赤い靴

「赤い靴」っていう歌、知ってるかな。
子どもの頃、ううん、もちろん私はまだ子どもなんだけど、もっと小さい頃、赤い靴っていう歌を知った頃は、その歌が怖くて怖くて仕方なかった。
異人さんに連れられて行っちゃった、ってやつ。薄暗いメロディのせいもあったかもしれないけど、その歌を知ってからしばらくは赤い靴は履かなかった。異人さんに連れられて行っちゃうんじゃないかって。
でも、私は今は赤い靴は好き。だってもう、異人さんに連れて行かれても怖くないって知ったから。

もうすぐ修司が帰ってくる。修司は私の兄で父で、大切な存在。修司が仕事に行ってる間、私はこの狭いアパートで家事をする。
今日はもう夕飯もつくったし洗濯もした。あとは修司の帰りを待つだけだ。
「ただいま」
ガチャリとドアが開く音がして、修司が玄関に入ってくる。修司は外気の匂いを漂わせていて、私は犬みたいに走っていってくんくんと修司の匂いを嗅ぐ。
「なんだよ、理奈」
修司が笑いながらくすぐったそうにする。もう30代にさしかかっていると思うのだけど―――思うのだけど、というのは、私は修司の本当の年齢は知らない―――笑うとすごくチャーミングで、高校生くらいの男の子みたいに見える。
「おかえりなさい、修司」
修司は私の頭にぽんと手を置いて、二度目のただいまを言う。

夕飯を食べてから、私は修司に勉強を教わった。
今日は漢字と簡単な掛け算と割り算だった。私はまだ割り算がよくわからない。明日は修司の仕事が休みだから、他の日にでもまた教わろうと思う。修司は休みの日に私を色々なところへ連れて行ってくれる。動物園や森林公園、遊園地。私よりちょっと小さい子どもが喜びそうだなってところばかりだけど、修司と色々なところを回るのは好きだ。
そうしてその日の勉強は、私が眠くなってしまったので終わりになった。

今日は理奈と森林公園に行った。
もちろん万全を期して家からはだいぶ遠い、人の少ない森林公園を選んだ。理奈はお気に入りの赤い靴を履いていて、アスレチックで遊んだらどうと言ったら、服が汚れる、と言って遊ばなかった。
ちょっと前まではあんなにはしゃいでいたのに、理奈もだんだん難しくなる。もう本来なら中学校に行っている年齢だからだろうか。いつか、どうして私は他の子みたいに学校に行かないの、と訊かれたら―――やめよう、やめよう。心配したって始まらない。理奈は僕を信頼している。

僕たちは森林公園を歩いた。理奈が、手つないで、と言ったので手をつないだ。理奈は歳の割に子どもっぽいところがある。やはり今生活している環境が関係しているのだろうか。
それでも僕には今の環境を変えることはできないし、理奈だって幸せそうだ、と思って少し笑う。そんなこと言って、僕は逃げているだけだ。

帰り道、買い与えたアイスキャンディをなめながら理奈は言葉少なだった。学校や他の子どもを連想させそうな道は通らないようにしていたのだが。僕は内心怯えながら、どうしたの?と訊いた。
「私のお父さんとお母さんは天国に行ったって言ったよね」
そうだよ、と僕は答える。理奈は難しい顔をして考え込んでいる。
「修司はお母さんの弟なんだよね?お母さんってどんな人だった?」
理奈は時々こういう質問をする。僕は、優しい人だったよ、と答える。優しくて賢くて、暖かかった、と。理奈は顔を輝かせる。
「ほんと?じゃあ、お父さんは?」
なんだか怖い人だったなぁ、と笑いながら僕は答える。自分にも他人にも厳しい感じの人でさ。理奈はくすくすと笑う。
「天国からお父さんとお母さん、私のこと見てるかな。修司のことも見てるかな・・・」
見ているのだろうか。僕は薄ら寒い気持ちになり、つないでいた理奈の手をぎゅっと握った。

今日は洗濯をしていたら、アパートで隣に住んでるおばさんに声をかけられた。
このアパートは近所付き合いというものがあまりなくて、修司は普段働きに出ているし私は部屋にこもって家事で、私と修司は本当にふたりきりだったのでとても驚いた。
名前もわからなくて、修司以外の大人とほとんど接したことがない私はきっと変な子どものように見えたと思う。ちょっとあなた、理奈ちゃん?と言われ、はい、と答えた。上品な感じのおばさんだと思った。
「ちょっといらっしゃいよ、お茶でも飲みましょう」
私はあの時もっと疑うべきだったのだ。修司に知らない人についていってはいけないといつも言い渡されていたのに。

