忘れ物

この時、ぼくは一度死んだのだ。
山で生まれ成人してからはずっと都会で暮らしていたぼくが、終のすみかにどうしてこの海辺の町を選んだのかはわからない。特に海辺にあこがれを抱いていたわけではない。ただ、寂れた漁船が何隻も停まっている古びた観光地のような灰色の海は気に入った。町の人たちの、余所者のぼく一人がある日海に飲み込まれても、誰も気にとめたりしないような錆び付いた排他の雰囲気も。
ぼくは腰のあたりまで海に浸かり、あのひとのことを思い出した。ついぞ優しい言葉をかけてやることもなく、ぼくが仕事に出かけている間に台所でひっそりと死んだ妻を。このごろ貧血気味なんですと言っていた彼女をもう少し気にかけてやっていたら、もしかしたらぼくは今でも都会で仕事を続けていたのかもしれない。
沖の方に向かって歩を進める。晩秋の夜の海は暗く冷たい。ぼく一人いなくなっても誰も気にとめない。誰も、だあれも……。

引き攣れたように収縮を繰り返す胃から喉元までせり上がった潮水を吐き出し、ぼくは目を開けた。開けた拍子に眼球に潮水が流れ、反射的にぎゅっと目を瞑る。
「おじいさん」
不安げな声が聞こえ、ぼくは顔をこすって目を開けた。どうやらぼくは横たわっているようだった。声のする方に顔を向けると、またせり上がる潮水にむせ込んだ。
「大丈夫ですか」
青年だった。成人しているか、していないかぼくには解らなかった。青年の前髪は濡れて額にぺったりはりついている。自分の着ているシャツの裾を絞りながら、ぎこちなくぼくに微笑みかける。ぼくは自分の瞳孔が急速に窄まるような錯覚に陥った。そんな格好をして寒くないのか、と的外れな言葉が頭に浮かび、それを口にしようとしたがおかしなことに喉がカラカラに渇いていた。
「おじいさん、溺れていたでしょう、僕、海難救助隊をしているんですけど」
ぼくは立ち上がった。おどろく青年の手を握り、お名前を教えてくれませんか、と囁いた。
「僕ですか、黒田さとるといいますけど……えっと」
「どちらにお住まいですか、後日お礼に伺いたいのです」
ああ、構いませんよ、と青年は笑った。僕はあの、テトラポットの向こうの方の……と自分の住所を説明する青年の白い歯をぼくは眺める。なんて無防備なんだろう。ぼくは一度死んだ。初めての恋をしたようだった。

ぼくが一人で暮らしているアパートの部屋はがらんどうだ。不思議なことに、ぼくがいてもいなくても、部屋そのものがだんまりを決め込んでいるようにうそ寒く静かだ。
僕は布団に寝そべって、積んである本の一番上を手にとり開いた。前の家で使っていた本棚が部屋におさまりきらなかったので、部屋のあちこちに本が積んである。引っ越しの時にかなり処分したのに、どこから出てきたのかまだこんなに残っている。どこから出てきたのかわからないから、どこにしまったらいいのかわからない。結局のところ、ぼくは考えることが億劫なのだと思う。どこに本をしまったらいいのか、どこに過去をしまったらいいのか。
『……あんたがあの子を好きなこととか、愛とか恋とか、そういうの全部が海に流れてごみになればいいのに。そうしたらわたしは、流れ着いたそれをきれいな貝殻みたいに後生大事にとっておくのに』
いつ買ったのか、いつ読んだのかもわからない小説だった。ぼくは文章を目で追うがすぐにどうでもよくなってしまう。小説の内容というよりも、本を読むことそれ自体が。本を閉ざして目をつむると、黒田さとるの遠慮がちな微笑みが暗闇に浮かんだ。
黒田さとるは育ちのよさそうな青年だった。あのあと菓子折りを持って本当に彼の家に向かった。玄関を開けた彼は、ああ、おじいさん、とほがらかに笑った。
「よければどうぞ、僕の家、汚いですけど」
黒田さとるの家は本当に汚かった。ぼくの青年の頃でさえもうちょっとましだったろうと思う。それは素朴で品のいい彼にまったく似つかわしくなく、仕事が忙しいのか、あるいは同居している誰かがいるのだろうとぼくは思った。
「おひとりですか」
ぼくは不躾なことをたずねた。黒田さとるはくすりと笑い、はい、と答える。
「両親と妹はアメリカにいるんです」
アメリカ、という言葉をぼくは頭の中で転がす。黒田さとるが言うには、できのいい妹がアメリカの大学に行くのに両親も一緒に行ったらしい。ぼくは驚いて、それはそれは、と呟く。
「お寂しいでしょう、きみのような若者が家族と離れているなんて」
ぼくはまた踏み入ったことを言ってしまう。黒田さとるは弱々しく笑うと目を伏せた。年甲斐もなく心臓の鼓動が速まるのを感じた。ぼくは思わず視線を逸らし、次の言葉を発するタイミングを探した。
ぼくは布団の中で目を開け、ああ、とため息をもらした。その日はぽつりぽつりと会話をして帰った。黒田さとるに恋をしている。あの黒々とした瞳、白い歯。健康的に日に灼けた肌、ふいに見せる寂しげな表情。ぼくはそっと自分の股間に手をやった。再び目を閉じ、黒田さとるの潮のようなにおいを思い出す。温かくなめらかで、少ししっとりとしているような彼の皮膚……。
その日は夢も見ずに眠った。翌朝、町の警報でけたたましく起こされるまで。

