画家とシナリオライター

ぽた、ぽた、と音が響いている。慎吾は薄い毛布にくるまり、意識の遠くでその音を数える。いち、にい、さん。床に敷いた布団からは地面の温度がじかに伝わるようで、慎吾は身体を丸めた。木のうろで生活する動物なんかも、雨の日は今の自分のように寄る辺ない気持ちで寒さをしのいでいるのだろうと想像する。しい、ごお、ろく。冬の雨は侘しい。何もなぐさめるものがない。せめて雪でも積もれば、電車が止まって勤務先から帰れず、仲のいい同僚も先輩もおらずレンタルビデオ屋の軒下でぼんやりしている拓真を、自転車で迎えに行けるのに。しち、はち、きゅう。十になったら立とう、と思う。立って、台所の天井から漏れている雨水を受け止めるバケツを取りに行かなくてはならない。じゅう、と心の中で数えた時、玄関が開く音がした。慎吾は毛布から這い出て、寒さにこわばっている身体を伸ばした。
「拓真、早いじゃん」
傘をつぼめて、拓真は雨に濡れた鞄を玄関のわきに置いた。店長が、今日は客少ないからあがっていいってさ、と言いながら慎吾の横を通りすぎてバケツを手にする。背を向けて台所にバケツを置く拓真を見ながら慎吾は、そうなんだ、と言う。けれど腑に落ちない思いを抱く。今日の朝、拓真は、来れる店員が少ないから休日出勤なんだと言っていた。
「……本当は?」
何の気なしにそう訊いた。拓真は振り返って、暗い瞳を慎吾に向けた。
「本当は、慎吾が学校に行ってなくて、ガス止められた部屋で寒くて震えてたらかわいそうだと思ったから無理言って早退させてもらった」
拓真は封筒を差し出す。今日は拓真の給料日だ。舌打ちをしたい気持ちを慎吾はこらえた。

翌日は雨が上がった。拓真のバイトが休みで、家で借りてきた映画を見ると言うので、慎吾は仕方なく学校に向かった。拓真が休みの日に学校をさぼると一日中悲しげな拓真と一緒に過ごすはめになる。慎吾は辛気臭い拓真を見ていると苛立ちが募るし、拓真に対して苛々することそれ以上に、自分を心配しているであろう拓真に怒りを感じる自分に虫酸が走るので、最近は学校に行ってしまうことにしている。少なくとも学校で絵を描いている間は、拓真のことを考えずに済む。絵を学ぶことが慎吾の望んだことではないにしても、ぐずでのろまで、不器用な拓真と一緒にいなくて済む。
拓真はシナリオライターになりたいのだ。それでレンタルビデオ屋でバイトをし、しょっちゅう映画を見ている。慎吾は少し笑う。慎吾は夢も目標もなく、自分が美術大学に入りたかっただけの親に言われるままに絵を学び、学費と家賃まで出してもらっている。水道光熱費もきっと送られているのだろうと思うが、拓真が慎吾のアパートで暮らすようになってから拓真は自分がそれを払うと言ってはばからなかったので慎吾はそのままにしている。その結果ガスを止められても、拓真はああしてちゃんと帰ってくる。
それにしたって、もうちょっと上手なやり方があるだろう。慎吾は筆を動かしながら苦笑した。休日出勤の日に早退するのが迷惑なことくらい、働いた経験のない慎吾にだってわかる。勝手に学校に行かない奴が寒がっていても、一日くらい放っておけばいいのに。
慎吾はそこまで考えて筆を止めた。学校に行っても、自分は拓真のことばかり考えている。

