さよならだけが人生だ

先生の話をしよう。
何かが欠けた大人というのを、俺は生まれて初めて見たと思う。俺の周りの大人は、怖いものもなく、自分の決定に不安を感じることもなく、圧倒的な自信をもって俺を威圧する存在だったから。先生の欠落はたとえば、笑った時なんかに花びらが散るようなかすかな違和感の残る寂しいものだったけれど、俺はその違和感を今でもはっきり思い出すことができる。十五歳。他の記憶はどんどんおぼろになっていくのに、先生の記憶だけ、いつまでも同じ明るさでそこにある。

若葉が出始めた桜の枝が見えるような季節だった。俺は去年の冬から続いていた故障で、暗澹とした気持ちで部活のない放課後を過ごしていた。都大会は六月で、今から足を治したところで間に合うはずもないのに、未練がましく陸上部の練習をしているグラウンドを眺めていた。
後輩たちが目配せをしてひそひそささやき合う。部活の同級生のうちのひとりが俺の方に近付いてくる。しゃがみ込んでいる俺を見下ろす同級生の瞳は軽蔑に染まっていた。
「桜庭、練習の邪魔なんだけど」
俺は黙って立ち上がり、校舎の方へ引き返した。

部活で練習をしていた頃は一緒に夢を追いかけた仲間もいた。けれど俺が故障をして大会に出られないとなると、皆は他の長距離ランナーを立てることに躍起になった。皆にとって二年間追いかけてきた大会だけが全てで、その頃俺たちにはわからない事情で顧問がろくでもない教師に替わったこともあり、いつまでもグラウンドを眺めている俺をあからさまに迷惑がる同級生もいた。故障と仲間たちの態度を受け入れて、静かに引退できるだけの度量は俺にはなかった。俺が走るはずだった三千メートルは二年生の誰かが走るらしい。俺は日陰の校舎で蹲った。走りたかった。このまま引退して受験勉強を始めて、なにかを諦めて高校生になるなんて想像するだに恐ろしかった。一度そうやって諦めてしまえば「あの頃は幼かった」なんて言ってきっと高校の同級生と笑うのだろう。けれどそんな風に過去の自分を笑う俺がいるとして、その俺に今の俺の鬱屈はもう二度とわからない。走れないこと、仲間たちから煙たがられていること、こんな道を通ってしか高校生になれないこと、その現実の全てを一年後に笑って忘れたくなどなかった。
先生と出会ったのはそんな時だ。
蹲ったまま、俺はすこし泣いた。学校で泣くことも最近では珍しくなくなっていた。俺が背をもたせている、一階のその教室がなんの部屋かなんて気にも留めなかった。ふいに引き戸が開き、俺の背は扉にくっついて引っ張られた。顔を上げると先生が、面倒くささを隠そうともしていない表情で俺を見下ろしていた。
「悩み相談なら、そっちだよ」
先生が指差した部屋には「カウンセリングルーム」とあった。俺は先生をまじまじと眺めた。きれいな男の人だった。一回りも年上の同性に「きれい」だなんて思うのは、きっと後にも先にも先生ひとりだと思う。白衣を着ているから理科の教師か養護教諭だろう。去年異動していた冴えない養護教諭のおばさんを思い出した。そのあとに来た養護教諭の顔を、俺は知らなかった。
「先生、足が痛いんです」
俺はのろのろと呟いた。走れないだけで痛いわけではなかったし、その時、どうしてそんなことを言ったのかわからない。けれど今カウンセリングルームに押し込められるのはどうしても嫌だった。にこにこといつも不自然に笑みをたたえたスクールカウンセラーよりも、このやる気のなさそうな養護教諭の方が俺を理解してくれると思った。その考えは突然俺の頭の中にひらめきのように舞い降り、だからきっとこれも、運命、というようなものだったのだと思う。
ん、と返事をすると、先生は保健室に引き返した。俺が入ってもいいのかだめなのか解らずにいると、部屋の中から「保健室は足の痛む者を拒まない」と先生の声が聞こえた。

丸く黒い椅子に腰かけ、正面の椅子に座っている先生を眺めた。二十代後半、もしかしたら半ばだろうか。きれいなのに、どこかうらぶれた風情のある男の人だった。首にぶら下げている名札には「和泉専治」と書かれている。和泉先生、と俺は口に出して呟いた。
「うん」
先生は頷いた。先生の「うん」は、友達のそれとも両親のそれとも違った。単なる返事というよりもっと深く、承認のような響きを帯びている。その瞬間俺は油断して、涙が浮かぶのを止められなかった。ひっく、と小さくしゃくり上げると、先生が椅子から立ち上がる気配がした。
俺は今度こそ保健室から追い出され、カウンセリングルームに連れて行かれるのだと思った。けれど先生は仕切りに遮られた向こうの方へ行き、小さな缶を手にして戻ってきた。俺は怪訝な顔をしていたのだと思う。先生は初めてかすかに笑った。
「名前」
「……桜庭です」
「桜庭、口を開けて」
俺はなんだかわからないまま口を開けた。喉を見るんだろうか。足が痛いって言ったのに、この人は話を聞いていたんだろうか。それに生徒を呼び捨てにする教師なんて初めて見た……。そんなことをぼんやり考えていると、先生は缶から飴を取り出して俺の口に含ませた。シロップのようないちごの味が口の中に広がった。
「元気の出るおまじない」
ふ、と息をもらすようにして先生は笑った。俺は何も言えないまま、缶を持っている先生のてのひらを見る。節立った薬指に指輪がはまっていた。
「今日はお帰り、それでゆっくり眠るんだ」
俺は窓から外を見た。日が傾き始め、陸上部はグラウンドの整備を始めている。不思議なことに、気持ちはいくらか安らいでいた。俺は黒い椅子から立ち上がり、先生にちいさく頭を下げた。
「……和泉先生、ありがとうございました」
先生は座ったまま手を振り、うん、と笑った。