おばさんの部屋は綺麗に整頓されていて明るかった。私はすすめられてソファに腰かける。おばさんは、どうぞ、と言ってミルク入りの紅茶を私の前に置いた。
「理奈ちゃん、あなたと一緒に暮らしてる、修司っていう人?」
いきなり修司の名前が出てきてびっくりした。修司がどうかしたんですか、と私は早口に訊く。
「ええ、こんなこと訊くのは失礼かもしれないんだけどね、あなたあの男の人に、何か変なことされてない?」
「変なことって?」
「ええとそうねえ、例えば、裸にさせられたりとか」
私はまた驚いた。裸?赤ん坊の頃ならいざ知らず、修司がそんなことをするわけがない。私はひどく傷付けられた気持ちになって言った。
「修司はそんなことしません」
おばさんは哀れむような目で私を見ると、でもねえ理奈ちゃん、と言いかけて口をつぐんだ。いいわ、ごめんなさい、失礼だったわね。
「修司は優しいんです、小さい頃お父さんとお母さんを亡くした私を育ててくれて」
おばさんは何か言いたそうで、ほんとです、と小さい声で付け足すと、まるでそれがじわじわと嘘に染まっていくようだった。
家に帰ってもざらりとした嫌な感じは消えなかった。私は暗い気持ちで眠りにつく。

昔話をしよう。
その頃僕はとにかく退屈していた。若くて、でも他の皆のように毎夜遊び回るほどの情熱もなくて、あくびばかりしている、友達の少ないおとなしい大学生だったのだ。
なんのことはない文系で、エスカレータ校だったので特に受験の苦しみを味わうでもなく、高校から上がってきた僕たちと受験をして大学に入った子達の間に微妙な壁があることに気付いた時には五月病真っ最中だった。
もう今日で学校に行くのはやめよう、なんて。その日僕はうら寂しい公園で今年何度目かわからないサボタージュをしていた。眠くてけだるい、午後の講義だ。ばかみたいに晴れていて陽射しが眩しくて、僕は自分の中の何かがゆっくりと腐っていくのを感じていた。

理奈に出会ったのはそんな時だ。
砂場でひとりで遊んでいる、2、3歳くらいの子ども。親はいないのかと辺りを見渡したが見当たらない。
僕はふと、子どもでもいたら生活に張りが出るのかもな、と思った。現状から脱却したいという気持ちもあった。と同時に、そんなことをしてばれてみろ、お前の人生台無しだ、とも思う。もちろん子どもを性の対象として見ていることは断じて無いが、世間にとってはそんなことは重要なことではないことを知っていた。

少しだけだ、少しだけ、話しかけてみよう。嫌がられたり、親が戻ってきたりしたらすぐに帰ろう。
そう決心して、僕は、お名前は?と話しかけた。僕は若かったのだ。その子どもはきょとんとした表情で僕を見つめ、りな、と答えた。りなちゃんか、いいお名前だね、と僕が言うと、子どもの顔にゆっくりと笑顔が広がった。
なんだ、人懐っこくて可愛い子どもじゃないか。親はまだ戻ってこない。僕はその子ども―――りなちゃん―――を抱き上げた。
キャッキャと楽しそうに笑い、僕の顔や髪に触って遊ぶ。僕は自分の心の中に今まで見たこともない暖かいものが流れ込んでくるのを感じた。
僕の名前は修司、と僕は言った。しゅ、う、じ。りなちゃんは僕の言葉を繰り返すとまた笑った。

次の日も、その次の日も、僕は寂れた公園でひとり遊びをしているりなちゃんに会った。どの時も、親はいなかった。こんな小さな子どもをひとりにしておくなんてと僕は憤ったが、止むに止まれぬ事情があるのかもしれない。それに、親がいたら僕はりなちゃんに話しかけられる自信はなかった。
そんな日が何日続いただろう、僕はある時、連れて帰ってしまおうか、とぼんやりと思った。りなちゃんはすっかり僕に懐いていたし、僕はもうほとんど大学に出ていなかった。
僕の心が最後の警鐘を鳴らす。そんなことをしてばれてみろ、お前の人生台無しだ。僕は思う。なんだ、ばれなきゃいいんじゃないか、簡単なことだ。何度も言うが、僕は若かった。そして退屈していたのだ!

