すみの屋で会いましょう

1 さようなら世界

それを意識した時、不思議と心は安らかだった。意識なんて大それたものじゃないけど、気持ちは落ち着いてうすぼんやりとしていて昔絵本で見たかなしい水彩画みたいで、私の目の前には、はっきりと死があった。
カンカンカンカン。踏切がけたたましい音を立てて鳴りはじめる。絵本か、そういえば昔はお兄ちゃんがよく絵本読んでくれたなぁ。私はそんなことを思いながらいつも登下校で渡る踏切に入ろうとした。簡単なことだ。大切なのは何も考えないこと。私は遮断機が降りきる前にダッシュで線路に滑り込もうとして、その瞬間上から声が降ってきた。
「何をしているんだ!」
男性だ。40代くらいだろうか。眼鏡の奥には怯えの色が浮かんでいる。痛いほど腕をつかまれて、私は死んだ犬でも見るような顔で男性を見上げる。今日も、失敗。

ジサツ、ってやつ。私は今日死ぬ予定だったから学校に行く気にはなれなくて、しょうがなくうろうろと人通りの少ない道を歩いていた。公園とかに行くのは初心者のすることだ。サボりの初心者。そんなところに小学生がいたらすぐに学校に連絡されてしまう。この辺りには割と大きめの小学校がひとつしかない。
あーあ、なんかもう、嫌んなっちゃったなぁ。細長い棒切れを見つけて、それで地面をこすりながら歩く。これからどうしようか。棒はすぐに折れてしまい、私は、あーあ、と声に出してため息をついた。
「もうやだ」
「なにが」
返事が返ってきたので私は驚いて振り向いた。背は高いけれど猫背の男性が立っている。Tシャツに半ズボン、サンダルというラフな格好で、半ズボンからとびでている痩せた足にはお兄ちゃんくらいすね毛が茂っている。瞳はやる気がなさそうにくすんでいて、私は瞬時に、私とこの人は似た者どうしだ、と思った。
「なにが、いやなの」
男性は重ねて訊いた。さして興味なさそうにぼんやりと私を見つめる。私は男性の暗い瞳を見ながら言った。
「……おじさん、会社は」
「お兄さんな。おれ、自営業」
そこ、と言って私の横の建物を指差す。すみの屋。駄菓子屋だ。建物は今にも崩れそうで、男性によく似合っていた。
「この駄菓子屋、やってたんだ」
私は男性と建物とを見比べながら言った。日が照っていて暑いくらいな五月。アスファルトは地上の温度をぐらぐらと上げていて、日陰になっている駄菓子屋の中は薄暗く涼しげに見えた。
「そう、やってんの」
ひらひらと手を振りながら男性は答える。人がほとんど来ていないのは私の目にも明らかだったし、きっとこの人は退屈な店番をしながらこうやって日々をだらだらと無為に過ごしているんだろうなぁ、と思い、そんなこと私が言える立場じゃないけど、と思い、この人も死のうとしたことがあるだろうか、と思う。なんとなく、あるような気がした。でもやっぱり初対面でそんなことを訊くのははばかられて、私が言葉を探していると、
「じゃ」
と言って男性は駄菓子屋に入っていった。私はぼんやりとその背中を見送る。へんな人だなぁ。まぁ、どうでもいいか。どうせ明日には忘れてしまうんだろう。これからあの家に帰らなきゃならない。私は胸のうちを重く黒いものが満たしていくのを感じていた。

2 落伍者

起きて、店番して、飯食って、眠る。起きて、コンビニ行って、店番して、また眠る。
「変な小学生に会った」
店番を代わってもらいながら兄に言った。俺とこの兄は仲が悪いわけではない。兄は、へぇ、と特に関心も無さそうに相槌を打った。
「サボる学生はいつの時代もいるもんだ」
眼鏡の奥の目を伏せ薄く微笑みながら兄は言った。サボる学生ねぇ。俺は心の中で呟いて店から出た。
「どこだ」
「散歩」
仲が悪いわけではない。堅実な兄とちゃらんぽらんな俺。話すことが特に見つからないだけなのだ。