道ばたでうずくまっている拓真を拾ったのは七ヶ月前だ。
春の夜中だった。慎吾はその日、入学した最初の頃だけ入っていたサークルの、たちの悪い先輩に居酒屋に誘われた帰りだった。授業での宿題として家に帰って制作をしなければならないのに、持ち帰るパネルは重たいし、先輩に飲まされて足元はおぼつかないし、なのに頭の芯だけは冷えびえとしていて、自分は飲みたくもない酒を飲んで描きたくもない絵を背負っていったい何をしているのだろうとうそ寒い気持ちで歩いていた。
街灯のしらじらとした明かりが照らしている道の脇に、人がうずくまっているのが見えた。酔っぱらいか何かだと思い、慎吾は素通りしようとした。けれどすすり泣きのような声をその人間が上げているので、慎吾は思わず立ち止まってその人間をまじまじと見た。
男だった。高校生だろうか。着ている服は寝間着のようで、家から走って出てきたというような印象だった。危ない人間だという気がしなかったのは、むき出しの足の裏がいやに幼かったせいかも知れない。
「お兄さん、どうしたの」
慎吾は声をかけた。男はゆっくり振り返ると、大きなパネルを背負っている慎吾を見た。ぼさぼさの黒髪に黒い眼鏡。真面目くんだ、と慎吾は思った。
「絵を描くんですか」
男は嗄れた声でたずねた。関係のない質問を返され、慎吾は面食らって押し黙った。危ない人間だったのかもしれない。慎吾は自分の判断を後悔した。
「……描くよ」
「本当は描きたくないんですか」
慎吾は思わず男の目を見た。瞳は流した涙できらめいていて、慎吾の返事を待っているようだった。どうして男にそんなことを見透かされたのか慎吾はわからなかった。自分がどうしてこんなに動揺しているのかわからなかったし、胸の内に瞬時に現れた苛立ちの正体もわからなかった。
「描きたくないわけないだろ、俺は絵の学校に通ってんだから」
男は黙って慎吾を見上げた。慈しむような、同情をするようなその目線が慎吾は我慢ならなかった。怒りに任せるまま、早口に言う。
「高校生? 家出してんだろ? うちのアパートそこだから、徹夜でおまえを描いてやるよ」
言い終えてから慎吾は、一時の感情に流されたとはいえ何を言っているのだろうと思った。明日になってこいつの親が出てきたら、なんと言い訳したらいいのだろう。けれど絵を描きたくないことを見透かされて、それをこの男が知ったまま帰るのは絶対に許せないと思った。
「……おれ、拓真」
拓真は立ち上がった。その日は夜が明けるまで描きたくもない絵をパネルに描いた。拓真に、自分は絵を描きたくて絵の学校に通っているのだと思わせるために。慎吾は一体どうして、自分が拓真に対してこんなに苛々するのか未だにわからずにいる。

授業が終わった夕方、慎吾は銀行に寄ったあと拓真に電話をかけた。今日は慎吾の父親から、家賃と慎吾の小遣いが振り込まれる日だ。まったく至れり尽くせりだ、と暗い気持ちで慎吾は思う。ひとり息子に学業に集中してほしいからと総合商社に勤めている父親は慎吾のアルバイトを許さない。代わりに金はいくらでも出す。絵なんて描きたくないんだと、泣いて地団駄を踏んでいたら何か変わっていただろうか。
昼寝をしていたのか、拓真の声はいつかのように嗄れていた。
「慎吾、なに」
「寝てたの」
「起きてた」
そんなら飯食いに行こう、俺おごるし、と慎吾は言った。今日はそういう気分だった。学校に行っても何をしても、拓真のことばかり考えてしまう。それなら、拓真に会ってしまった方がましだ。どうせ家に帰れば顔をつき合わせるのだとしても、薄暗い雨漏りのするアパートではなく牛丼屋かどこかで夕食を共にした方がいくらかいい。
「……いやだ」
拓真の返答は予想外だった。え、もう飯食ったの、と慎吾がたずねると、「食ってない」と言う。慎吾がにわかに動揺していると、拓真は嗄れた声でささやくように言う。
「おれ、飯つくるから、今日は慎吾の学校の話が聞きたい」
電話が切れる。慎吾は画面の消えた携帯電話を見つめた。動揺が身体をじわじわと浸食するのを感じた。

拓真はあの日、自分の着ていた寝間着から慎吾のシャツに着替えながら、勘当されたんだ、と言った。筆洗を用意しながら慎吾は、何歳だよ、とたずねた。
「十九」
「うわ同い年じゃん、下かと思ったよ」
慎吾は思わず拓真の痩せた上半身を眺める。小柄なせいか童顔なせいか、拓真は学生服がよく似合いそうだった。
「大学か専門か行ってんの」
「バイトしてる」
ふーん、と慎吾は言った。服を着た拓真を椅子に座らせ、筆を動かし始める。月が高く、窓を開け放していたのでどこかで犬の遠吠えが聞こえた。
「……おれはシナリオライターになりたいんだ、それでそう言ったら、父さんがもう帰ってくるなって」
「なにそれ」
「映画とかドラマの、話つくる人」
拓真は慎吾の言葉を勘違いしたようだったが、慎吾はそのままにした。絵を描くことを強いられてその通りに描いてきた慎吾にとって、自分の意志で夢を追いかけ、そのせいで親と衝突して夜道でうずくまっていた拓真の、何もかもが新鮮だった。
「……ふーん」
慎吾は再び言った。拓真は黙って慎吾の動かしている右手を見つめている。こんな風に生きられたら、と、慎吾は諦めに満ちた頭でぼんやり思った。