鍵を差し込み、玄関のドアをそっと開ける。誰もいないとわかっていても、音を立てることを遠慮してしまう。これはもはや俺の癖のようなものなのだと思う。怖いのだ。もしも母親が家にいて、俺の帰ってきた音で起きるとひどく不機嫌になるから。
リビングに行くと、カーテンの隙間から西日が射し込んでいた。母親はいない。電話に留守電のランプがついていたので、俺は受話器を取った。
「来月はやっぱり帰れなくなった、哲生の予備校調べたから送る、あとでメールを見ておいてほしい……」
母親が家の留守電を聞かないことを、いったいいつになったら父親は理解するのだろうと思う。いつも俺についての話を俺が母親に伝言するというはめになる。けれど俺が母親に伝えたところで母親はその内容を聞き流しているのでどちらでも同じことだ。俺は受話器を置き、次に母親が帰ってくるのはいつだろう、と考えた。
鞄を置き、ダイニングの椅子に腰かけて机に突っ伏す。今日はなんだか疲れてしまった。目を閉じると、先生を思い出した。
奇妙な先生だった。うらぶれているのにきれいだった。指輪をはめていたから結婚しているのだろう。いちいち風変わりで、俺は没落貴族という言葉を思い出した。ああでも、あの「うん」はよかった、すごく安心する……。あんな大人も、いるのか……。

瞬きをすると部屋の中は真っ暗だった。俺はむっくりと起き上がり、携帯のボタンを押して時間を見た。七時半。夕飯と明日の弁当の準備をしなければならない。そういえばとてもお腹が空いている、と思い、冷蔵庫を開けると何もなかった。冷凍チャーハンはゆうべ食べてしまったのだった。ため息をつき、いつも母親がお金を入れていく封筒を手にして俺は制服のまま玄関を出た。

両親に世話をされた覚えがない。
夜の街道を歩きながら、俺はぼんやりと思った。びゅんびゅん通る車と、街灯のたよりない明かり。それがどれだけおかしなことなのか、俺は小学校一年生の夏休みに「お父さんと海に行った」と日焼けした肌から歯をのぞかせて笑う同級生の話を聞くまで知らなかった。俺の父親はもうずっと単身赴任をしている。幼い頃、自分に父親はいないのだと思っていたくらいだ。けれどいくら仕事だとはいえ何年も帰ってこないのは、そこまで妻にも子供にも興味がないのだと思う。俺は少し笑う。母親だってそうだ。彼女はきっと、結婚したくなかった。俺が幼稚園に通うようになってから早々に仕事に復帰し、俺を産んだことなど忘れてしまったかのように仕事に没頭している。三日にいっぺんくらい帰ってきては、封筒にお金を入れてまた働きに出て行く。それならどうして家庭をつくって子供を産んだのかと俺は聞くことができない。世間体のためだという答えが当然のように返ってきたら、それが俺の中の大事な何かを打ち砕く気がするからだ。
暴力を振るうわけでもなく、不倫をしているわけでもない。ちゃんとお金も入れるから、たちが悪かった。
スーパーマーケットの総菜売り場に行くと、卵のある棚の方で陸上部の同級生を見かけた。俺はさっと棚の陰に身を隠した。きっと母親だろう、優しそうなおばさんと一緒に卵を選んでいる。俺はすこしぼうっとして二人を眺めた。焼けるような羨望が胸を圧迫した。走ることもできて、一緒に卵を選んで夕飯を作ってくれる母親がいる。どちらも俺にはないものだった。俺は蹲りそうになる気持ちをこらえてレジに向かった。

翌朝俺が教室に入ると、数名の同級生が目配せをしてそそくさと席に着いた。そのうちのひとりは陸上部だ。またあることないこと言われているのだろうと思い、俺はうんざりして自分の席に着く。ホームルームの鐘が鳴り、担任教師がせかせかと教室に入ってくる。朝の挨拶を早々に済ませると、担任がおもむろに口を開いた。
「昨日の放課後、二年生の女子の制服がなくなっていたということがありました」
教室がにわかにざわめいた。担任は小さく咳払いをして続ける。
「その女子は陸上部で、練習後に着替えようとしたらなくなったことに気付いたそうです。何か心当たりのある人はどの先生にでもいいので言って下さい」
鐘が鳴り、担任と入れ替わりに数学の教師が入ってくる。ざわつく教室の中、同級生からの目線を感じながら、きっとこれもいつの間にか俺が犯人ということになっているのだろうと思った。胸のうちに黒い液体が滲むように、もう教室にも部活にも行きたくない、と俺は目を閉じた。