両親が死んで、兄と俺が駄菓子屋を継いでから五年になる。
両親は申し分なく働き者だった。母方の祖父の代(俺の父は婿養子だった)から続いている駄菓子屋もなんとか存続させたし、兄と俺、それに姉――その昔、俺たちは三人兄弟だった――を学校に通わせた。しかし母が急に亡くなり、父は母が亡くなってからみるみる弱っていった。俺はその頃生きることが特におもしろくなく、誠、博史をよろしくな、と父に遺言のように言われた、と後から兄に聞いた。
兄はその頃奥さんと別れ住む場所に困っていて(兄もまた婿養子だった)、俺一人では店の経営など到底無理に思えたので、特に話すこともない兄と俺は一緒に駄菓子屋を継ぐことになったのだ。
それにしても駄菓子屋か。高校を出てからずっとぶらぶらしていたその頃の俺は思った。子供は苦手だ。俺は自分が子供の頃何を見て何を考え、どんな風に周りと接していたかもうさっぱり思い出せない。
「(まあ、子供とかほとんど来ないから、よかったんだけど)」
さびれた公園のベンチで煙草をふかしながら俺は思う。陽射しが眩しい。人生は、特におもしろくもないがそうつまらなくもない、と今は思う。でもこのまま、爺さんになるまで子供が来ない駄菓子屋の店番をやって、それで死んでいくのだろうか……。
少し疲れてしまった。今日も暑くなりそうだ。俺はベンチから立ってズボンをはたき、煙草を捨ててサンダルの足でもみ消した。

3 お兄ちゃん

鍵を差し込んで、そうっとドアを開ける。細心の注意をはらってもドアはガチャリと無遠慮な音を立て、私はいつも少し怯む。
私はさっと下を見て靴を確かめた。汚れたスニーカーが一足。お兄ちゃんが、家にいる。
私は二階の自室にいるであろうお兄ちゃんに見つからないように息をひそめて家に上がった。靴は玄関の棚の横のところに隠しておく。
「(お昼ごはん、どうしよう)」
急に現実的な問題を目の当たりにする。時計を見ると十一時半だった。今から学校に行ったら給食だけでも食べさせてくれるだろうか。
「(おなかすいたな……)」
でもそれより、お母さんはどこに行っているのだろう。不倫相手のところだろうか。私は胃の中に重い石でも入れられたような気持ちになる。携帯に電話をかけようかと少し迷って、やめた。お母さんは出かけている時に電話をかけられるのをすごく嫌がる。
私がどうしようかと悩んでいると、二階から下りてくる足音が聞こえた。お兄ちゃんが起きたのだ。私は背中をいやな汗が伝うのを感じ、でもそれを悟られないように努めて普通の顔をしようとした。
「あれ」
お兄ちゃんが私を見て言った。毛先だけ茶色い髪はボサボサで、ここ数日は髭も剃っていないのだろう。目には鈍い光をたたえていてぼんやりと私を見つめている。
「お前、今日居たんだ」
私は慎重に、うん、と答えた。お兄ちゃんは大きなあくびをひとつして、便所、と言った。
「どけよ」
トイレに行く廊下の途中に立っていた私を無理やり押しのけ、お兄ちゃんは頭をかきながらトイレに向かった。今日はセーフ、だ。私はランドセルを放って一目散に家から逃げ出した。

お兄ちゃんは昔、優しくて賢くて私の自慢だった。
私とお兄ちゃんは十歳離れている。兄弟はお兄ちゃんと私の二人だけだったし年が離れていたこともあって私たちはずいぶん仲がよかった。お兄ちゃんは尊大な優等生、だと誰かが言った。それでも一緒に遊んでくれたしアイスは必ず半分わけてくれたし、尊大でも何でも私の大切なお兄ちゃんだったのだ。
そんなお兄ちゃんはある日、学校に行かなくなった。
大学に行きはじめてすぐだったと思う。お兄ちゃんは高校時代の三年間みっちり受験勉強をして現役でかなりいい大学に入って、さあこれからだぞっていう時だった。糸が切れたように、ふっつりと突然。
お父さんやお母さんもずいぶん悩んだりして、その頃は夜中にトイレに起きるとまだ居間の電気が点いていることが何度もあったけど、一番辛かったのはやっぱりお兄ちゃんだと思う。しばらくはアルバイトをしていたみたいだけれどじきに辞めてしまったようだった。
私は日々悪い方へ悪い方へと変わっていくお兄ちゃんを見ながら、昔のお兄ちゃんの面影を探した。お兄ちゃんは、お父さんとたくさん喧嘩をして、お母さんや私を殴ることもあった。一番最初に殴られた時は何が起こったのかわからなくて、凍った笑顔が張りついたままだったと思う。え、と言ったら、むかつくんだよ、とお兄ちゃんは言った。

「(これからどうしよう)」
この心細さはどうしたことだろう。私は涙ぐみそうになり慌てて目をこすった。風が吹いてうすく汗ばんだ身体を乾かしていく。背の高い木がざわりと揺れ、私はたたかっているような気持ちで歩きはじめた。

