小さな破裂

武見は早く起きる。もう十年も一緒に暮らしているのに、志保は時折そのことを忘れてしまうことがある。志保自身が朝は苦手なせいもあるし、武見の肌の湿度や髪のやわらかさ、そんなものに年甲斐もなく夢中になって。
志保は半身を起こし、窓辺の時計を見た。午前八時。リネンの上には武見の着ていた紺色の寝間着が放り出されている。志保が世話をしなくても武見が自分で準備をして出て行ったということは、今日はいま夢中になっている新しい子と会うのだろう。志保は特に感慨もなくそう思い、寝るときに外していた眼鏡をかけた。武見は眼鏡が好きではないから、武見と一緒にいる時は眼鏡をかけないかコンタクトレンズにしている。「志保に眼鏡は似合わない」と甘えた声で武見に言われるのは悪い気はしないが、武見は眼鏡をかけた人間をそもそも軽んじているのだと志保は思っていた。
着替えてリビングに向かうと、玄関のインターフォンが鳴った。こんなに朝早くに訪ねてくる人間はだいたい想像がついた。モニターを覗くと、二十歳そこそこの男の子が目に入る。志保はちいさく微笑み、玄関を開けた。
「武見先生はいないんですか」
出かけているよ、と笑いかけると、男の子は警戒するように眉をひそめる。気の強そうな顔。右目の下に泣きぼくろのある、いかにも武見の好きそうな男の子だった。
「あなたは……?」
「武見の同居人」
志保はみじかく答えたが、男の子に納得して引き下がる様子はなかった。
「今日、武見先生と会う約束してるんですけど」
きっと武見は明日の朝まで帰ってこない。わざとすっぽかしたか、この男の子との約束は忘れているのだろう。志保はこの男の子が急に気の毒になり、目を伏せて笑った。
「何がおかしいんですか、あっ……あなた」
男の子の表情がさっと険しくなる。志保の正体をようやく理解したようだった。
「……志保さん、ですか、男だったんですか」
「きみも武見を好きなんだ?」
志保は伏せていた目を上げ、男の子を見つめた。男の子は志保をまっすぐに睨んでいた。
「こんな、眼鏡かけたおっさんが武見先生の一番大切な人なんて」
はは、と笑い、せっかくだからなんか食べてく? と志保はたずねる。武見に約束をすっぽかされた男の子――ある時は青年だったり、志保より年上だったりもした――と一緒に食事をすることが志保は好きだった。最初のきっかけがなんだったのかはもう覚えていない。けれどいつしか、ゲームか何かに熱中するように、武見を欺いて彼らと食事を取ることが好きになっていた。
「は……?」
男の子は理解に苦しむ表情で志保を眺めた。サンドイッチは好き? と志保は重ねてたずねる。
「きみで六人目なんだ、うちまで押しかけてきた子」

食事をして男の子を帰し、志保はテーブルを拭いていた。男の子はソウタと名乗った。彼と志保はぽつりぽつりと話した。彼は武見の教えている学生で、「俺を変態扱いしなかったのは先生だけ」で、「気を遣うのが上手で優しいのに、時々ぽっかり寂しそうな顔をするところがどうしようもなく好き」なのだと。
レタスとハムを挟んだパンを食べているうち、武見に約束をすっぽかされたことがゆっくりと彼の腑に落ちていったようだった。帰り際には志保に笑いかけてみせ、志保さん、またね、と言った。何が「また」なのか志保には解りかねたが、またね、と志保も笑った。
ふいに玄関の扉が開く音がした。まだ日は高い位置にあった。志保は急いで眼鏡を外し、サンドイッチの皿を流しに下げた。玄関に向かうと武見が革靴を脱いでいるところだった。
「ただいま、志保」
志保は武見の、深い森の、木々がざわめくような声が好きだった。好きというより、本能が求めている感じがする。武見の声を聞くだけでぞくぞくと勃起した、臆面もなく若い頃もあった。
「早いね」
志保が言うと、武見は困ったように志保に笑いかけてみせた。急いできみのもとに帰ってきたのに、喜んでもらえなくて寂しい、そんな顔。志保がそれを察してかすかに罪悪感を抱くところまで、わかっていてやっている顔。武見の寂しげな表情を見ると実際そのとおりに志保は罪悪感を抱いてしまうのだから、なすすべが無いと言わざるを得なかった。
「お昼は? 何か食べる?」
「食べてきたからいいよ」
武見は着ていた薄手のコートを志保に渡し、ハンガーにコートを掛けようとした志保の正面に回り込んだ。じろじろと眺めるように志保の顔を覗き込むので、志保はぷっと吹き出す。
「どうしたの、武見」
「今日は志保の笑ったところを見てなかったから」
言い、武見はふっと微笑んだ。志保は理解した。武見は今日、約束をすっぽかされたのだ。このところ夢中になっている新しい男の子に。危ういくらいの美しさと圧倒的なカリスマを持っていたかつてのように、狙ったものを全て手に入れられるわけではなくなってきているのだった。
「今日、武見に男の子がたずねて来たよ」
「へえ、なんか言ってた?」
「武見をどうしようもなく好きだって」
武見は片頬をゆがめて笑った。武見が若い男と関係していることを志保が知っていることを、武見も今や承知済みなのではないかと志保は時々思う。大した男だ、とも。志保が武見の立場だったら、絶対に武見のような言動も行動もしない。
「妬いた?」
武見がソウタを相手にしていないのは解ったから妬いていないし、一緒にサンドイッチを食べた、と志保は頭の中で呟いた。ハンガーにコートを掛けて振り返ると、武見が志保を冷たい瞳で見下ろしていた。
「妬いた」
だから志保は嘘をついた。新しい男の子に約束をすっぽかされたことが、今頃効いてきたのだろうと思った。武見のプライドを傷付けるのにそれは充分なことだったし、武見の怒りを放っておけば結局は志保に害が及ぶことを、志保はちゃんとわかっていた。