「桜庭」
保健室の引き戸を開けると、窓の外を眺めていた先生が振り返った。外は日が傾き、先生の頬が西日に照らされていた。
「ゆうべはよく眠れた」
俺にたずねているのに、語尾が上がらないせいでそうと聞こえない口調で先生は言った。はい、と俺は呟く。俺は先生に「今日はどうしたの」とたずねられるのが怖かった。頭が痛いとかお腹が痛いとか、正当な理由がなければ保健室にいることは許されず、俺は理由を持ち合わせていなかったから。
「どうして飴をくれたんですか」
先生が、今日はどうしたの、と口を開く前に俺は言った。先生は俺の目を見ると、真剣そのものといった表情でささやいた。
「欠けてたから、桜庭に」
言い終えると先生はふいと目をそらした。え、と俺は聞き返す。けれど先生はそれ以上何も言わず、俺の頭に手を置いた。
「今日は何も、つらいことはないの」
「……あります」
自分の目の縁に涙がふくらむのがわかった。先生は全部わかっているみたいに俺をそっと抱き寄せる。驚いて顔を上げると、先生の目は俺ではなく向こうの壁を見ていた。あれが保健室で二回も泣いてしまった俺の自尊心を守るための先生なりの優しさなのだとわかったのは、もっと大人になってからだった。

翌朝、目を覚ますとお腹が痛かった。俺は寝返りをひとつうち、背中を丸めて呻いた。昨日の教室でのできごとを思い出し、胸に鉛を流し込まれるような気持ちになる。携帯のボタンを押して時間を確かめると八時だった。
「(……間に合わない)」
寝坊をするなんて生まれて初めてのことだった。ベッドから下りると、胃がきりきりとよじれてその場に胃液を吐いた。痛みよりも突然嘔吐したことに驚き、俺は不安で洗面所からタオルを用意しながら父親に電話することを考えた。母親は仕事中に電話をかけられるのをすごく嫌がるから……。携帯からかけると出ないので家の電話機に這い寄る。父親は普段母親が家にいて、母親が家の電話を取ることを望んでいるのだった。
「聡子か」
電話の向こうは喧噪に満ちていた。俺が、哲生、と呟くと、父親は小さく息をついた。
「どうした」
どうした、と言われると、どう言えばいいのかわからなかった。起きたらお腹が痛かったこと、寝坊して学校に間に合わないこと、突然吐いてしまったことなんかをどう話せばいいのかわからなかった。それでどうして俺に電話したんだ、と父親に言われたら、俺は今度こそ何も言えなくなるからだ。
「……父さん、薬箱の場所知ってる?」
「知らない」
全く予想通りの父親の答え。何年も単身赴任をしている父親が、この家の薬箱の場所を知っているはずなどない。苦し紛れにたずねただけのはずだったのに、自分が傷ついたのがわかった。そう、わかった、と返事をして電話を切る。目の前が暗くなり、俺は再び床に嘔吐した。

学校を休み、昼を過ぎると痛みは嘘のようにおさまった。昼食のうどんのお椀を流し台に下げると、玄関が開く音がした。
帰ってきたのは母親だった。男のような革靴を脱ぎ、俺を見て驚いた顔をする。
「哲生、あんたいたの」
「うん」
「学校は」
俺は母親に今朝の体調不良を伝える気になれなかった。きっと上手に話せないし、話しているうちに母親の心がふーっと俺から離れていくのがわかるから。母親は俺の話を聞いていてもすぐに他のことを気にし始める。お金のことや、父親のことや、あとはもちろん仕事のこと。
「父さんがメール見ておいてほしいって言ってた」
そう、と母親はストッキングを脱ぎながら答える。俺が質問に答えなかったのに母親は気にする様子もない。半ば諦めのような気持ちで目を伏せると、母親は「じゃあおやすみ、起こさなくていいから」と寝室の扉を閉めた。
俺はうどんのお椀を洗うべく台所に向かう。俺が起きている間に母親は起きてこないだろう。けれどきっと明日俺が起きる時にはもういない。始発に揺られながら母親は何を考えるのだろう。俺のことを、少しでも考えてくれたら。台所洗剤を手に取り、涙が浮かびそうになるのをこらえた。今までなかったのに、ふと振り返ったらそこにあったもののように、俺は心の奥の思いの存在を知る。俺に真剣に接してくれるのは先生だけだ。

