お父さんごっこ

兄貴の子供がうちに来た。夏のあいだ預かってほしい、と兄貴は一方的に電話を寄越し、その三十分後にはもう駅にいると子供の方から電話があった。昔からひとつのことしか見えなくなると他人の事情など考えないところのある兄貴だったが、このところ年を取ったのかそれがひどくなっている気がする。時折兄貴が健全な社会生活を営んでいけているのか不安になるが、山の奥の、「気心知れた」村の連中のあいだでは許されているのだろう。兄貴は家の跡取りで、それを誇りに思っていたし、一生をあの村で終えるつもりらしかった。
「よう」
俺が挨拶をすると、子供は礼儀正しく頭を下げた。男子高校生だった。きれいに切り揃えられた前髪がさらさらと揺れる。初めまして叔父さん、夏の間お世話になります、とはにかんだ。
「あー、固い挨拶はなしなし、俺はこんなだからさ、敬語とかもいいよ」
はい……でも、と戸惑った子供の頭を撫で、名前なんての、とたずねた。
「宗介です」
「そっか、俺は二郎、よろしく」
俺たちの父親は今時ちょっと信じられない名前のつけ方をした。もちろん兄貴の名前は一郎だ。けれど俺の名前に頓着することもなく、よろしくお願いします、と宗介は微笑んだ。

その日は宗介に焼きそばを作ってやり(鉄板で焼く焼きそばを宗介は初めて見たらしくいたく感動していた)一緒に食べた。宗介はちゃんと手を合わせていただきますと言い、おまけに箸の使い方がおそろしくきれいだった。明日は焼き魚を出してやろうと思った。きっと信じられないくらいきれいに食べるに違いない。
「宗介はさ、なんでうちに来たの」
俺はずっと気になっていたことをたずねた。あの兄貴が、大切な一人息子を、村を飛び出したちゃらんぽらんな弟のところに預ける理由がまるでわからなかった。
「……高校に通えなくなったんです」
宗介はうつむいた。清潔に刈り上げられたえりあしが見えた。
「一週間くらい休んでしまって、お父さんがすごく怒って、ちょうど夏休みに入る頃だったから……一ヶ月叔父さんの家で社会勉強をして来なさい、そうしたらおまえも学校の有難みがわかるって」
「ふーん、女の子?」
「え?」
「女の子にふられて学校行きたくないんだろ」
宗介の頬にかすかに赤みがさした。ちがいます、男子校です、とささやく。
「恥ずかしいことなんですけど、勉強についていけなくなって……お父さんにはとても言えないんです」
お父さん、ね。俺はやや気の毒になり宗介を見た。宗介から高校二年生にしては幼い印象を受ける理由がわかった気がした。
「……まあ、勉強は教えらんないけど、ゆっくりしていけよ」
はい、と宗介は嬉しそうに笑った。

その晩、宗介に与えた部屋から漏れ聞こえる声で俺はうとうとと目を覚ました。くぐもった声ではっきり聞き取れなかったが、宗介は寝言を呟いているようだった。
「……さん、……あぁ……」
宗介も年頃だ、おかしな夢のひとつやふたつくらい見るだろう。俺は寝返りをうって再び眠りに落ちた。

次の日、仕事から帰ると宗介が俺のエプロンを巻いて夕食を作っていた。おかえりなさい、と微笑む。俺はおどろいて、おお、というような声を出した。
食卓に並べられたのは鯵の塩焼きと冷や奴、それに味噌汁だった。簡単なものしか作れなくて、お口に合うといいんですけど、と宗介は首を傾げる。こいつは将来いい婿になりそうだと思った。
「今日は何してた」
冷や奴に箸を突き刺しながら俺はたずねる。宗介は味噌汁のお椀に口をつけ、昼間は勉強をしてました、と上目遣いに俺を見た。
「夏休みくらい遊べよ、東京は楽しいもんがいっぱいだぜ」
俺があきれた声を出してみせると、宗介は苦笑した。はい、でも、とちいさく呟く。俺はややむっとして、ほらおまえが見る夢みたいな本だってすぐそこで、と続けた。
宗介はおどろいた表情をして俺を見た。その頬がみるみる赤く染まる。かちゃりと箸を置き、叔父さん、俺は、とわずかに口を動かした。膝の上で固く結ばれたこぶしが震えていた。
「なんだよ、そんなに恥ずかしいことじゃないだろ」
「……俺、もうご飯いらないです、おやすみなさい」
宗介は立ち上がると自室に戻って行った。俺は、からかいすぎたかな、と冷めてしまった鯵をつついた。