家に帰り着くと、拓真はテレビで映画を見ていた。ただいま、と言うと、おかえり、と言いながら台所から豚丼と味噌汁を持ってくる。拓真の声が嗄れていた理由がわかった。こいつは映画を見て泣いていたのだ。
「学校どうだった」
「どうって、絵を描いたよ」
これでは返答になっていないと思いながらも、慎吾は苛立ちが身体を支配し始めていたのでつっけんどんに言う。むかつきながら、おまえのことばかり考えていたよ、とは口が裂けても言いたくないと思った。
鞄とコートを置いてちゃぶ台の前に座ると、もう座っていた拓真は少し困ったように笑った。味噌汁をすすり、慎吾を上目遣いに見る。
「母さんが、父さんもう怒ってないから、すごく心配してるから、帰ってこいって」
慎吾は驚いて拓真を見た。それいつ、と慎吾は呟く。
「今日、映画借りに行った帰り道」
自分が勤めているビデオ屋には気まずいから行きたくなくて、隣の駅のビデオ屋に行ったのだそうだ。そうしたら、母親に会った。
「……それでおまえ、帰るの」
慎吾はやっとの思いでそう言った。拓真は寂しげに笑う。
「帰りたくないけど。せっかく慎吾にも会えたし」
「俺は学校で、おまえのことばっかり考えてたよ」
焦ったような早口になった。一度堰を切った言葉は驚くほどなめらかに続いた。
「休日出勤の日に早退なんて普通しないとか、道ばたでうずくまってたおまえが高校生に見えたこととか、徹夜で描きたくもないお前の絵を描いた時とか、俺だって親に反抗して、おまえみたいな生き方をしたかったって思ってたよ」
慎吾は拓真に対する苛立ちの正体にようやく気付く。俺はこいつがうらやましいんだ。器用に、親の言う通りにやりたくもないことをこなしてきた慎吾とは違い、不器用でも自分のやりたいことがあり、そのために自分の力で進んでいる拓真。
拓真はぽろりと涙をこぼした。「うん……うん、でも」としゃくりあげるので、慎吾は立ち上がって自分の部屋に走った。拓真に帰ってほしくなどなかった。慎吾は自分の気持ちを確認し、部屋で埋もれていた大きなパネルを居間に運んだ。どん、と音を立ててパネルを立てかけると、拓真は驚いたように目を上げた。
「おまえが帰って、シナリオライター諦めるんなら、俺はこの絵、燃やす」
慎吾のシャツを着て、すこし傾いた角度で物憂げに目を伏せている拓真が描かれていた。あの日、夜が明けるまで描いた絵だ。緊張で、慎吾の耳にはごうごうと耳鳴りのような音が聞こえていた。
「でもおまえがここで、バイトしながらシナリオライター目指すんなら、俺はちゃんと真剣に学校に通う」
拓真は驚いて目を瞬いた。慎吾は自分で、訳の分からない交換条件を提示していると思った。けれど拓真を、拓真の夢を引き留める方法をこれしか思いつかなかった。
「ここにいろ」
慎吾は震える声でささやいた。心臓が張り裂けそうにどきどきしていた。
拓真はしばらくぽかんとしていたが、やがてくすりと笑みをもらした。涙の跡が居間の明かりに照らされてきらめいた。
「慎吾は意外とけっこう、優しい」
慎吾が拓真の言葉の続きを待っていると、拓真は立ち上がって慎吾に抱きついた。小柄な拓真の身体は慎吾の腕にすっぽりおさまりそうだった。
「おれは慎吾を、かっこいいと思ってたよ、やるべきことを親の言うとおりにちゃんとこなせるなんて、すごく偉い、今だって」
真剣に学校に通うっていう選択肢、自分から出したし、と拓真は静かに言う。慎吾は自分の胸に響く拓真のくぐもった声を黙って聞いていた。
「おれ帰らない、ちゃんと学校に通えよ、慎吾の描く絵、好きだよ」
拓真は小さな声で言い、慎吾から身体を離す。上目遣いにはにかみ、慎吾が何か言うのを待っているようだった。慎吾は顔を伏せた。油断すると泣いてしまいそうだった。嬉しかった。こんな気持ちになるなんて、思わなかった。拓真のぼさぼさの黒髪をくしゃくしゃと撫でる。窓からは月が遠くに見え、凍えそうな冬の空には星があふれるほどきらめいていた。

 


 

若者が学校以外のコミュニティで触れ合う話が大好き 2015年