翌朝も、その次の朝も起きるとお腹が痛かった。母親はとっくにいなくなって、代わりのように封筒にお金が入っている。俺は病院に行くことを考えた。けれど昼を過ぎれば腹痛はおさまるのだし、わざわざ医者に診てもらうほどのことではないように思えた。しかしこのまま学校を休み続けるわけにもいかない。俺はパジャマ姿で途方に暮れた。やはり医者に診てもらおうと考え、その拍子に先生のことを思い出す。先生はどうしているだろう。そうだ、先生に診てもらおう。俺は少し元気が出て、制服に着替えるべく立ち上がった。

朝礼が始まるぎりぎりの時間に教室に着いた。俺はまた胃が痛み始めるのを感じていた。後ろの扉からそっと自分の席に向かうと、机に何かが書かれていた。
「制服泥棒 死ね」
俺は目の前が真っ暗になるのを感じた。ひそひそ笑う声がこだまのように反響して大きくなる。教室から走り去る間もなく、朝に無理やり食べてきたパンを吐いた。しんと静まりかえった教室で、俺は走ってきた担任教師に肩を抱かれ保健室へと連れて行かれた。

口をゆすぎ、担任教師が教室へ戻ると、俺は我慢していた涙が溢れるのがわかった。ベッドの縁に腰かけ、椅子に座って心配そうに俺を見ていた先生に抱きついて泣いた。
「せんせ……俺、もう、だめ……です」
先生は黙って俺を抱きとめ、どうしたの、と静かにたずねた。俺は全てのことを話して先生に幻滅されるのが怖かった。誤解されるのも怖かったし、甘えるな、とやんわり諭されるかもしれないのも怖かった。けれど俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、一度言おうとしたことを止めることはできなかった。
「故障して走れないんです、それで陸上部では仲間外れで、いつの間にか俺が後輩の制服を盗んだことになってて……家に帰っても誰もいなくて、朝起きたらおなかが痛くて、俺は、俺は学校に通いたいのに、走りたいのに」
先生は俺の話を聞き終えると、俺の腰と後頭部に手を回した。そっと俺を抱き寄せ、足を曲げるように促す。俺がちょうど胎児のような姿勢になると、よっ、と声を出して先生は俺を自分の膝の上にのせた。椅子が軋み、俺は先生を見上げる。先生は目を閉じて、安らかな表情をしていた。
「名前」
「……桜庭、です」
「下の名前」
哲生、とちいさく言うと、先生は俺の背中をとんと叩いた。
「哲生はいい子だなあ」
しみじみと先生は呟いた。もう片方の手で俺の頭をそっと撫でる。石鹸のような匂いがふっと香った。
「ああ、ほんとうにいい子だ、哲生は世界一だよ」
俺は今度こそ涙を止めることができなかった。ひっく、と大きくしゃくりあげ、先生の白衣を握りしめる。先生が俺をぎゅっと抱き締め、おお、よしよし、とささやいた。
「保健室、いつでもおいで」
俺は小さく頷いた。

日に日に緑の色が濃くなり、アスファルトが地上の温度をぐらぐらと上げるような季節になった。一学期の終業式にも出席できず、俺は保健室のベッドに横たわって式に出ている先生の帰りを待っていた。
ゆうべは父親が家にいた。
俺はおどろいてしまい、おかえり、と言うより先に、父さんどうしたの、とこわばった声でたずねた。父親は俺をじろりと見ると机の上にあった冊子を開き、いつもの通り無表情に「夏休みからこの予備校に通いなさい」と言った。
「高校のこと考えておけよ、学校で面談があったら行くから、父さんにでも母さんにでも言いなさい」
うん、と俺は返事をした。父親の横顔には疲労が濃く滲んでいて、俺は父親がそれ以上話をしたくないと思っているのがわかる。教室には行けず、毎日保健室に通っていることを言う気になどなれなかった。

うとうとしていると、保健室の引き戸が開く音がした。俺はベッドからむっくりと起き上がり、カーテンを開けてそっと先生の後ろ姿を見つめる。ハンカチで汗を拭い、冷蔵庫を開けてペットボトルの麦茶を飲む。俺は靴を履いてベッドから下り、先生、お帰りなさい、と声をかけた。
「うん」
振り返り、先生は笑った。いつもの「うん」に、俺は心の中があたたかくなる。先生が他の教師に俺のことをなんと説明しているのか俺は知らない。教室に登校しない生徒を保健室に通わせてはいけないはずなのに、先生はいつでも笑って迎えてくれる。けれど父親のことを思い出し、俺はあたたかい気持ちが翳るのを感じた。先生が、ん、とかすかに首を傾げ、俺の額に手をやった。
「冷房、寒くなかった」
「先生、俺予備校に通わなくちゃいけないんです」
先生は片方の眉をもちあげた。
「勉強はした方がいい」
「夏休み毎日ここに来て、先生に勉強を教わりたい」
言ってから自分がわがままを言っていることに気付いた。これでは駄々をこねる子供だ。先生が俺の目をまっすぐに見て、おれ、英語できないよ、と言う。
「おれは桜庭に、予備校でもどこでも、友達をつくってはしゃぎ回ってすごしてほしい」
俺は押し黙った。先生の言葉には、すこしも余分なものが含まれていない。先生がそう言うのなら、きっと本当にそう思っているのだろう。胸がいっぱいになるのを感じ、俺は目を伏せた。

