマンが目に入る。その姿に小学生の頃の自分を見た気がして、俺は目を瞬いた。ロックマンが心配そうな目で俺を見上げる。
「どうしたの? 具合でも悪いの」
「……やっぱり今日は、インターネットはやめとくよ」
ロックマンは少年のまま変わらない。俺は高校生になったのに。その事実の意味することに、俺はこのごろ目眩を覚える。
夜、ベッドの中で布団にくるまって、自分の下着の中に手を入れる。小学生の頃から変わらないまま、勉強机の上にはスリープモードになっているロックマンがいる。闇がとろんとのしかかり、もう二度と朝は来ないような錯覚に陥る。耳を澄ませばロックマンの寝息が聞こえる気がして、俺はそう考えた瞬間うっと声を上げて熱を放った。てのひらに垂れる温かく粘ついた精液。
「(……ロックマン)」
枕に顔を埋め、俺は何度も味わった罪悪感を深く感じた。闇が濃く、重くなる。目蓋の裏ではロックマンが幼い表情で笑っている。
ロックマンにほのかな劣情を抱いたのは中学生の頃だ。俺は何度想像の中でロックマンと交わったかわからない。けれどこの頃はそれがつらい。中学生の頃はよかった。俺とロックマンの体格もそんなに変わりなく、声変わりだって遅かったから。今は俺の背も伸びてしまい、ロックマンは女のような声のまま。想像の中とはいえ小さな少年を犯すのは気が引けた。それなのに欲望は止まらない。それに今までずっと一緒だったロックマンをだなんて。
「(……ああ)」
もし思いを告げたら、きっとロックマンは困ったように笑うだろう。熱斗くん、そんなのはよくないよ、と。それでもきっと許してくれるだろう。俺がロックマンで抜いていた日々を。
「熱斗くん、朝だよ」
「ん……おはよう、ロックマン」
「メイルちゃんからの手紙は開けたの?」
俺は気が重かった。開けていなくても内容は予想がついた。俺は鞄の中から手紙を取り出し、そっと破れ目をひらいて中を読んだ。想像の通り、付き合ってほしい、という内容だった。
「……高校を卒業したら考えるよ」
「熱斗くん、忘れたの? 中学生の頃も『中学を卒業したら』って返事してたじゃない」
「ロックマン」
ロックマンは黙ってPETの中から俺を見上げた。なあに、と小さく首を傾げる。
「俺はロックマンが好きなんだ、ロックマンを抱きたいんだ」
一瞬ロックマンはなんだかわからないという顔をした。けれどすぐに表情がみるみるこわばっていくのが分かった。ちいさな眉間にかすかにしわが寄せられた時、俺は心の底から恐ろしくなりPETの電源を切った。
勉強机の明かりの下、桜井に手紙の返事を書く。
『そういうこと、桜井とは考えられない、ごめん』
封筒に入れて封をすると、重い疲れを感じた。横には電源の切れたPETが置いてある。俺は例えようのない欲望が胸の奥から湧いてくるのを感じた。椅子に座ったまま、背中を丸めて下着の中に手を入れる。PETを左手に持ち、じっと眺めた。外面は塗装が剥がれる度に塗り直した。画面は消えて、何も映らない。けれどこの中にはロックマンが眠っている……。
俺は声を上げてPETの画面に精を放った。気持ちよかったのは一瞬だけで、放ってからどうしようもない絶望に苛まれる。俺はロックマンに一緒に成長してほしかった。同じものを見て、同じことを聞いて、同じものを食べて、それが彼の血肉になってほしかったのに。俺がどんなに年を取っても、死んでしまったあとも、ロックマンは永遠にPETの中で少年の姿のまま。この世の終わりのように悲しくなり、俺は声を上げて泣いた。闇が深くなり、今度こそほんとうにもう朝は来ないだろうと思った。
「ふあ……おはよう熱斗くん、よく寝た気がするよ」
「ロックマンが寝坊なんて、珍しいじゃん」
俺は笑った。ロックマンの昨日の記憶はデリートしてしまった。そうだね、とロックマンは人差し指で頬をかき、それから俺を見上げた。
「あ! メイルちゃんからの手紙は開けたの?」
「開けたよ、返事も書いた」
今日渡すって、と鞄を手にすると、背中にロックマンの視線を感じた。振り返るとロックマンが満足そうに笑っていた。
「なんだよ」
「熱斗くん、成長したね」
手紙、中学生の頃は鞄の中で一週間もぐしゃぐしゃのままだったじゃない、と微笑む。俺は途方もなく寂しくなり、鼻の奥がつんとするのを感じた。
ロックマンは知らない。知らなくていい。俺がずっとロックマンを好きなこと、俺は成長して変わってしまうこと。泣き出しそうになる気持ちを奮い立たせ、俺は玄関を開けた。朝の日差しがまぶしくて、うわあ、今日も暑そうだね、とPETの中でロックマンが笑うのが聞こえた。