4 やさしい憂鬱

「あれ、お前どうしたの」
朝会った小学生が店に来た。俺はその時店番をしながらうつらうつらしていて、小学生の三回目の挨拶でやっと起きたらしい。
「……べつに」
「別にって事はないでしょ、わざわざ来といて」
小学生は下を向いた。髪の毛に陽が当たっていかにも暑そうだ。俺が小学生の次の言葉を待っていると、ぐう、と間の抜けた音が響いた。
「はは、何お前、飯食ってないの」
時計の針は一時半を指している。小学生が一日中外でサボるなんて、土台無理な話だと俺は思った。
「とりあえず、入れば」
俺はろくでなしで子供も苦手だがお腹を空かせた小学生を見放すほど人でなしではない。のれんを分けて店の奥に進むと、後ろからパタパタと小学生の足音が聞こえた。

小学生を座布団に座らせ、俺は台所に立った。小学生は物珍しげにキョロキョロしているが少し緊張しているようだ。
「何食う」
「……何でもいい」
憂鬱なのか遠慮しているのか小学生はトーンを落とした声で言った。俺はぽりぽりと頭を掻く。
「子供が遠慮なんかすんな。つっても、カップ麺くらいしか無いけど。今兄貴いないし」
ふうん、じゃあカップ麺でいい、と小学生は言った。俺は湯を沸かすべくコンロに火をつける。
「お兄ちゃん、いるんだ」
そう、と俺は返事をしながら台所にある椅子に座った。俺は早くも小学生をあげたことを後悔し始めていた。湯が沸くまで、この小学生と二人で何を話せばいいのだろう。
「お前、カバン置いてきたの?朝はしょってたじゃん」
ふいに気になり俺は言った。一回家に帰ったのだろうか。
「うん」
小学生は曖昧に笑った。ふーん、まあ、どうでもいいけどさ。心の中で呟き、俺は小学生をぼんやりと見つめる。
「ねえ、お兄さんのお兄ちゃんってどんな人?」
「……真面目。誠実で愚鈍」
愚鈍ってわかるか、うすのろってこと、と俺は続ける。小学生は真剣な表情で頷いた。
「私にも、お兄ちゃんがいる」
「ふーん、そう」
小学生は膝に手を置いて下を向いている。沈黙。変な子供だなぁ、と俺は思った。ちょうど湯が沸き、俺はあわてて立ち上がる。

カップ麺をすすっている小学生を見ながら、俺は手持ち無沙汰だった。小学生は黙々と食事をこなしている。あくびをひとつして、兄貴は一体どこまで買物に行っているのだろう、などと思ったりした。
「お前さ、名前なんていうの」
なんとなくそう訊いた。小学生はちらりと目を上げ、まい、と言った。
「浅岡茉衣。お兄さんは?」
「俺?住野博史」
そうなんだ、と小学生――茉衣――は答えた。その時、ガラガラと引き戸が開く音がして兄が帰ってきた。

5 現実

引き戸が開いて駄菓子屋に人影が入ってきて、おかえり、とお兄さん(住野博史さん)は言った。この人が博史さんのお兄ちゃんだろうか。博史さんとは全然タイプが違うな、と思った。そう年は離れていなさそうだけれど、ふわふわ飄々としている博史さんとは違ってちゃんと地に足がついているように見える。
「こんにちは」
先手必勝だと思って挨拶をした。博史さんのお兄さんは一瞬おどろいた顔をして、こんにちは、と返した。
「兄貴、あの、今朝会った変な小学生」
変な。引っかかる言い方だったので私は黙っていた。博史さんのお兄さんは少しの間何のことだか分からないという顔をしたが、やがて微笑んで、
「そうか、外は暑かったろう?博史、何か冷たい物でも出してあげなさい」
と言った。
博史さんは「へいへい」と言って冷蔵庫を開けた。私がそれを見ていると博史さんのお兄さんに話しかけられる。
「お嬢ちゃん、学校は?」
私は、ん、と言って曖昧に微笑む。今日は死ぬ予定だったから行きたくない、と言える度胸も、休みなんです、と嘘をつき通せる自信もなかった。
「行かなくていいの?」
私は困ってしまう。博史さんが麦茶を三つお盆にのせて運んできた。
「まあいいじゃん、別に」
一日二日休んだってどうってことないだろ、と博史さんは早速自分の麦茶を飲み干しながら言う。いちんちふつかやすんだってどうってことないだろ。私はなんとなくほっとして博史さんの方を見た。
「そういうわけにはいかないだろう」
博史さんのお兄さんはぴしゃりと言った。私は二人のやりとりをはらはらと見ながら麦茶に口をつける。コップの表面にはすでに水滴がついていて冷たかった。
「今日はもうしょうがないけど、明日からちゃんと学校に行くんだよ」
はい、と頷く以外に私に何ができただろう。私は自分の抱いていた希望が急速にしぼんでいくのを感じた。なんとなく居づらい空気になってしまい、時計を見ると二時半を指していた。