夏は予備校に通った。先生の言うような「友達」はつくらなかったけれど、勉強は苦痛ではなかった。それに予備校の同級生はみんな受験のために予備校に通っているので、友達がいなくても気にする人間はいなかった。
夏を過ぎると外科通いも徐々に減ってきて、俺は予備校の帰り道にちょっと駆け足をした。視界の端で街路樹が遠ざかる感覚はひどく久しぶりのものだった。ゆっくりスピードをゆるめて、息を整えながら立ち止まる。走れた。俺は心地よい風に目を細め、こみ上げる喜びを噛み締めた。

その日は夏休みの終わりだった。予備校の帰り、いつものように駆け足をしながら帰っていると、俺の通っている中学校が目に入った。しばらく先生に会っていない。夏の間ちゃんと予備校に通えたことを先生に褒めてもらいたくて、俺は先生に会いに行こうと考えた。夏休みでもきっと学校にいるだろう。俺は部活動をやっている連中のために開けている門から、私服のままそっと保健室に向かった。

校庭をぼんやり眺めると、陸上部がグラウンドの整備を始めていた。日は傾き、風が汗でべたついた身体を乾かしていく。薄暗い校舎の中に人の気配はなかった。俺は下駄箱で靴を履き替え、静かに廊下を踏みしめて歩いた。
保健室の扉を開けながら、先生、と言おうとして口をつぐんだ。カーテンの開いた窓から夕陽が差し込み、保健室の中は燃えているように見えた。いつも座っている椅子に先生はむこうを向いて腰かけている。丸めた背中は震えていて、手に持った何かを眺めていた。
「先生」
俺はいつもと違う不穏な空気を感じながら声をかけた。先生はゆっくり振り返り、後ろ手に扉を閉めた俺を見る。先生の頬は涙に濡れていた。
「せんせ」
「桜庭」
先生はあわてたように右手で目元を拭う。俺は動揺してしまい、目線を先生から動かした。机の上には今しがた先生が持っていたであろう写真が置かれていた。
「……予備校には、ちゃんと通えた」
先生は涙に濡れた瞳のまま俺にたずねた。はい、と小さく返事をしながら、俺の心臓の鼓動が速まる。先生が泣いている。どんな時だって落ち着いていて、俺が泣いていれば抱き上げて優しく背中をたたいてくれた先生が。俺は自分の胸の奥で、正体のわからない炎がゆらりと揺らめいたのがわかった。先生の座っている椅子に歩み寄り、誰の写真ですか、と俺は口に出した。
「……ん、おれの、結婚してた人」
先生はかすかに微笑んだ。え、と俺が問いかけた声はひどく弱々しく響いた。俺は思わず先生の左手を見る。指輪ははまったままだった。
「……してた、って」
「あの人は、旅が好き、北の遠くに行ったきり」
先生は目を伏せた。帰ってこないのだ、と俺は察した。北の遠く、という言葉が俺の心の中に染み込む。降り積もる雪というよりも、暗く寒い、底無しの海を想像した。
「予備校に通えたんだね、よかった」
俺はふっと現実に戻った。泣いていたせいでやや腫れぼったい目を細めて先生は笑う。俺は胸の奥の炎がどんどん燃えて、自分を内側から焼いている錯覚に陥る。はい、とかすれる声で返事をして、俺は顔を伏せた。
先生を好きなのかもしれない。
夕陽が沈み、先生が立ち上がってカーテンを閉める。もう遅いからお帰り、と先生がささやくように言っても、俺は顔を上げることができなかった。

ひとりの夕食の後、つまらないテレビを上の空で見ながら、俺は先生のことを考えた。先生の、まるきり抜け落ちて、先生自身それがあったことに気付いていないような部分。ダイニングのテーブルに突っ伏して深く息をつく。俺にその正体はわからない。けれど欠落していることは痛いほどわかる。
俺は先生の欠けた部分を埋めたかった。先生が俺にしてくれたように自然なあたたかいやり方で。けれどどうすればそれをできるのか解らなかった。
「(……先生)」
リモコンに手を伸ばし、テレビを消す。俺はもう保健室に通えないかもしれないと思った。先生と、どんな顔をして話せばいいのかわからない。明日からは新学期だ。予備校にだけ通って、あとは走って過ごそう……。俺はテーブルに突っ伏してごろんと転がった。

夏休みが終わって十日ほど経った頃だった。俺は新学期が始まってから学校に通わずに、放課後の予備校だけに通って過ごしていた。以前のように腹痛なんかは起こらなかったけれど、あの日の先生のことを思い出すと、どうしても保健室に向かう気になれなかった。帰ってこない奥さんを思って泣いている先生を想像すると胸が痛んだ。そうしてそれとは別の、心の奥から苦い水が染み出るような感情も湧いてくるのだった。十五歳の俺はその感情の正体も、折り合いをつける術も知らなかった。今ならわかる。そう、今なら。

