昨日、兄が死んだ。
学校に行く前、今日は朝早いうちから大学に行くと言っていた兄を起こそうと私は兄の部屋のドアをノックした。兄は不眠症だったので毎朝起きられるかどうか怪しくて、今日も返事がなかったので私は兄の部屋に入る。
「お兄ちゃん」
布団を頭まで被って寝ている兄の姿に私は少し微笑み、もう、などと言いながら布団をはぎ取った。
兄は真っ白な顔をしていて、唇は紫色をしている。熱でもあるのかと思って額に触れてみると驚くほど冷たい。私の心臓が早鐘を打ちはじめ、後ずさりをして母親を呼んだ。ふとごみ箱を見ると、薬の袋がたくさん捨てられていた。
もう十数年不眠症だった兄は、病院からもらった睡眠薬をたくさん飲んで眠るように死んだのだ。

私は兄を愛していた。
愛していた、というのは決して家族愛などではない。私は兄を男として愛していた。もちろんそれが罪だということはわかっていたし、しっかり血も繋がっている。思春期の気の迷いかもしれないが迷惑だということは分かりきっているのでその想いを伝えることはなく日々は過ぎ、兄は…死んでしまった。
勤勉で、医者になることを志していた兄。私にはいつも優しかった兄。不眠症だった兄―――たまに夜中に目が覚めて階下に下りると、兄の部屋から光が漏れていることが何度もあって、私はそれを暗い気持ちで眺めていた。兄はひとりの夜に何を思っていたのだろう。

兄の葬式は今にも雨が降り出しそうな曇り空の下で行われた。凍えてしまいそうに寒い二月の空。線香の匂い、黒い服。兄は白く細い煙となって空へ昇っていくだろう。神様は自ら命を絶った者も天国に連れて行ってくれるだろうか。
私は特にすることもなく、弔問客をぼんやりと眺めていると、ある人を見つけた。他の弔問客とは違う雰囲気の青年。弔問客は皆一様に悲しげな表情をしたり泣いたりしていたのだが、その人は毅然とした表情で前を見ていた。
私はその人をはじめ女性だと思った。名簿にさらさらと名前を書く。津久井衛、と書かれていて、初めて男性だとわかったのだ。兄の友達だろうか。私は急に興味が湧きその人に話しかけた。
「兄のお友達ですか」
青年がこっちを向く。パーマのかけられた短い髪が揺れ、はい、と青年は答えた。高い声だがやはり男性だった。
「来てくれてありがとう、兄も喜んでいると思います」
私はにっこりというわけにはいかなかったけど微笑んで青年に言った。青年は目だけで薄く笑って席に座るべく踵を返す。

兄が死んでも、世界は正しいリズムでちゃんと回っていた。家庭の中心だった兄がいなくなり、ぽっかり穴があいたようになっても。
母親は何日も泣いてばっかりで、兄の好きだった料理をたくさんつくった。まためまいを起こして倒れることもあり、私は心配で、何度か学校を休んだりもした。父親は仕事が忙しいと言って―――父親は病院の院長だった―――家に帰る日が目に見えて減りはじめた。父親は、仕事に逃げているのだ。
私はというと、兄がいない毎日を何事もなかったかのように過ごしていた。そうしないと、兄の死が現実のものとなって私に襲いかかってくるからだ。

母親の調子が悪く学校を休んで看病していたある日、ドアチャイムが鳴った。はい、と答えてドアを開けると、兄の葬式で会った青年が立っていた。青年は微笑んで、妹さんだね、と言った。
「博史君の仏壇にお線香をあげたいんだけど、いいですか?」
友達と話すような言葉と敬語が入り混じった変な喋り方で青年は言った。私は、どうぞ、と言って彼を家に上げる。

線香をあげ終わり、私は青年に話しかける。
「家までお線香をあげにきてくれるなんて、兄と仲が良かったんですね」
青年は、はい、まあ、と言葉を濁す。兄にこんなに仲のいい友達がいたなんて。私はしばらく兄のことを考えていたがやがて手持ち無沙汰になってしまった。青年も帰るタイミングが掴めずにいるようで気まずい沈黙が流れた。私は慌てて口を開く。
「…私も兄のことは大好きでした、優しくて、大らかで、こんなこと言うのは変かもしれないんですけど、私は兄を愛していました」
なんとなくそんなことを言ってしまい私は焦った。一体私は何を言っているのだろう。青年は目を閉じ静かに口を開く。
「…僕も彼を、愛していました」

私は心底びっくりした。また、兄のことを好きな人物と出会えて嬉しい気持ちもあった。不思議と嫌悪感は湧かない。それはきっと、私も許されざる恋をしていたからだ。私と彼の、死者への暗い慕情。迷惑だと思って想いを伝えなかったところまで私たちは似ていた。

それから彼―――彼は衛でいいよ、と言った―――衛は何度か家に来て、お線香をあげていった。衛は兄の大学での同級生で、大抵は授業の空き時間に来たから高校に行っている私は会えなかったが、たまに私が学校から帰った後など、お線香をあげた後に少し話をして帰っていくこともあった。私が紅茶(衛はミルク入りの紅茶を好んだ)を淹れたり、手持ち無沙汰になってしまい外は暗くて寒かったが商店街をあてもなく歩き回ったり。本当に寒くて風が強くて、衛の暗い紺のマフラーがばさばさはためいた。お互いあまり喋ることはなかったがたまに喋ると話題は主に兄のことで、私たちは一歩ずつ死に近付いていく気がしていた。