ひとりで帰れますと言ったけれど、博史さんのお兄さんが「送ってやれ」と博史さんに言ったので、私は博史さんを道案内しながら家まで送ってもらうことになった。
私たちはあれからテレビを見たりぽつりぽつりと喋ったりして過ごした。お客さんはたまにお爺さんとお婆さんとか幼稚園の子とお母さんとかが来て、その度に博史さんは立ち上がって、いらっしゃい、と言って店の方に出て行った。
夕方。いくらか涼しくなって、私はぼんやりと悲しい気持ちになる。また家に帰って、お兄ちゃんの機嫌をとって、寝たら、明日が来る。そうしたら、どうしようか。
「なんかごめんな、兄貴、悪気は無いんだろうけど」
それほど真剣じゃなく、でもほんの少しだけ申し訳なさそうに博史さんは言った。私は初めて博史さんの人間味のある表情を見たので驚いた。ううん、いい、と言って下を向く。
「家どのへん?ええと、茉衣、ちゃん」
茉衣でいいよ、と私は言った。私くらいの子供と接するのも、女の子をちゃん付けで呼ぶのも、博史さんはあからさまに慣れていない感じだったからだ。
「商店街の、ちょっと奥に入ったとこ」
「ふーん」
博史さんは得意の興味なさそうな返事をして、まあ、時々は兄貴いない時もあるからよかったら来なよ、と言ってくれたけれど、お兄さんがいない時がいつなのか私には皆目見当もつかないのだった。

家に着くと、お母さんが玄関の前で電話をかけていた。私を見ると驚いた顔をして、電話先の人にぺこぺこと謝って電話を切る。
「茉衣!あんたどこに行ってたの」
私は急に現実に引き戻された気持ちになる。心配性のお母さんがいる現実。
「学校から電話かかってきちゃったわよ、今日ご連絡ありませんでしたが茉衣ちゃんはお休みですかって」
お母さんは少し離れて所在なさげにしている博史さんの方をちらりと見て言った。私は、駄菓子屋のお兄さん、と言った。お母さんは博史さんを無遠慮にいぶかしみ、ぼーっと立っていた博史さんが少し近付いて、
「茉衣ちゃんは日中うちの駄菓子屋で過ごしてました。昼飯、いやお昼ご飯を食べてなかったみたいなので用意して、暗くなったので送りました」
と説明した。たどたどしい敬語。高校生くらいの男の子みたいだなと思った。博史さんはどう若く見積もっても20代半ばくらいに見えるので私は少し笑う。
「そうですか、それはどうもすみません」
お母さんは頭を下げて、私にも頭を下げるように促した。私はぺこりと頭を下げる。
「ありがとう、博史さん」
お母さんが玄関のドアを開ける。私が博史さんに手を振ると、博史さんも、じゃ、と言ってひらりと手を振った。私は博史さんの背中が小さくなるのをぼんやり見ていたけれどお母さんに背中を押されて中に入る。
「お母さん、今日なんで昼間いなかったの」
玄関で訊いた。買い物よ、とお母さんはにべもなく答え、
「それよりあんた、学校行かないなら行かないでいいけど、変なところに入り浸るのはやめてちょうだい」
とそっぽを向いて言った。はじめ、お母さんが駄菓子屋のことを言っているのだとわからなかった。お母さんは博史さんを怪しんでいる。私は絶望的な気持ちになり自室に戻る。返事くらいしなさいよ、というお母さんの声を背中に受けとめながら。

6 母と女と

目覚ましが鳴っている。うるさい。俺は手探りで目覚ましを止め、もう少し眠ろうと布団をかぶった。
「いつまで寝てるんだ」
上から声が降ってきて俺は仕方なく目を開ける。兄が俺の部屋の入口のところに立っていて、店開けるぞ、と言った。
「もうそんな時間」
十時、と兄は答える。俺は大きなあくびをして浮かんだ涙を拭った。顔洗ってこい、と後ろを向いて歩きながら兄は言った。これだから長男ってやつはなぁ。俺もう28だっての。心の中で悪態をつきながら俺は洗面所に向かう。

「茉衣、ちゃんと学校行ったかな」
店を開ける手伝いをしながら呟いた。兄はほんの束の間、誰だそれは、という顔をして、ああ、と言った。
「あの小学生か」
「茉衣ってんだ」
兄は眼鏡の奥の瞳をおもしろそうにひからせ薄く微笑み、お前にそんな趣味があったとはな、と言った。
「は?」
俺はすごく間抜けな顔をしていたと思う。兄は、くれぐれも犯罪には手を染めるなよ、と続ける。
反論する気も起きず無視して窓ガラスを拭いていると、自分で言ったことがおもしろいのか兄はまたくつくつと笑った。