その日は予備校から帰ると、家の留守電のランプが点灯していた。父親だ。両親にはしばらく会っていない。父親と母親もしばらく会っていないだろうから、連絡事項があるのかも。重い腰を上げて受話器を取ると、流れてきたのは父親の声ではなかった。
「……中学校の和泉と申します、桜庭様のご自宅でお間違いないでしょうか、哲生くんに、えー……お伝え下さい、おまじないがあるからおいで……。……失礼いたします」
録音の再生が静かに終わる。俺はもう一度再生ボタンを押した。受話器から先生の声が流れる。……中学校の和泉と申します、桜庭様の……。
俺はゆっくり目を閉じた。受話器を持ったまましゃがみ込む。留守電の録音に慣れていないのか、学校名が切れている。録音された時間は二十時四十二分。俺は夜遅くの学校で、名簿をめくって、背中を丸めて電話をかけている先生の後ろ姿を想像した。胸が締めつけられる気持ちになり、先生がどうしようもなく恋しかった。正体のわからなかった感情が、俺の中であぶり出されるように輪郭を持つ。
先生が好きだ。
俺は蹲り、溢れ出しそうになる感情をこらえる。閉め切ったカーテンの隙間から西日が差し込み、橙色の光が線のように見える。先生に会いたい。立ち上がってカーテンを開け、俺は夕陽を身体に浴びた。電話を振り返ると、部屋が燃えるような赤に染まっていた。

昼過ぎに学校に向かい、保健室の引き戸を遠慮がちに開けると、窓から外を眺めていた先生が振り返った。おどろいた風でも嬉しそうでもなく、ちょっとの間出かけていた人を出迎えるみたいに「桜庭」と呟く。
「このあいだは、おかしな話を聞かせちゃったね」
先生は首を傾げ、ほんの少しだけ申し訳なさそうに言った。ううん、と俺は首を振る。
「先生、留守電をありがとう」
うん、と先生は笑い、それから目を閉じてしみじみと言った。
「桜庭が心配だったから」
俺は自分の心臓の鼓動が速まるのを感じた。夜に電話をかけている先生の後ろ姿が、見たわけでもないのにフラッシュバックのように頭に浮かぶ。口を開きかけると、先生が机の方の椅子に座って微笑んだ。
「勉強して行く? おれ、理科と数学は得意だよ」

先生との勉強を終え、予備校に寄ってから家に帰った。勉強中、俺に計算式を教える先生の伏せられたまつ毛を盗み見た。はたと先生と目が合うと、聞いてないだろ、桜庭、と怒った顔をつくってみせるのだった。先生の白衣からはいつものように石鹸の匂いがした。
玄関の扉を開けると、母親の靴があった。リビングに明かりがついている。母さん、おかえり、と言いながらリビングに入ると、スーパーの惣菜を食べている母親が俺をちらりと見た。
「学校から電話があったけど」
俺はこの時、母親は家の留守電を聞いたのだと思った。先生の留守電を。けれど母親は携帯を取り出し、机にかちゃりと置いた。
「あんた、学校行ってないんだって?」
母親が俺の目を見る。俺が、どの先生から、と早口に言うと、担任から、と母親は短く言う。先生ではなかった。俺はそのことにかすかな失望と圧倒的な安堵を感じながら、母親の次の言葉を待った。
「……いいけどさ、高校は受けるのね」
「うん、……面談あったら、母さん来てくれる?」
俺は母親の返事をたっぷり三秒は待った気がした。普段の母親だったら、考えとく、と言いあくびをして夕食の後片付けを始めるだろう。あるいは、お父さんに頼んで、かもしれない。けれど母親は机に目を落とし、行こうかな、と呟いた。
「え」
「日にち決まったら教えて、有休申請しなきゃだから」
俺は後片付けを始める母親の背中を眺める。彼女の中で、どんな心境の変化があったのかわからない。けれど、きっと生まれて初めて母親に優しくされて、心の中に温かいものが流れ込んでくるのを俺は止められなかった。

日に日に秋が深まり、予備校の空気も受験に向けたものになっていた。俺は変わらず日中は保健室で過ごし、放課後は予備校に通っていた。保健室では先生に勉強を教わり、時々は飴をもらったりした。先生があれ以来俺の前で涙を見せることはない。いつでも笑って、窓の方から振り返って、桜庭、と出迎えてくれる。俺はこの頃、先生の笑顔を見ると胸が締めつけられる気持ちになる。先生は俺に対して教師と生徒以上の感情はないだろう。けれど俺はそうではなかった。先生の笑顔も、涙も、俺が独り占めをしたかった。