衛がどうして兄を好きになったか、なんてことも聞いた。
衛はその頃、医療系の大学に入ったはいいが勉強が難しすぎてついていけず、落ちこぼれてしまっていた。
そんな時に勉強を教えてくれたのが兄だというのだ。なんて、ありがちな話だけど、と衛は笑う。
私は兄が友達に優しい人間でよかったと思った。でも、そんな優しい兄はもうどこにもいない。

一度、私と衛はなぜこんなに何度も会っているのだろうと思った。特に気が合ったり、話が盛り上がるわけでもないのに。私は思う。きっと、兄という呪縛から逃れられない、マイナスの磁場が引き合うように惹かれあっているのだ。私たちの目の前には、死が重苦しく横たわっている。
死―――。私はそれについてぼんやりと考える。兄は何を思ってたったひとりでその果てない場所に行こうとしたのだろう。人の命を救う道を目指していた兄が、どうして自らの命を絶ってしまったのだろう。私は胸のうちを重く黒いものが満たしていくのを感じていた。

そんな日々が続いていたある日、私は、もうお線香をあげに来てくれなくていいです、と言った。
兄にお線香をあげてくれること自体はとても嬉しかったが、私たちはもう会わない方がいい気がしたのだ。このままではどんどん死に近付くばかりだ、と私は思う。衛はとても悲しそうな顔をして、君がそうしたいのならそうするよと言った。私と衛の間に恋愛感情はなかったが、私は衛が気の毒になって言った。
「じゃあ死のうか?お兄ちゃんみたいに、一緒にさ」
言ってひどく後悔した。私自身、かなり感覚が麻痺していたのかもしれない。私たちの目の前にあったけど今まで目をそらしてきたことだった。
衛はショックを受けたように目を見開き、それきり黙り込んでしまった。私は自己嫌悪の嵐に苛まれたまま家路につく。

父親は少しずつ家に帰るようになっていた。母親の調子もだんだんよくなっていて、あの博史のお友達はもう来ないの、などと言った。私はぼんやりと日々を見送る。全てが少しずつもとに戻りはじめていた。

衛が自殺未遂をした、ということを知ったのは、衛の親から電話がかかってきたからだ。
私はその時兄の墓に花を添えていたところだった。今年の冬は寒い。コートのポケットに手を突っ込んでいたら、ポケットに入れていた携帯が鳴った。
画面には「津久井衛」と出ている。衛からはあれから一度も連絡がなかったので、私は急いで電話に出る。この前のことを謝るつもりだった。
しかし電話の向こうから聞こえてきたのは知らないおばさんの声で、すっかり動転した様子だった。
「衛の母ですけど、衛が首吊りをしようとして…私が帰ってきたから助かったんですけど、あなたと話したいと言っていて…」
私は、替わってください、と言った。死を選ぼうとした衛の話が、そして衛の声が聞きたかった。

「もしもし」
電話を替わってもらうと、不思議と私の声は落ち着いた。衛が電話の向こうで息を吸うのが聞こえる。
「僕は死ななかった、彼は死んだのに」
私は少し微笑んで言う。自分がだんだん緊張していくのがわかった。
「悲しい?」
衛も微笑んだのがわかった。衛は落ち着きはらって言う。
「僕にはよくわからないんだ、死ぬってどういうことなのか、生きるってどういうことなのか」
私は自分の内面と話しているみたいだった。本当に、その通りだ。
「お兄ちゃんはどうして死んだのかなって、私あれから百万回くらい考えてる」
「うん」
「でも、わからない」
衛が長く息を吐いた。ゆっくり言葉を選んでいるようだ。
「きっとそれは、あと何億回考えてもわからないよ。彼もなんだかよくわからないまま向こうに行ったんじゃないかな」
死ぬこと、生きること。何故死を選び、何故生を選ぶのかということ。
きっと永遠にわからないのかもしれない。私はゆっくり目を閉じる。そして急に思いついて言った。
「私が死んだら、衛は悲しい?」
「悲しいよ」
衛は静かに言った。衛が思っていることは何もかも、電話の向こうから伝わってくるようだった。
「じゃあ、私はまだ死なない」

多分、今はそれでいいのだ。生きている間はそれで。悲しんでくれる人がいるから死なない。兄は、そのことに気付けなかっただけなのかもしれない。
そう思うと、肩の荷が急に軽くなった気がした。兄が死んでからの間、私の中に澱のように沈んでいた何かが流れ出ていくようだった。
それは小さいことかもしれない。でも私にとっては、とても大切な気付きだった。
衛とは、私も衛も兄の呪縛から解放された状態であらためて話がしたいと思う。もう私たちの目の前に死は横たわってはいない。
「衛、ありがとう」
「うん」
もうすぐ、長かった死の冬が終わる。春が来るのだ。
私はなんだか嬉しくなり、今度また衛にお線香をあげに来てもらおう、と思った。

 


 

古いもの 脛に傷持つもの同士