恋はタイミング

思い返してみれば、あの瞬間に恋に落ちたのだ。
ざあざあ夕立が降っている、帰宅部の連中が帰った後の夕暮れだった。体育館の隣に備え付けられているロッカールームから外を見ると、降る雨の勢いでここに閉じ込められているような錯覚に陥る。あなたはきっと、おあつらえ向きに、とか、俺のわからない難しい言葉を使って煙に巻こうとするだろう。ともかく俺は、その時そこで剣道部の鞄から財布をくすねようとしていた。水に閉じ込められた暗いロッカールームで。
布の擦れるような音が聞こえ、俺は身を固くした。剣道部の奴らが戻ってきたのかと思ったのだ。けれど声は聞こえないし、音は断続的に響いてくる。俺は音の聞こえてくるロッカーの向こうをそろりと覗いた。
女子だった。きれいにプリーツのついた制服のスカート、そのウエストを締めようと苦心しているようだった。俺は違和感を覚える。ここは男子ロッカーだし、サイズの合わない制服を持ち歩いている生徒などいないのではないかと思った。俺が、おい、と小さく囁くと、その女子はびくりと身を震わせ振り返った。
肩まで伸ばした茶色い髪はりりしく黒い眉に不釣り合いだった。丈の短いセーラー服からは臍が見えていて、スカートからは女のものではない筋肉質な足がのびている。頬は紅潮して、眼鏡の奥の瞳は怒りに燃えていた。
「死んじまえ」
あなたは吐き捨てた。その時、俺とあなたはお互いの秘密をいっぺんに握った。みじめで泥臭く、目を背けたくなるような青春の日。

あなたはその時のことを笑い話にする。酒をつくりながら、こじゃれたバーのカウンターの向こうで。
「それでこの人、黙り込んじゃったのよ、ひどいと思わない? 自分も鞄あさりにロッカーにいたくせにさ、アハハハ」
俺は隣で酒をつくっている店員の腕に触れるあなたを見る。あなたは邪気なく笑い声を出す。隣の店員が、やだー、慎一さん不良だったの? あたしはそっちの方が気になるわ、と笑う。いやあ、若気の至りってやつですよ、と俺は微笑む。
小遣いほしさにロッカーで鞄を漁る高校生だった俺は今や会社勤めをしていて、ちゃんと嫁に食わせてやれているし、自分の稼ぎでこうしてあなたに会いに来ることができる。年明けには赤ん坊も産まれる。あなたがグラスを差し出し、俺はあなたのつくった酒を飲む。
高校生の頃、あなたは生徒会の副会長をしていたらしい。らしい、というのは、後からあなたに聞いたからで、俺はあなたの顔すら見たのはあの時が初めてだった。あのあと背を向けようとする俺の腕を掴み、誰にも言うな、言ったらお前のこと山田にチクる、とあなたは凄んだ。山田というのは生活指導をしている体育教師で、あなたが山田に告げ口をしていたらきっと俺は普段の素行の悪さからして退学を免れなかっただろうが、俺はあなたの秘密を誰にも打ち明けず、あなたも俺の窃盗を誰にも言わずに俺はなんとか高校を卒業することができた。それよりも俺は、眼鏡をかけていかにも優等生のあなたが、「チクる」という言葉を使ったり「山田」と教師を呼び捨てにしたりしたことの方が印象深かった。
「あんた、電車大丈夫なの、奥さん待ってるんでしょ」
あなたが物思いにふけっていた俺に言う。時計を見ると、もうすぐ十二時になろうというところだった。俺は困り笑いを浮かべてみせ、今日はあなたに会いに来たんだということを示そうと試みる。もちろんあなたは、首を横に振った。隣の店員が、あら慎一さん帰りたくないの、かわいいわねえと笑う。本当にしょうがない人なんだから、あたしが連れて帰すわよ、奥さんのために、とあなたはため息をついて店の奥に行く。出てきたあなたはファーのついた派手なコートを着ていた。
「ほら駅行くわよ」
髪を伸ばし、ばっちり化粧をしたあなたの瞳の奥に、かつての、後ろ暗い秘密を抱えているような気配はなかった。

駅までの道のりで、あなたは静かだった。店にいた時のはしゃぎようはなりを潜めていて、だから俺が喋らなければならなかった。俺たちはあの後特に仲がよかったとか悪かったとかそういうこともなく、思い出話で盛り上がれるほど記憶を共有しているわけではなかった。ただ、あの日から今まで生きてきた間、折に触れて俺はあなたを思い出していた。たとえば伸びた爪を切らなければならないことをふと思い出すように、俺はあの日のあなたの黒々とした瞳や白すぎるような靴下なんかを思い出していた。
「俺とあなたは、共犯者だと思ったんだ」
隣を歩いていたあなたが俺を見る。なあにそれ、とあなたは息をもらして笑う。あなたのヒールの音が、コツ、コツ、と響く。
「秘密を握り合ったから?」
俺は返事をしなかった。あなたはさして気にする風もなく歩き続ける。俺は自分が、あの後どうしてあなたの女装癖を誰にも言わなかったのかわからない。退学が怖かったわけではない。ただそれを誰かに言ってしまえば、俺とあなたを繋いでいる何かが完全に絶たれてしまうと思っていた。けれどあなたはこんな風に俺と会って、簡単に笑い話にしてのけるのだが、俺は――。
「あの時、俺とあなたは恋に落ちたと思ったよ」
あなたが怪訝な顔で振り返る。その瞳はもう笑っていなかった。あなたがあの日の女子生徒の制服を着たあなたに見える。人々の雑踏や笑い声があの日の夕立とだぶる。俺はあの日からずっと、ロッカールームに閉じ込められている錯覚に陥る。高校生の、髪を金色に染めて、財布をくすねようとしていた俺。
携帯電話が鳴った。俺の携帯だ。光る画面には、嫁の名前が表示されていた。俺は震える手で電話を取る。
「慎一くん、おそいよ、帰ってこないなら、チェーンかけちゃうよ」
もはや人々の雑踏は夕立なんかではなくあなたも派手なコートを着てヒールを履いている大人の男だった。もちろん俺の髪は黒いし仕事帰りのスーツ姿だった。
「ほらね、結婚したばっかなのに、奥さんほったらかしちゃかわいそうでしょ」
小さく微笑んだあなたの声はかすかに震えていた。俺はあなたが笑い飛ばしてくれたらいいと思った。店の中でしたみたいに、俺の言葉など全然気にも留めない風に。ばかね、と笑ってほしいのに、あなたは笑ってくれなかった。だから俺が笑わなければならなかった。冗談だよ、と、うそ寒いひきつった言葉と一緒に。

 


 

元ヤンの一人称俺で二人称あなたが好きっていう話 2015年