もしもの話
窓を開けると煙のような匂いがした。大きく伸びをして外を眺める。夜でもうっすら明るい空に、今日は三日月が見えた。
「アイン、月が出ているわ」
椅子に腰かけている彼女を振り返る。目頭を押さえていた彼女は立ち上がり、窓から空が見える位置に移動する。そうね、と頷いて私を見下ろす。ちゃんと月を見てから頷く彼女の律儀さに私はすこし笑った。
「起こしてごめんなさい」
構わない、と短く返事をする彼女をちらりと見る。髪をかき上げた様子に疲労が滲んだ。良くない夢を見ていたのかもしれないと思い、私は気付かなかったふりをして窓の向こうに目線を戻した。
「ねえ、もしも狂瞳病が治ったらアインはどうするの」
「もしもの話ではない、私が治療する」
そうね、と私は微笑む。それならもう少し眠ったり食べたりしてほしい。喉まで出かかった言葉を飲み込んでゆっくり窓を閉めた。
彼女が何かを隠していること、それに気付かないふりをすること、それはいつからか私の日常になった。彼女が私を匿ってくれていることのように、私は彼女を支えたかった。けれど過労で倒れて三日後に目覚め、それなのにすぐに治療に向かおうとする彼女に私は震える声で訊ねていた。
「ねえ、もしもアインが治療できなくなったらどうするの」
彼女は振り返って私の右肩を掴もうとした。肩に触れる前に気付いたのかぴたりと左手を止める。彼女の表情はそれは恐ろしかった。目が合った一瞬の後、ふっと目元を緩める。
「もしもの話はしなくていい、そうなったら自分に手術を施す」
「私は」
踵を返した彼女が立ち止まる。アインを心配しているの、とささやく。そう、と小さく返事をして部屋を出る。彼女に届いたのか、私には分からなかった。
—
地面をしっかり踏みしめる音。こんばんは、局長さん、と声に出すと、わずかに狼狽えた様子の声が届く。
「相変わらず鋭いな」
ふふ、と笑みをこぼす。あの男の子はもうニューシティを見ただろうか。そんなことを考える。
「もしもの話」
私は小さく呟く。局長が静かに私の隣に立つ気配を感じた。
「私はどうも、もしもの話ばかりするようなんです」
「この間のことか」
「そうです、アインにも何度か言われて」
ささやき、うっすら明るい夜を眺める。今日は月も星も見えない。局長は黙ったままだ。私も何を続ければいいのか分からなかった。
「……昨日、彼女に心配されたよ」
私はそっと局長を見上げる。頭を掻いた彼女が口を開くのを待った。
「もしもの話などしなくていい、って、人の心配をしている時にすごい顔をするんだな」
私は一瞬おどろいて、それから声を出して笑った。局長が不思議そうに私を見下ろすのがわかった。
「局長さん、アインをよろしくお願いします」
ああ、と彼女は返事をする。何かを図りかねたのか、多くを発言しないように心得ているのか私には分からなかった。局長さん、アインはすぐ倒れます、自分の本心を隠せていると思ってます、すぐに怒ります、それから、それから……。頭の中で続けながら私は彼女の幸福を祈る。夜の向こうから、静かに朝が近付いていた。