「兄貴、ちょっと、店番いい」
「ああ、どこだ」
「コンビニ」
たしかに茉衣のことは気になってはいた。あの見るからに憂鬱そうな、無口な小学生。俺は背丈や不機嫌な喋り方のせいか子供に怖がられることが多いが、茉衣は他の子供とは少し違った。
「(でも、まあ)」
でもまあ、多分もう来ないだろう。茉衣の母親のあの様子。上品な感じのおばさんだと思ったが後で茉衣に釘を刺したに違いない。茉衣だってこんな死んだような駄菓子屋に通いつめるより学校で友達でもつくっている方がいい。俺は兄のようなナンセンスな考えは持っていなかったが、少なくともそっちの方が健全だ、と思った。
コンビニで煙草買って、雑誌でも立ち読みしよう。俺は足を擦ってしまう癖がある歩き方――昔何度も母に注意された――のせいで響くサンダルのこすれる音を聞きながらそう思った。

コンビニに入り、女性店員の軽薄な、いらっしゃいませー、を聞いて、俺は雑誌コーナーに向かった。ふと窓の外を見ると、見たことのあるようなおばさんが目に入る。
「(あ、茉衣のお母さんじゃん)」
気合入れて化粧してんな、あの時と同じくらい、と俺は思った。茉衣の母親に会ったのは一回のみだったし、どこに行っていたかは知る由も無いがその時もずいぶん着飾っていた。
俺がなんとなく視線を外せないでいると、電柱のところに立っていた茉衣の母親が軽く手をあげて車がすべり込んできた。車の中からは日にやけた男が出てきて、茉衣の母親を車の中に招き入れる。
「(茉衣のお父さんか?)」
それにしては少し若すぎる気がする。俺は目を凝らしてじっと見たがよく見えない。車が走り去る。俺は、まぁいいか、と思い、もしかしたら茉衣の兄かもしれない、と思った。兄がいる、と言っていたのだ。胸の奥底でちらちら動く疑惑には気付かないふりをした。俺はなんとなく雑誌を読む気になれずに煙草だけ買って帰る。

7 学校

今日は学校に行った。気が重かったけれど、博史さんに心配をかけたくなかったのだ。(お母さんにでも博史さんのお兄さんにでもなく、なぜだか私は少しも心配している素振りを見せなかった博史さんに、と思った)
朝はお父さんと一緒にご飯を食べた。私がリビングの椅子に座るとお父さんは新聞からちらりと目を上げ、昨日、学校に行かなかったのか、と言った。
「……うん」
昨日もお父さんとお兄ちゃんは喧嘩をしていた。お父さんの口の横の絆創膏を見ながら私はいたいたしい気持ちで思う。お兄ちゃんの叫び声を聞きながら、私は部屋で膝を抱えてじっとしている。
「今日は行くんだな」
「うん」
お父さんは頷き、また新聞に目を落とした。感情の読み取れない目を伏せているこのお父さんも昔は、厳格でありながらも幸せそうな人だったのだ。台所ではお母さんが水仕事をしている音が聞こえている。

学校では担任の先生に、昨日お母さん心配してたよ、と言われただけだった。特におもしろいこともつまらないこともない。私はいじめられてはいなかったが友達もいなかった。友達がいなくても給食の時は自動的に班分けされるので困ることはないし、休み時間は図書室という便利な場所で過ごした。
「(めんどくさいや)」
下校中、傘をガガガガと引きずりながら歩く。今日は今にも雨が降り出しそうな曇り空で、私をいつにも増してどんよりと暗い気分にさせる。こんな日は駄菓子屋も幽霊屋敷みたいになっているんだろうなぁと思い、私は少し笑った。
博史さんはどうしているだろう。また店番をしながら居眠りなんかをしているだろうか。私は私と似た者同士である男性のことを思った。それでも、今日も家に帰らなくちゃいけない。

8 自殺

昨日の夜から雨が降り続いている。目覚ましを止め、今日は土曜だから兄が家庭教師のアルバイトに出かける日だ、と思い出す。ひんやりと涼しい雨の朝。布団の横に置いてあったペットボトルのお茶を飲み干し、初夏だといっても雨の日はシャツと下着だけだと寒い、と思った。
またお前はそんな格好で寝て、と兄に言われる前に着替え、居間に顔を出すと兄は既に食事をとっていた。おはようさん、と言うと、兄は、帰りはいつも通りだ、と言った。
兄を送り出すといよいよ暇になってしまう。暇といっても店番をしなければならないから本格的に寝るわけにもいかない。雨だし人来ないだろうし、もう今日は店閉めちゃおうかなぁ、と思いながらまどろんでいると、聞いたことのある声がした。
「お前、友達いないの」
俺は声をかける。そこには赤い傘をさした茉衣が立っていた。

