ダーティ・ワーク

彼の中には獣がいる。
俺は気付いてしまったのだった。それはいつでも彼の中にいた。仲間たちとくだらないことで笑っている時、渋谷の雑踏で内緒の相談事を受けた時、あるいは彼がひとり、暗い屋根裏の大きなキャンバスの向こう、誰の言葉も届かない場所で筆を動かしている時。
「祐介」
腹が減った、と訴えるために俺は彼に声をかけた。夜遅くを回っていて、夕方から描き始めたせいで食べ損ねた夕食を食べたかった。返事がないので彼はどうやら食事を摂らずに描き上げるつもりらしい。キャンバスを隔てて彼と向き合いながら、安易にモデルなんか引き受けるんじゃなかったな、と俺は目を伏せた。絵を描く彼は真剣そのもので、それはもちろん関係ないことであるはずなのに、ふっと俺は天啓を受けるように理解した。彼は獣をかこっている。
「川鍋さんさ、断っちゃってよかったのか?」
だから俺は口を開いた。なんでもない風を装うつもりだったのに、呟いた声は異質にぽっかりと宙に浮かんだ。彼はキャンバスから目を上げ、俺をじっと見る。しばらく眺めたあと、再びキャンバスに目を戻して右手を動かし始めた。
「祐介」
「お前はどんな答えを望んでいるんだ?」
俺は面食らって黙り込む。彼が傷付き、怒っているのがわかった。声を荒げると思ったのに、彼はふっと息をもらした。
「ポケットに金が入っていた、あの人が入れたんだ、三万円だそうだ……」
白い牙がぎらりと光るのが見えた。俺は返事をせず彼を眺める。行ったのか? と言おうとしてやめた。それを口にしていたら、俺はその時に彼の獣に食い殺されていただろうと思った。

獣がいることを知ってからも、俺は彼とふたりで会った。普通にしていればまったく普段の彼なのだった。それに彼がそれを飼っていたとして、俺に何を言う権利があるだろう? その日の彼はいやによく喋った。相槌をうちながら俺は、彼がかつて暮らしていた家に立ち寄った日のことを思い出していた。俺に話しかけているのに、懐かしんでいるせいで独り言のように眠たげに聞こえる声、畳の部屋を眺めるたよりない彼の横顔……。
聞いているのか、と彼が笑った。俺は困ったようにはにかんでみせた。下半身に熱が集まっていて、研がれた牙が俺の喉元にあてがわれているのを感じた。

夜、屋根裏のベッドに寝そべって彼を思う。みなしごになった後、人には言えない暮らしを続けてきた彼、いっそ淫靡なまでに気高く高潔な芸術への姿勢、今や俺の喉に食い込んでいる牙。下着の上からそっと自分のその部分に触れる。硬く勃起していた。彼もこんな風に誰かを思って暗い淵に沈む夜を過ごしたことがあるのだろうか? あるとしたらそれはいつ、誰のせいでそうなったのだろう? 俺は目を閉じた。右手を添え、彼のしなやかな白い手に包まれることを想像した。獣が月のない夜を駆け、俺を殺しに来る気配があった。殺されてもいいと思ってしまえば、もはや後戻りのできない道を転がり落ちる気がした。想像の中の彼は従順だった。ああ、彼に獣を与えたのは誰だ? 彼も知らないあいだに、いびつに大きく育ってしまったおそろしい獣をかこわせたのは?

その日も彼は屋根裏部屋に来た。このあいだの続きを描きながら、俺と向かい合っている彼はいつものようにひとりだった。
「祐介、俺は最近アルバイトしてるんだけどな」
彼は返事をしなかった。筆を動かす時に聞こえる、彼のシャツの擦れる音がいやに大きく響いた。
「働いて貯めたんだ、ちょっとした額になってさ、三万円」
聞こえていないのか何を言いたいのかわからないのか、彼は黙って筆を動かし続けた。なあ祐介、と声をかけると、不意に彼が立ち上がってキャンバスから距離を取った。絵が完成したのだ。俺は彼の獣が、俺の胸の奥を食い荒らしているのを感じていた。生き血を啜り、あばら骨の間の肉を噛みちぎり、とうとう心臓を食い破って――。
「やらせろよ」
彼は俺を見た。冷えた瞳だった。ベッドの上に座っている俺に歩み寄り、勢いよく左頬を殴りつけた。彼が一言も発しないのをいいことに、俺は立ち上がって彼に迫る。
「金ないんだろ? いいじゃんかちょっとくらい、斑目にもやられてたんだろ……」
両肩を掴むとてのひらに震えが伝わった。彼は薄い肩をふるわせて泣いていた。俺は自分が血みどろの肉塊になり、彼の獣の胃の中に収められている想像をする。彼は力なく俺の胸を拳で打った。彼をそっと抱き寄せながら、完成した絵をぼんやり振り返る。そこには光に包まれてはにかんでいる俺が描かれていた。もし次に彼が再び俺を描くことがあったなら、それは一体どんな絵になるのだろう。今イーゼルを蹴り倒し、キャンバスをびりびりに引き裂きたい衝動を俺はこらえる。彼の目の前でそれをしたら、どんなに気持ちがいいことだろうか。光の中ではにかんでいる俺は死んだ。彼の獣に殺された。

 


 

男のクズとパトロン発見力カンストの喜多川くん