かつて働いていた時、志保は眼科医だった。最初に勤めた大学病院に武見がいた。武見は志保のことを呼ぶ時、ぎこちなく発音しづらそうに「葛城先生」と呼んだ。
その日は疲れ切って仕事を終えた夜だった。診察室の机に肘を突き、目頭をそっと押さえていると、上からおもしろがるような声が降ってきた。
「葛城先生、コンタクトしないんですか?」
志保は後ろを振り返った。外科の武見先生だ、と思いながら、しませんね、と志保は答える。
「眼鏡ない方がいいのに」
馴れ馴れしい男だ、と思いながら、志保は正面の患者が座る椅子に座った武見を眺めた。すらりと背の高い、看護師の女の子たちがこっそりため息をつくような美貌の武見が、なぜ仕事を終えた後わざわざ志保に話しかけるのかわからなかった。
「葛城先生、男が好きな人でしょう、僕もなんです」
志保は思わず武見を見た。

その後どんな会話を交わしたのかは覚えていない。ただ気付けば、志保はあれほど必死で目指した医者という仕事がどうでもよくなってしまっていて、毎朝その頃の武見の家から出勤する日が続いていた。志保は武見に夢中になった。四つも年上の男に感じるのはおかしな分量のいとおしさ。武見のぞっとするような無邪気さとこわいくらいの愛嬌。武見が何人か部下を持ったタイミングで志保は仕事を辞めた。武見はいやな顔ひとつせず、ああこれでやっと志保をひとりじめできるんだ、などと言ったりした。ひとりじめ。志保は笑ってしまう。その頃から武見は若い男の子と関係しているようだった。志保は泣いたり叫んだりしてそれはいやだと表現した。武見はひとりじめをしたいのが世界で自分だけだと思っている。志保だって武見をひとりじめしたいことを、とうとうどうやっても理解してもらえなかった。

いずれにしても――志保は裸で掛布にくるまり、隣に寝ている武見のまつ毛を眺める――いずれにしても、全て昔のことだ。志保が眼科医だったのも、武見がおそろしくよくもてたのも、それから武見の心変わりが不安だったのも。武見をひとりじめできないことにはもはや慣れきってしまったし、それでも武見という男は帰る場所がなければだめな人間なのだということも今や理解していた。
「志保」
眠たげで幼く聞こえる声で武見は言った。
「もう妬いてない?」
志保は自分の胸の奥から、武見に溢れるほどのいとおしさが湧いて出るのを感じた。今日の武見はいつもより乱暴だった。きっとそれも、新しい子に約束をすっぽかされたことと関係しているのだろう。
「うん……」
ささやくと、武見は右手を伸ばして志保の髪を撫でた。武見のおおきな、温かい手。志保は満ち足りた気持ちになり、思わず笑みをこぼした。

翌朝は武見よりも志保が早く起きた。世話をしないと起きないということは、今日は仕事だ。隣で寝息をたてている武見の頬にそっと触れ、朝だよ、と声をかけた。武見は伸びをすると、志保の頬に自分の頬を寄せた。
「朝ごはん、何にする」
「颯太と同じものを食べたいな」
志保は、颯太があの「ソウタ」を示しているのだと気付くのに少しかかった。いいよ、と微笑み、台所へ向かう。志保がソウタと食事を取ったことを武見が知っていたことに、少なからず動揺しながら。
武見はいつまで若い男の子を抱くのだろう。志保はあと何回、武見に相手にされない男の子と食事を取るのだろう。武見は志保以外の男と関係している。志保はそれを知っている。志保は武見に相手にされない子と親しく食事をしている。武見はそれを知っている。終点。そこはいきどまりだ。
レタスとハムを挟んだパンを武見の前に置き、自分に淹れたコーヒーを運んだ。サンドイッチを眺めて伏せられている武見の長いまつ毛。ゆっくり持ち上がり、武見の視線が志保を捉えた。
「あれ、今日眼鏡なんだ」
志保はちいさく首を傾げ、たまにはね、と笑った。

 


 

おそとにでたい話 2017年