予備校から帰り、部屋で制服から着替えていると、ポケットの中に見慣れないハンカチがあることに気付いた。しまった、と俺は思う。昼間にハンカチを忘れて先生に借りたのを返し忘れていた。明日洗って返そうと考え、ハンカチを広げた。
紺色のチェック柄の、いかにも男物のハンカチだった。俺は自分の中に欲望がちいさく生まれたのがわかった。ハンカチを鼻先に近付け、す、と匂いを嗅いだ。石鹸の匂いがした。いつもの先生の匂い……。そこから先はどうしようもなくて、俺はベッドに仰向けに倒れ込んで下着の中に手を入れた。
俺は想像する。保健室のベッド、その縁に先生は腰かけている。先生にぎゅっと抱きつくと、先生も俺の背中に手を回す。そのままベッドに倒れ込み、俺は先生にそっと口付ける。先生のくちびるはやわらかかった。俺は夢中で白衣を脱がせ、もどかしい気持ちでその下に着ているシャツのボタンを外す。普段衣服の下に隠れている先生の肌があらわになる。手を先生の左胸のあたりにずらすと、心臓の鼓動がすごく速くなっているのがわかる。桜庭、と先生は苦しげに呼吸をした。俺はたまらず先生の口をくちびるで塞ぐ……。先生のずぼんのベルトに手を伸ばし、俺は先生を見つめる。先生は頬をかすかに赤らめ、小さく頷いた。
俺は先生の足を広げ、自分のふくらんだ陰茎を取り出す。ぐ、と先生の後孔にゆっくり押し込む。先生の身体から、石鹸の匂いがふわっと香る。先生は眉根を寄せて荒い呼吸をしながら、かすれた声で「桜庭、好き」とささやく……。
うっと声を上げて俺は射精した。ひとりのベッドで、手のひらに垂れる温かく粘ついた自分の精液を眺める。ティッシュを取りながら、俺は深く息をついた。先生で抜いてしまった。ひどく罪深い気持ちになり、俺はベッドに沈み込んだ。先生が俺の思いを受け容れることはないとわかっている。それでも俺はこの熱っぽく汚れた感情ごと、先生が好きだった。

木枯らしが吹いていた。予備校での授業を終え、俺は玄関を開けて靴を脱ぐ。革靴が二足揃っていた。両親が家にいる、と思い、俺は内心おどろいてリビングに向かった。
「父さん、母さん」
リビングに入ると、両親はテーブルの上に置かれたパンフレットを眺めていた。高校の資料だ。父親が俺をちらりと見て、おかえり、と呟いた。
「哲生の考えている高校を、教えてくれないか」
父親も母親もスーツ姿のままだ。テレビもつけずに顔をつき合わせてテーブルの上の書類を眺めている。俺は寂しくなり、下を向いて言った。
「……三人でごはん食べよう、そうしたら、教えるよ」
両親は顔を見合わせた。

冷蔵庫には冷凍食品しか入っていなかったけれど、それを温めて食べることにした。母親が電子レンジの操作方法に手間取っていたので、俺はそっと手助けをした。父親が「お皿の場所がわからない」と言い、食器棚の二段目、と教える。ひとりでは広い台所も、両親がいるとなんだか手狭に感じた。俺は気恥ずかしいような幸福な気持ちでお皿を運ぶ。三人で食卓を囲みぎこちなく会話をしながら、これが家族というものかとほの明るい気持ちで思う。
「受験、頑張るんだぞ」
食事を終えると、父親が俺の頭に手を置いて言った。

そこから受験の日まではあわただしく過ぎた。保健室と予備校、それに家が俺の居場所だった。父親も母親も、前ほど家を空け続けることはなくなった。徐々にスピードを上げていくような受験までの月日の中で、俺はもう外科通いをしなくてよくなり、走って先生に会いに行くこともあった。先生は「最近の桜庭は家の話をよくするようになった」と笑う。受験の日は凍えるように寒い日だったが、結果発表の日は暖かかった。俺は、第一志望の高校に合格した。

合格発表の日、両親に電話をかけた後、俺ははやる気持ちを抑えきれず保健室に向かった。先生は窓の外を見ていて、俺が引き戸を開けると「桜庭」と緊張した表情で言った。先生、合格したよ、と告げると、先生はゆっくり俺に近付いてきて俺をぎゅっと抱き締めた。
「せんせ」
「よかった」
先生は俺から身体を離し、目尻を拭った。俺は先生の様子を見て胸がいっぱいになる。口を開きかけると、先生は俺の目を見て言う。
「卒業式、出る?」
俺は迷った。けれど今なら、みんなと一緒に卒業式に出られる気がした。はい、と俺はささやいた。

卒業式の朝、目が覚めるとお腹が痛かった。俺は絶望を感じながら無理やりにパンを食べる。式はいい、けれど教室に向かうと考えると胃がきりきりとよじれる。卒業式に一緒に出てくれるはずだった両親に、お腹が痛い、と言うと、父親も母親も心配そうに俺を見て「無理に行くことはない」というようなことを言った。けれど俺は行きたかった。体育館で、いない俺の姿を捜してきょろきょろしている先生を想像すると、どうしようもなく不義理で申し訳ない気持ちになるのだった。俺は食べたパンを吐き、自室のベッドで声を殺して泣いた……。
目を覚ますと日が高く昇っていた。朝に着替えた制服姿のまま、俺はリビングに走る。父親が新聞を読んでいた。
「哲生、具合はどうだ」
「父さん、いま何時」
父親は腕時計を見て、二時、と答える。卒業式は終わっている。俺は玄関に走った。父親が出てきて、どこに行くんだ、ゆっくりしてなさい、と言う。
「学校に忘れ物!」
俺は走った。先生に会いに行かなければならないと思った。先生は保健室で俺を待っている、そんな予感があった。会いに行かなければ、俺の不義理が今度こそほんものになってしまう気がした。