「アイス食う?あ、寒いか。そんな冷えてないジュースならあるけど」
いただきます、と茉衣は言った。俺はその黄色っぽくうすい液体をコップにつぐ。
「そういえばさ、お前の父ちゃん若いんだな。お兄ちゃんか?あれ」
俺は自分の疑惑が当たってないことを祈りながら慎重に訊いた。茉衣の表情がさっと翳り、しまった、ビンゴだ、と思う。
「たぶん、不倫相手」
茉衣はジュースを一気に飲み干した。俺は「ふーん」と言うこともできずに、茉衣に、もう一杯いる?と訊いた。茉衣は首を横に振る。
「ねえ」
茉衣は向き直って言った。
「博史さんの話をして」
俺はぽりぽりと頭を掻く。俺の話ねぇ。色々なことがあった気がするが、今はもううまく思い出すことができない。
「起きて、店番して、時々は兄貴に代わってもらって、散歩行ったりして、友達のいない小学生の相手したりする」
適当に答えた。茉衣は弱々しく笑う。俺はなぜだかわからないがなんとなく気の毒になり、余計なことまで喋ってしまう。
「昔は姉ちゃんもいた」
茉衣は驚いた顔をして、お姉ちゃん、いたんだ、と言った。
「今はどうしてるの、お姉ちゃん」
俺は少しの嘘はついても仕方ない時だってあると思っている。後から思い出してもなんだってあの時本当のことを言ってしまったのだかわからない。
「自殺したよ」
沈黙が流れた。茉衣もさっきの俺みたいに、ふーん、と言うことができなかったのだろうと思う。俺はぼんやりと茉衣を眺める。
「私もあの時、自殺しようとしたんだ。あの、博史さんと初めて会った日」
俺は驚かなかった。そうなんじゃないかと思っていたわけではなく、今日は雨が降っている、という事実と同じくらい、自然なことだった。それでも俺は大人として、言わねばならないことがあると思った。
「死ぬとかさ、軽々しく言うんじゃないよ、ちびっこが」
「うん」
茉衣は意外にも素直に頷いた。本日何度目かの沈黙が流れ、俺は窓の外を見た。雨はまだ降り続いている。

昼間、茉衣に姉の話なんかをしたせいで俺は姉のことを思い出してしまい、姉の仏壇にお線香をあげた。俺は姉に、最近変な小学生が来る、と報告をした。
「(でも、俺はもう大丈夫だから)」
お約束のように付け足す。何せもうあれから十年も経っているのだ。姉が自ら命を絶ってから、十年。
姉が死んでからのあの日々。あれは俺の人生の難関だった。俺と姉は自分で言うのもなんだが仲のいい兄弟で、姉が死んでから毎日毎日、俺は自分を責め続けた。学校に行く前に見つけた死んだ姉の、ちいさく白い顔。睡眠薬をたくさん飲んで眠るように死ぬというのは一体どういう気持ちなのだろう。
あの頃の俺はいっぱいいっぱいになりながらなんとか高校を卒業し、将来も何もかもどうでもよくて、進学せずに自宅を手伝うという道を選んだがほとんど無職も同然の状態で、兄に言わせれば「後を追いそうで気が気じゃなかった」らしい。
俺、兄貴にもずいぶん迷惑かけてんなぁ。兄も姉――兄から見れば妹――の死が堪えただろうに。そこまで考えて、ちょうど兄が帰ってくる音がした。
「なんだ、ここか」
兄が仏間に入ってくる。狭い家なのですぐにどこにいるかわかってしまう。俺は、兄貴、と声をかけた。
「俺をここまで育ててくれてありがとう」
育てた、って言うとおかしいか、と言って俺はひとりで笑った。なんだなんだ、酔ってるのか、と兄は呆れ顔をつくってみせる。

9 逃亡劇

びっくりした。びっくりして、涙が出そうになるのを必死にこらえて、家を飛び出してきた。今はただ、とてもとても悲しかった。
お兄ちゃんに顔を殴られた。
今日のお兄ちゃんはお父さんとお母さんと病院に行くとかでとくべつ機嫌が悪かった。でも病院自体は前からも定期的に行っていたし、私はどうしてあんなにお兄ちゃんの機嫌が悪いのかわからずにびくびくしていた。
家には平日なのにお兄ちゃんのために会社を休んだお父さんと化粧をしながら全身でお兄ちゃんの動向を探っているお母さん、それに髭を剃れとお父さんに言われて舌打ちばかりしているお兄ちゃんがいた。私は早く家を出ようと急いで朝ご飯をつめこむ。
お兄ちゃんが髭剃りのありかが分からないと言って苛々し始める。やばい。私は走って玄関に向かおうとお兄ちゃんの横を通り過ぎようとして、お兄ちゃんに肘がぶつかってしまう。
「痛ぇな!」
私は胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられる。とっさにお腹をかばうと頬を殴られた。鼻血がたらりと垂れ、お母さんが悲鳴を上げる。
「茉衣に当たるのはやめろ!」
お父さんが私とお兄ちゃんの間に割って入ってお兄ちゃんの頬を殴った。お兄ちゃんは派手に吹き飛び、私は驚いたのと悲しいのでランドセルをつかむと走って家を飛び出した。