それから僕はりなちゃんのために、料理を覚え、おむつを替え、男くさく汚かった部屋を掃除した。最初の頃、りなちゃんは夜に泣くこともあったが、僕が絵本を読んだり話をしてやるとすぐに泣き止んだ。
僕はその頃住んでいた団地を引越し、またできるだけ遠くの方で子どもを連れて行ける仕事を探し―――そんな職場は限られていて、まして僕は高卒だったのだが―――何でもするという気概がよかったのかなんとか見つけ、りなちゃんの名前は漢字がわからなかったので本を見ながらうんうん考え、僕は満点の父親ぶりを発揮したと言っていい。
退屈で軟弱な大学生だった僕は、ちいさな闖入者のおかげでなんとたくましくなったことだろう。

ただ、理奈を外に出してやれないのは気の毒だった。芹沢莉那ちゃん(二歳)失踪、情報求む―――僕はそれが理奈のことだと気付くまでしばらくかかった。ちゃんと親がいたんだなぁ、などと見当違いなことを考えながら。
僕は理奈との生活を失いたくなかったし、自首(そんな言葉を使うのは不本意だが)などしたら僕は捕まってしまうだろう。僕は逃げおおせる覚悟を決めた。理奈と一緒なら、どこまででも逃げられる、また、理奈のためならどんなけだものにでもなれると思った。

そうして僕は嘘をついた。理奈のお母さんの弟だから、理奈のおじさんにあたるんだよ。お母さんとお父さんは理奈が小さい頃に天国に行ったんだ。理奈は素直に信じたので僕はほっとした反面暗澹とした。また僕は勉強も教えた。文字の読み書き、数字のしくみ、それから自然定理のことなんかも。ただ、勉強の時間は僕の仕事が終わってから少しだけだったので、他の子どもより大幅に学力に遅れがでているのが気がかりだった。

一番困ったのは、理奈が病気にかかった時だ。
高熱を出してうなされている理奈を横目に見ながら、僕は自責の念に苛まれていた。
できる限りのことはした。仕事を休み、おかゆと水枕をつくり、市販の薬を飲ませ、不安で部屋の中をうろうろ歩き回った。理奈の保険証など持っていないので医者に診てもらうことはできない。第一そんなことをしたら理奈を誘拐したことがばれてしまうかもしれない。誘拐・・・。僕はただの無力な犯罪者だった。

理奈と一緒にしりとりなんかをしながら眠る夜もある。底無しの不安に襲われて眠れない夜もある。
それでも、僕のそばにはいつも理奈がいた。あのほこりっぽい色のない日常から僕を連れ出してくれたのは理奈だ。
理奈の親はどうしているだろう。今頃、血眼になって理奈を捜しているだろうか・・・。
僕は、今更理奈と別れることなんてできやしないと思った。たとえ僕の正体が、嘘で塗り固められた誘拐犯だとしても。

昨日隣のおばさんに変なことを言われたことを話したら、修司の顔から一瞬表情が消えた。私は、知らない人に勝手についていってごめんなさいと謝った。滅多にそんなことはないが、修司が怒るんじゃないかと思ったのだ。
でも修司はすぐに笑顔に戻り、私の頭に手を置いた。
「そっか、怖くなかったか?」
私は安心した。いつもの修司だ。でも今度からは知らない人について行ったら駄目だぞ、と続ける。

その日修司は仕事を休んだ。修司が仕事を休むことなんて今までほとんど無かったから私はとても驚いた。
私と一緒にお菓子をつくったり、トランプやずいずいずっころばしをして遊んだ。それから、ちょっと多く勉強もした。
お菓子はクッキーで作りすぎてしまったので、私は明日や明後日のおやつにでもしようと思った。

夜寝る時、私はいつもみたいに電気を消して修司と話しながら寝た。
急に思い出して、赤い靴の歌のことを話す。その頃私は赤い靴という歌を怖がっていて、困ってしまった修司が変な風に異人さんの真似をして私を笑わせたのだ。
「修司、変な顔だったなぁ。異人さんはこんな顔かもしれない、あんな顔かもしれないとか言って」
私は思い出してくすくすと笑う。また修司は急に真面目な顔になって、異人さんは優しいかもしれない、とも言っていた。そのことも思い出したけど黙っていた。
「そうだね」
修司の語尾が乱れる。修司はさっきからずっと壁の方を向いたままだ。私はむくりと起き上がる。
「修司、怒ってる?」
怒ってない、とくぐもった声で返事が返ってくる。私はなんとなくきまりが悪くてそのまま眠ってしまったが、修司はあの時泣いていたのだ。

