ただいま おかえり

最初に気付いたのはクロエだった。夜に近い夕暮れ、「夕ご飯まで待てない」とクロエが街に出かけるのにベルトランも付き合った日。クロエは大食だが、食事を待てずに街に出てまで間食をすることはほとんどない。だからあれは、もちろん今となって思えばだが、巫術に長けたクロエの予感のようなものだったのだ、とベルトランは思う。
銀髪の青年の名をクロエが口にした。あー? とベルトランは聞き返す。クロエの声はほとんどささやきに近かったし、街の喧騒にまぎれてよく聞き取れなかった。ちゃっちゃと食って帰ろうぜ、肉でいいんだろ、とベルトランが言うと、クロエは繋いでいたベルトランの手を離し雑踏の中を駆け出した。
「おい!」
人ごみの中をクロエは猫のように走る。道を行き交う人々が、走るクロエと追いかけるベルトランを眺めてくすくす笑う。親子げんか? という声が聞こえ、見せもんじゃねえぞと心の中で舌打ちする。ほとんどクロエは全速力で走り、見失わないよう必死になりながらようやく雑踏を抜ける。追いついて腕を掴むと、そこには銀髪の青年が立っていた。
「……探した」
夕陽を背負うようにして、青年は微笑を浮かべた。クロエが泣き声をあげて青年の腰のあたりに抱きつく。かぶっていた帽子を落としたクロエの頭をぽんぽんと撫で、青年は懐かしそうに目を細める。みんなお前を待ってるんだ、と震えるくちびるでベルトランは呟いた。青年はベルトランを見つめ、ただいま、と穏やかに言った。
ベルトランはその時でさえ、おかえり、と言うことができなかった。

夜風が、ほてった頬に心地いい。宴の夜を終え、ベルトランは宿の部屋からベランダに出た。アリアンナとフラヴィオの喜びようときたら、本当に若人ってやつは――。それでもそれを好もしく思うのだから、自分だって嬉しいと思っていることを認めざるを得なかった。
部屋からベランダに続いているドアが開く。クロエ、お前の部屋はここじゃねえぞ、と振り返らずに言うと、後ろの人影がくすりと笑みをもらす。驚いて振り返ると、銀髪の青年が困ったように笑う。
「お前……いいのかよ、嬢ちゃんや少年と、つもる話もあんだろ」
「アリアンナはひとしきり泣いて、今は寝た、フラヴィオは慣れない酒を飲み過ぎたみたいで、寝てる」
そうかい、とベルトランはベランダから景色を眺めたまま言った。街は夜に飲み込まれ、点々とある酒場にだけ灯がともっている。
青年がベルトランの方を窺う気配がした。ベルトランは目を合わせることにためらいを感じた。なんだよ、とつっけんどんに青年に言う。
「旅に出よう」
青年はささやいた。ベルトランは青年の横顔を見る。穏やかだったが真剣で、ベルトランは青年の言おうとしていることを理解する。長い長い命を与えられたベルトランと青年。いずれ仲間たちが彼岸へ渡ってしまっても、二人に終わりは許されない。
青年はベルトランを見上げた。ベルトランが返事をしようと口を開きかけると、青年は笑った。ベランダに背を向け、ひらりと手を振り青年は部屋から出て行く。ベルトランはベランダに取り残され、夜空を仰いで深い息を吐いた。

本当は、本当は嬉しかった。アリアンナやフラヴィオのように、素直に喜びたかった。けれど自分が喜んではいけないと感じていた。アリアンナやフラヴィオ、クロエにも悪い、と。ベルトランは自分の罪深い考えにぎょっとする。青年との時間を、残された時間が長い自分が、今は仲間達に譲らなければならないのだと。
ベルトランは自室のベッドに倒れ込む。おかえりを言うのも抱き締めるのも、馬鹿な話で笑い合うのも、自分の役目ではないと思った。
ただいま、と青年の声が脳裏に蘇る。ベルトランは枕に顔を埋めた。いつかベルトランにも、「おかえり」と言う役目が回ってくる時が来る。その事実の意味するところに、ベルトランは深い絶望を感じる。部屋のドアが開き、寝ぼけたクロエが入って来る。涙声になってしまい、お前の部屋はここじゃねえぞ、と、ベルトランは言うことができない。

 


 

若人に遠慮するベルトラン