「お前それ、どうしたの」
博史さんは少し驚いたように眉を持ち上げた。私はあれから、いてもたってもいられず駄菓子屋に行った。もう学校に行く気にも帰る気にもなれない。まだ店が開いてなかったのでドアチャイムを押すと、ふあい、とあくびをしながら博史さんが出てきて、私は、また来ちゃった、と言った。
「お兄ちゃんに殴られちゃった」
へへ、と笑ってみせると、へへじゃないよ、と博史さんは呟く。その瞬間私は油断して、涙があふれるのを止められなかった。
泣きじゃくって下を向いて目をこすっている私の頭に、遠慮がちに手が載せられる。上を向くと、博史さんが苦々しげな表情で私の頭を撫でていた。
「兄貴呼んで、救急箱もらうか」
「やだ!」
私は弾かれたように顔を上げた。痣と鼻血を拭った跡と涙でみっともない顔だったと思う。
「ここにいて」
ひっく、と私は大きくしゃくりあげる。悲しくて自分がみじめで、もうどうしようもなかった。博史さんはしばらく私を見ていたけれど、やがて聞き取れないくらい小さい声で言った。
「逃げるか、一緒に」
私はびっくりして博史さんを見た。博史さんは今までにないくらい真剣な表情をしていて、張りつめた眼差しはある種痛々しいくらいだった。
「なにから」
ばかな私は尋ねた。やっと涙がひっこんできっと私は今は真っ赤な目をしているのだろう。
「全部から」
訊きたいことは山ほどあった。いつまで。お金はあるの。怒られないかな。でもそんな現実的な話を口にしたら何もかもおしまいだと思って、私は黙っていた。そうして、しばらく経ってから小さく頷いた。

10 父娘

朝日が眩しい。俺はごろんと寝返りをうつと、そういえば今日はあのうるさい目覚ましが鳴らないな、と思った。
ゆっくりと目を開ける。見慣れない室内だ。横では茉衣がしずかに寝息を立てていて、俺は自分が何をしたか思い出した。
俺と茉衣は、逃げたのだ。
親子です、と言えば全てうまくいった。若いお父さんですね、と微笑まれ、茉衣は照れくさそうに笑う。茉衣が娘。俺はこそばゆくも変な感じだった。
あれから痣の手当てをしてやり、電車に乗って遠くへ行った。暑い中アイスを一緒に食べ、泊まる場所を一緒になって探した。
「おはよう」
いつの間にか起きていた茉衣が眠そうな声で言う。俺も、おはよう、と言った。
「博史さん、いびきうるさすぎ。あんま寝れなかった」
いくらか元気になった茉衣が笑った。着替えてきなよ、朝飯食おう、と俺が言うと茉衣はシャワー室に走っていった。
大変なことをしてしまった。
これは誘拐、ということになるのだろうか。俺と茉衣がいなくなったことは当然兄や茉衣の両親にも知られ、茉衣の母親はうちの駄菓子屋を探し当てるかもしれない。あの化粧濃いおばさん。俺は頭を抱えこんだ。
もちろん茉衣を性の対象として見ていることは断じて無いが、俺は間違いなく疑いの目を向けられるだろう。もうあの町には居られなくなるかもしれない。兄にもまた、いつかのように迷惑をかけてしまう……。そこまで考えて、俺は、ああ、と声を漏らした。目の前にはいつの間にか着替え終わった茉衣がいて、どうしたの、と心配そうに覗き込んでくる。

そのビジネスホテルの近くの喫茶店で食事をとりながら、茉衣は紛れもなく幸せそうだった。俺はさっぱり食欲がわかずコーヒーだけを頼む。
「美味いか」
パンを口の周りにつけながら、うん、と茉衣は答えた。小学生か。ちっちぇえなぁ。俺は憂鬱だった。

いちおう部屋に戻ると(荷物などほとんどなかったのだが)茉衣はベッドにひっくり返った。
「お腹いっぱいになったらなんか眠い」
茉衣も疲れているのだろう。あるいは昨日は本当によく眠れなかったのかも。そんなにいびきがうるさかっただろうかとぼんやり考えていると茉衣は早速寝息を立てはじめた。
「寝るの速ぇよ……」
俺はにわかに心細い気持ちになりながら言った。それから少し考えて、フロントで電話を借りることにした。