その晩は寝苦しい夜だった。なかなか寝付けずに台所に行って水を飲む。寝室に戻ろうとすると、俺の部屋を覗いている宗介を見つけた。
「なにしてんの」
宗介はびくりと肩を震わせた。叔父さん、あの……、と宗介は言いにくそうにささやく。
「入る? 男同士の話なんだろ」
宗介は頷いた。白い首筋が頼りなく闇に浮かんで見えた。

座布団を敷いてやると宗介はその上に正座した。俺が布団にあぐらをかいているのを見て、やや横座りのように正座を崩す。俺を見たり手元を見たり、宗介の目線は落ち着きがなかった。
「今日は夢、」
「俺、夢の中でお父さんを抱いているんです」
宗介は言い、俺をまっすぐに見た。
「学校の同級生は、女の子を抱く夢を見るって言うんです、でも俺の夢の中で俺が抱いているのはお父さんなんです、その……、射精もするんです、お、俺はどこかおかしいんじゃないかって」
宗介はこぶしをぎゅっと握った。俺はなんと言葉をかければいいのかわからなかった。やっとの思いで、そっか……、そんな夢見るって、兄貴とは普段仲いいの? とたずねる。宗介は目を伏せた。
「いいえ、とても厳しいです、でもそれは俺に期待しているからで」
だいたい予想がついていた答えだった。俺は急に宗介が気の毒になる。少しぼうっとして宗介を眺めた。俺が村を出ることを考え始めたのは宗介くらいの年齢だった。それを宗介は、耐えて立派に兄貴の跡を継ごうとしているのだ……。
「宗介、俺が兄貴の代わりにしてやろうか、抱っこ」
俺は座り直して腕を広げた。宗介はおどろいた表情で俺を見る。戸惑ったように自分の膝のあたりを見ていたが、ほら、と俺が言うとおずおずと俺に身体を預けた。
「宗介はよく頑張ってるよ、いい子だよ」
俺はそっと抱き締め、優しくささやきながら宗介のつむじを眺める。宗介の身体は想像していたよりずっと細くちいさかった。宗介が身を震わせる。泣いていた。
「……っ、お父さん……」
「よしよし、おまえは立派な子だ、誇らしいよ」
「……ひっく、うえぇ……」
宗介の髪を撫でながら、俺はゆっくり目を閉じた。少し楽になったか、もうおかしな夢を見なくて済みそうか、宗介。心の中で問いかけた。

翌朝目覚めると日が高く昇っていた。枕元の時計を眺めると針は午前七時をさしていた。寝坊だ。俺は飛び起き、居間へ走る。宗介がエプロンを巻いて朝食を作っていた。
「叔父さんおはよう、よく眠れましたか?」
俺は宗介の頭にごつんと拳を落とした。
「よく眠れましたか? じゃない、起こせ」
宗介は納豆と白米、味噌汁を並べながらほがらかに笑う。ったく、と悪態をつきながら俺は納豆をかけた白米をかき込む。宗介の表情を盗み見ると、宗介も俺を見ていた。
「ゆうべは、お父さんの夢を見ませんでした」
よかったじゃないかと言うのも何だか違う気がして、ん、と俺は呟く。宗介はくるりと後ろを向く。
「……叔父さん、ありがとう」
俺は、おう、と返事をした。

仕事に行く途中、ふと思い立って兄貴に電話をかけた。兄貴は携帯電話というものを持っていないので仕方なく家にかける。義姉さんが出たら気まずいと思いながらかけたが、留守電だった。肩すかしを食らったような気持ちで俺はメッセージを吹き込む。
「兄貴、宗介にもっと優しくしてやれよ、じゃないともう返さないからな」
携帯のボタンを押して電話を切る。今日は暑い。うお、遅刻、と声に出し、俺は走り出した。

 


 

昔J庭で頒布したものです 2017年