保健室の引き戸を開けると、先生が窓の外を見ていた。差し込む西日に照らされて、いつかのように保健室は燃えているように見える。
「先生……」
俺は切羽詰まった声でささやいた。先生がゆっくり振り返り、俺を見てふっと笑う。
「桜庭、卒業おめでとう」
「卒業式、出られなかった」
先生は窓に背を向け、夕陽を背負うようにして俺の方へ歩を進める。俺は自分の心臓の鼓動が速まるのを感じていた。先生が俺の頭にぽんと手を置き、しみじみと言う。
「おれみたいな優しい先生ばっかりじゃないんだから、高校はちゃんと教室に通うように」
先生の瞳、その虹彩がかすかに揺らぐ。俺は先生との別れの気配を唐突に感じ取った。俺の心臓が早鐘を打つ。本当に先生は俺と挨拶をするために残っていてくれたのだ。先生に、言わなければならないことがある……。
「先生、好きなんだ」
震える声で言うと、夕暮れの保健室の時が止まった気がした。先生が何も言わないので、俺は先生に抱きついてなおも繰り返した。
「先生と離れるなんていやだ」
言葉の最後の方は涙声になった。先生の次の言葉を、俺は何百年も待っている気持ちだった。やがて先生が俺の背を撫で、優しい声で言った。
「そんなのは、だめだ、さようならだ」
俺は先生を見上げた。先生の欠落を俺は考える。先生はほんとうのひとりぼっちだ。先生のぽっかり空いた空洞を、俺は埋めることができない。けれど先生のいつにない毅然とした態度に俺は違和感を覚える。先生の瞳は寂しげに揺れていた。先生、と俺はかすれた声で呟く。
「大人になったら、先生を迎えに行ってもいい?」
先生は瞳を閉じた。それからゆっくりと、「うん」と呟く。
いつものように、先生の「うん」は承認の響きを帯びていた。

先生が失踪した、ということを知ったのは高校に入ってすぐの頃だった。俺はその日、高校で陸上部に入ったことを先生に報告したくて、通っていた中学校に向かった。保健室の扉を開けると、若い女性の養護教諭が椅子に座っていた。
「せんせ……」
椅子に座っていた養護教諭は振り返り、高校の制服を着ている俺を見て、あらどうしたのと尋ねた。
「和泉先生はどこですか」
養護教諭は少しの間考えて、ああ、と言った。
「卒業生? 私の前の先生ね、三月で退職したらしいですよ、私も四月にここに来たばかりで……詳しくなくてごめんなさいね」
俺は養護教諭にお礼を言って保健室を後にした。その足で職員室に向かい、がやがやとうるさい職員室の扉を開けた。
職員室には見慣れない教師の顔もちらほらあった。三年生の時の担任を探し、忙しそうに何かの準備をしている担任に声をかける。
「ああ、桜庭さん、久しぶりだな、高校には行ってるの?」
「先生、保健室の和泉先生はどこに行ったんですか」
担任の表情が翳った。和泉先生は三月で退職したよ、急だったけどね、と担任は言う。俺は担任が、というより、職員室全体で先生を隠している、という考えに取り憑かれていた。和泉先生にとてもお世話になったんです、何かご存じありませんか、と震える声で尋ねると、そうか……、と言い、担任は周囲を見渡してから声をひそめて言った。
「実は連絡がつかなくなったらしいんだよ、教頭先生が家を訪ねたりもしたんだけど、もぬけの殻でね……、若いやつは本当、すぐに辞めるよ」
桜庭さんはそういう大人になるんじゃないよ、と担任は俺の背を叩いて職員室から出て行った。俺は喧噪の中、へたり込みそうになる身体を支えて職員室を後にした。

家にたどり着き、リビングの机に突っ伏す。留守電のランプを眺めたが点いていなかった。閉めているカーテンの隙間からは西日が差し込んでいる。俺はごろんと転がり、職員室で聞いてから考えていたひとつの答えにたどり着いた。
先生は北の遠くに行ったのだ。
立ち上がり、窓際に向かってカーテンに手をかける。あの日に写真を眺めて泣いていた先生、迎えに行ってもいいかと尋ねたら「うん」と呟いた先生を思い出す。俺は勢いよくカーテンを開けた。燃えるような夕暮れ、この夕焼けを見て、先生も俺のことを思い出すだろうか……。
俺は先生を迎えに行くと決めた。

これが先生について知っていることの全てである。俺は今や先生と同じくらいの年齢になった。毎日忙しく会社に勤めていて、けれど夕焼けを見ると先生のことを思い出す。
いつだって真摯で、俺に真剣に接してくれた先生。風変わりで優しくて、どこかが欠けていた先生。
その欠落は、もう埋まっているのだろうか。

 


 

成長物語 2017年