たっぷり6コール待って、はいもしもし、と相手が出た。
「兄貴、俺だけど、××駅の近くにいるから。茉衣も一緒」
お前、と電話の向こうの兄が焦った声で言うのが聞こえ、俺は電話を切った。兄はそれほど賢くないが、きっと察してくれるだろう。
喫煙所で煙草を吸う。茉衣に申し訳ないことをした、と思った。取り返しがつかない、と。俺は自分がどうして逃げようかなどと言ってしまったのかわからない。ただ気の毒だったのだ。ほんとうに逃げおおせることができるなどとは最初から思っていなかった。あの小学生といると少し調子が狂ってしまう。俺は乱暴に煙草をもみ消した。

11 こんにちは世界

見たことがある人がいるような気がして目を凝らすと、それは(二人組だったのだが)お母さんと博史さんのお兄さんだった。私は博史さんの服の裾を握って、向こうへ行こう、と促した。喋ったら見つかってしまう気がしたので喋らない。博史さんは私の肩に手を回して歩き、私は、見つかっちゃうよ、と小声で言った。
博史さんのお兄さんが近付いてきて、お前は一体何をやっているんだ、という顔を博史さんに向けた。お母さんは泣き明かした次の日の腫れぼったい目をしていて、少し年を取ってみえる。
「もう少しで警察沙汰になるところだったんだ」
博史さんは下を向いて黙っていた。いつもみたいに、悪い悪い、と不機嫌そうな声で答えていてくれたらどんなにいいだろうと思った。
「お兄さんから学校にご連絡があったからよかったけど、茉衣、すごく心配したのよ」
連絡?博史さんのお兄さんはどうして私たちがここにいることが分かったのだろう。私は混乱して博史さんを見上げる。博史さんは叱られた子供のような顔をして私を見て、その瞬間私は何もかもを理解した。
「博史さんが、教えたんだね、私たちの居場所」
私がぽつりと呟くと、博史さんのお兄さんもお母さんも気の毒そうに私を見た。博史さんはきっとすごく傷付いた表情をしているのだろう。私は博史さんの顔を見ることができなかった。うそつきだ、これはひどい裏切り行為だ、と死にたいような気持ちで思う。
「帰りましょうか、茉衣ちゃんも、ほら」
博史さんのお兄さんが促し、お母さんが私の手を引く。博史さんは悲しげに目を伏せ、後ろの方を歩いていた。

その日、私は自室でベッドに顔を伏せて、ぐずぐずと泣いたり、まどろんだり、博史さんのことを考えたりしていた。ガチャ、と音を立てて部屋のドアが開く。
「茉衣」
お母さんだ。私の背中に手を置き、さっき博史さんとお兄さんが来たわ、と言った。
「本当に申し訳ございませんって、二人でたくさん謝ってた。お菓子もらったけど食べる?」
いらない、と私は答えた。お母さんは少しの間黙って、博史さんがね、と言った。
「嘘をついてしまったけど、逃げようって言った気持ちはほんとうだって」
伝えてください、って。きっともう会ってくれないでしょうから、って。お母さんは続ける。大切な娘を黙ってどこかに連れて行った人の伝言なんて、と思ったけど、あんまり真剣そうだったから。それに茉衣も、あの人のことずいぶん好いてるみたいだし。
私は顔をあげた。まだ涙が出てきて、お母さんの膝に顔を埋める。お母さんはいつものきつい香水をつけていない。
「ねえ……、でももう、絶対に黙っていなくなるのはやめてね」
私は鼻声で、うん、と言った。

カンカンカンカン。踏切がけたたましい音を立てて鳴っている。私はランドセルをしょって、まっすぐ立っている。暑いなぁ。もう六月になる。あの時、遮断機が降りきる前にダッシュで滑りこもうとした日が遠い昔のようだ。
私は、今踏切に入ろうとしたら、誰が止めに来るだろう、とぼんやり考える。博史さんが「痛いよ、ひかれたら」などと言って来るだろうか。そうだといいなと思う。
お兄ちゃんは昨日も壁を殴ってお父さんと喧嘩をしていた。お母さんはまた化粧をして昼間どこかに出かけている。
それでも、私は生きてみようと思う。
お兄ちゃんに殴られても、お母さんが不倫相手と会っていても、学校に友達がいなくても、それでもここから始めなくてはならない。それは悲壮な決意ではなく、もっと自然で快い何かだった。
博史さんとの逃避行。結局うそをつかれてしまったけれど、逃げようと言ってくれた気持ちは本当だった。踏切が開き、私は晴れやかな気持ちで学校に向かう。放課後、時々は駄菓子屋に行こう。博史さんのお兄さんも放課後に行くなら文句はないはずだ。博史さんが「暇だね、お前も」と言って迎えてくれるだろう。
そこまで考えて私は微笑む。私は12年目にしてようやく、私の人生を手に入れた。今度博史さんのお姉さんの仏壇にお線香をあげていいか聞いてみよう、と思い、私は走り出した。

 


 

これからも地獄で生きる 2011年