次の日の朝、理奈がまだ眠っている間にドアチャイムは鳴った。
僕はチェーンは掛けたままでそっと鍵を開ける。相手からは僕の目だけ見えている状態で、何ですか、と尋ねるとドアを開けなさいと言われた。初老の男とおばさんの二人組だ。
「子どもがまだ寝てるんです、帰ってもらえませんか」
おばさんがフンと鼻を鳴らし低い声で言った。
「自分の子みたいに言わないでちょうだい、さらった子のくせに」
「えー、私たちこういう者なんですが」
初老の男が口を開く。警察手帳がこれ見よがしにぶら下げられ、僕は、ああこの人は警察であることに生きがいを感じているんだろうなと思った。

いつかこんな日が来るかもしれないと思っていた。
二人はずかずかと上がりこみ、眠っている理奈を見つけるとおばさんが近寄り、莉那ちゃん、莉那ちゃん、と声をかける。
「起こさないでやってください、昨日は遅かったんです」
僕は口を挟んだ。手も出したかったが僕は初老の男にがっちり羽交い絞めにされていて動けない。
「修司・・・?」
理奈が目を覚ます。おばさんが大げさに理奈を抱きしめ、もう怖くないからね、と言った。
「目立った外傷はないようだね」
初老の男が言った。僕は男を睨みつける。
「芹沢莉那ちゃん、13歳、保護しました」
「桜井修司、お前を未成年者略取の疑いで逮捕する」
初老の男が僕に手錠をはめる。怯えた顔をしている理奈を安心させようと僕は笑いかけた。

桜井 修司様

修司、こんにちは。こんにちは、っていうのもおかしいけど、他に言葉が思いつかないのでこんにちはと書きます。
私は16歳になりました。もう高校生だよ。修司との暮らしが急に終わってから三年が経ちました。
私はあれから、本当のお父さんとお母さんのところに引き取られました。お母さんはしばらく泣いてばっかりで、お父さんも仕事を休んで家で過ごしていました。それから、私には姉がいたようです。最初の頃は何でも甘えていいのよとか言ってちょっと気持ち悪かったけど、今は仲良しです。

あと、私は学校に行くことになりました。中学校の担任の先生は「大丈夫なの」とおっかなびっくりで、私は体育館で開かれた集会(すごく長い。私は壇上に立たされて恥ずかしかった)を経てやっと教室に行きました。
すぐに女の子が何人か話しかけてきて、私はその度に、怖くなかったよ、とか、何もなかった、とか答えました。
勉強はすごく難しくて、全然ついていけませんでした。修司との勉強の方が楽しかったよ。
しばらくは体育とかもついていけませんでした。それに、私は他の子に比べてすこし身長と体重が少ないみたいです。修司の仕事が休みの日以外はずっと家にいたから、仕方ないといえば仕方ないのだけど。

それから、耳寄り情報。あの日の直前、私は隣のおばさんに変なこと訊かれたって言ったよね。実はあのおばさんは、ずっと張り込みをしていた警察官だったらしいです。あの日うちに来たのも、そのおばさんです。全然そんな感じじゃなかったからびっくりしたね。
私は修司には何もされてません、私にすごく優しかったんですと何度も話したけど、とうとう信じてもらえなかった。それだけが、私は少し悲しいです。

修司はいつ頃出てこれるのかな。出てきたらまた一緒に遊んで、クッキー作ろうね。(あの時のクッキーは残りが食べられなくて残念でした)なんて、そんなことできないのはわかってるけど。私は涙ぐんでいます。
修司の買ってくれた赤い靴はいつの間にかお父さんに捨てられていました。それでも私は、修司の赤い靴の話を忘れません。異人さんは優しかったかもしれない。私は異人さんが怖くないことを知っています。

それじゃあ、そろそろこの手紙を終わらせます。
あ、そうだ、被害者から容疑者(そんなこと思ってないけど)への手紙が警官の検閲を通るとは思えません。
だからこの手紙はすぐに燃やしてしまいます。ごみ箱とかに捨てたら、誰に読まれるかわかったもんじゃないし。
それでは、さようなら。
また会えることを願って

桜井 理奈

 


 

生まれて初めて書いた創作小説 2010年