ぼくは身に付けていた半纏の上からよそ行きのコートを着て玄関を開けた。潮が高くなって避難が必要な時に鳴る警報だった。いつの間にか激しい雨が降っている。同じアパートの人たちは避難を終えたようで、ぼくは一人で丘の方へ急いだ。海を眺め見ると、数名の海難救助隊が海へ入っているのが見えた。
ぼくは立ちすくんだ。しんがりにいるのは黒田さとるだった。ぼくは弾かれたように彼らの向かおうとしている海を見る。人がひとり、溺れているようだった。そんな人放っておいてきみも丘の方へ来なさい、と、ぼくは今すぐ黒田さとるの方へ駆けていきたい衝動をこらえる。彼は海難救助隊でそれが仕事なのだし、溺れるはずなどない。ない、と信じても、というよりは信じようとするほど、彼が溺れてしまうのではないかという疑念に取り憑かれる。ぼくは歯がゆく足踏みをした。意を決して海の方へ走り出すと、足がもつれてぼくは転んだ。
「何をしているんだ! 早く行きなさい!」
どしゃ降りの中、四十がらみの海難救助隊がぼくの手を取って立ち上がらせる。足をくじいたようで、左足がびっこを引いてしまう。ぼくはもう海を見ずに丘へ向かった。ふがいなさに涙ぐみそうになる。黒田さとるを追いかけたくても見苦しく転んでしまう、老いた肉体が疎ましかった。

ぼくが教えていた大学の生徒はみな退屈していた。あくびをしているか携帯をさわっているか、ひそひそおしゃべりをしているかのいずれかで、みな倦んでいるのだろうと思っていた。ぼくは構わなかった。ぼくはただ本が好きなだけで、熱心な教師ではなかったし、ぼく自身が大学生だった頃だって似たり寄ったりだったからだ。けれどそんな日々を繰り返しているうち、ぼくの心の中にゆっくりと澱のようなものが淀んでいくのを感じていた。ぼくはこのままこうやって、毎日毎日誰も聞かない授業をして、それで死んでいくのだろうか。ある時妻が、貧血気味だと言った。さして気にもとめずにいたら、その日の夜に台所で妻は死んでいた。
見合いで知り合っただけの妻だったとはいえ、子供もおらず長年一緒に暮らしていた身であったので堪えた。もはやぼくの中で溢れている澱の正体をぼくは見極めようとした。死……。それはお菓子でもつまむような気軽さで、その頃のぼくを誘惑した。
けれど、とぼくは思う。けれど、今は死がこわい。黒田さとるのように若くありたい。そうであればこんなにみじめな思いはしない。ぼくはゆっくり目を閉じた。明日、雨がやんだら、黒田さとるに会いに行こう。お仕事お疲れさまです、と言って何かを持って行ってやろう。すきま風の吹く丘の上の避難所で、ぼくは丸まって眠った。

翌朝は晴れて、潮もすっかり引いていた。ぼくは避難所でお世話になった人たちに挨拶をし、早々に丘を下った。
その足で黒田さとるの家に向かい、呼び鈴を鳴らすと手みやげを何も携えていないことに気付いた。ぼくは内心慌てた。おかしな人間だと思われたらどうしよう。
がちゃりと玄関が開く音がして顔を上げると、若い女が立っていた。
「はーい……あら、どちら様ですか」
ぼくの背筋に震えが上るのがわかった。女は黒田さとると同い年くらいに見えた。以前黒田くんにお世話になりまして、とうわずった声で言うと、女は親しげに目元をほころばせた。
「さとる、お客様が来てるよ」
女は後ろを振り返って黒田さとるを呼んだ。しばらくすると、眠たげに目をこすっている黒田さとるが玄関先に出てくる。
「ああおじいさん、ゆうべの雨、大丈夫でしたか」
仮眠を取っていたのか、彼の声は普段よりも幼く聞こえた。隣に立っている女と黒田さとるを見比べる。あまり似ていない。妹だったら、妹だったらいい。
「大丈夫じゃないです」
ぼくの出した声は震えていた。黒田さとるが怪訝な顔でぼくを見る。ぼくは続けた。きみを見ていたら、転んだんです。足をくじいて、痛くてびっこを引いてしまうんです。避難所からここにまっすぐ来たんです。黒田さとるは今度こそ迷惑そうな顔で、ぼくの左足を窺うように見た。
「応急処置、していきますか、綾、包帯どこだっけ」
女にたずねながら、黒田さとるは片手で顔を覆った。ちいさくあくびをしたので、疲れているのだとわかった。ぼくは、結構です、とほとんど叫ぶように言い玄関を閉めた。左足を引きずりながらがらんどうのアパートで読んだ本を思い出す。愛とか恋とか、そういうの全部が海に流れてごみになればいいのに。ぼくは帰り道で蹲った。今ここで、有無を言わせないような圧倒的な死がぼくを迎えてくれたらいい。もし二度目の入水をしたら、きっとまた黒田さとるが助けに来るだろう。そんな事態は心からおそろしい。ぼくは貝殻を後生大事に取っておけない。嗚咽を漏らすと、道行く町の人たちが遠巻きにぼくを眺めているのがわかる。余所者だ、おかしな人間だ、と、さざめくような笑い声が耳に届いた。

 


 

老人が棺桶に片足突っ込むBL 2016年