爪切り

「左馬刻、これを見てくれ」
扉を開け、事務所に入ってきたのは理鶯だった。以前は夜中にたずねる時はもう少し静かに入ってきたのに、最近は扉の開け方から遠慮が減った気がする。左馬刻は開いた扉の方を眺め、理鶯が右手に持っているものを見た。
「……爪切り」
理鶯と付き合い始めてから、時々こういうことがある。よくわからないものを珍しがったり、左馬刻が何気なく言った一言で黙り込んだりする。どの言葉でどの感情が動かされたのか左馬刻が考えているうちに、理鶯の表情はもとに戻っている。結局尋ねられたことのないまま今日まで来た。今日の理鶯は心なしか普段よりも嬉しそうだった。
「それが何だよ」
「昨日小官はこれで手の爪を切った、なんとこれを使うと爪が飛ばない」
左馬刻はソファの横に立った理鶯を見上げた。彼の真剣な瞳から目を逸らし、左馬刻は息をつく。
「……よかったじゃねえか、足の爪も切ってけや」
「左馬刻の手の爪を小官に切らせてくれ」
左馬刻は思わず理鶯を見つめた。冗談を言えるような男ではないから、彼がそう言うのなら本当にそうしたいと思っているのだろう。反射的に出そうになった拒絶の言葉を左馬刻は飲み込む。これ以上彼の顔を見ることができず、目を閉じて片手で頭を抱えた。
「……理鶯、さすがに自分でできるわ」
「……そうか、小官が切りたかったのだが」
左馬刻はわずかに肩を落とした理鶯を見る。夜中にここまで、それだけのために来た相手なのだと思うと、無下にするのは気が咎めた。頭を掻き、斜め下を見つめて左馬刻は口を開く。
「……あー……、どうしても切りてえってんなら切ってもいい」
理鶯はソファの横にしゃがみ込み、左馬刻に目線を合わせる。ふっと笑って頷き、左馬刻の手を取った理鶯の瞳は穏やかだった。何か言葉をかけられるのは耐えられないと思ったが、彼は黙って爪切りを手に取った。

パチ、パチ、とかすかな音が響く。夜が静かに満ち、理鶯の手のひらの温度が直に伝わるようだった。小官は下手ではないか、とふいに彼が呟く。左馬刻は理鶯が突然口を開いたことよりも自分が気を緩めていたことに動揺してしまい、返答が一瞬遅れた。
「……爪切んのに上手いもクソもねえよ」
「そうか」
理鶯は満足げに返事をした。左馬刻は胸のうちにふくらむ不穏な何かを感じ、おい理鶯、と口を開く。
「知ってっか、夜に爪を切ると」
「親の死に目に会えなくなる」
理鶯が顔を上げる。切り終えたらしかった。整った自分の爪を左馬刻はぼんやりと眺めた。
「……お前、知っててやったのかよ」
「む、不味かったか」
「……いや、もう仏だからいいけどよ」
そうか、と返事をして理鶯は立ち上がる。邪魔をしたな、と微笑み理鶯は背を向けた。左馬刻は思わず、理鶯、と彼の背中に声をかける。
「……覚悟はできてんだろうな」
理鶯は立ち止まり、感情の読み取れない声で呟いた。
「……左馬刻を親のもとに行かせるつもりは無いのでな」
彼が事務所から出て行く。左馬刻は短く揃った自分の爪を見つめる。満ちた暗闇は変わらず静かだったが、さっきまでの夜とは違う匂いがした。

 


 

夜明けの異文化コミュニケーション