世界の終わり

「……海に行くぞ、理鶯」
かすれた声に、理鶯は隣に寝そべっている左馬刻を見た。理鶯は右手を伸ばし、汗ばんだ額に落ちている髪をそっとかき上げる。ほとんど声を出さないのに、いつも行為の後はひどく喉を痛めているようだった。今日の左馬刻の声は静かで、ひとつも余分なものが含まれていなかった。
「今からか」
理鶯がたずねると、左馬刻は勢いよく上半身を起こす。返事をせずに理鶯の脱いでいた衣類を放ってよこすので、本当に今から行くつもりなのだと解った。昼間はまだ蒸し暑いとはいえ、夜の空気からは確実に秋が近付いていることを感じる。窓際に歩み寄って窓をそっと開けると、ひんやりとした夜気が流れ込む。遠くに波音と、かすかに海の匂いもした。
「わかった、だが水を飲んでくれ」
「いらね」
いつの間にか衣類を身に付け、彼は靴を履こうとしていた。丸めた背中に白いシャツが張りついて、少し背骨が浮き出ている。理鶯は左馬刻に声をかけようとしたが、何を言えばいいのか解らなかった。
部屋のドアを開け、左馬刻は理鶯を振り返る。口元をゆがめて笑ったが、瞳はある種安らかだった。理鶯は持っていたペットボトルを置いて立ち上がる。左馬刻を追いかけなければならないと思うのは本能だった。

口付けるとぎゅっと目を瞑った。抱きすくめると緊張するようだった。赤い瞳はつややかで、皮膚をそっと撫でると身を震わせた。肌が興奮でほんのり色づいても、精を放ち全身がぐったりと弛緩すると、汗が引く頃にはもとの青白い肉体だった。眠ってほしいと思うのに、彼は貪欲に理鶯を求めた。彼の中の吸い付くような感覚は自制心を削るのに充分で、理鶯は時折、搾り取られる錯覚に陥る。はじめは自分の方が左馬刻にのめり込んでいるのだと思っていた。けれどこの頃は、左馬刻は生まれてから今までずっと何かを渇望しているのだと思っている。理鶯はゆっくり目を閉じる。喉の渇きに海水を飲み、海に還った同胞の姿が目蓋の裏に浮かんで消えた。

無造作に並べられた消波ブロックの上に左馬刻は立っていた。ゆらりと頼りなく揺れて、ゆっくり理鶯を振り返る。理鶯が地面を蹴ると、彼は両手を広げて背中から海に倒れ込んだ。理鶯は迷い無く左馬刻の落ちたあたりに飛び込む。耳にも鼻にも水が入り込み、呼吸のできない原始的な恐怖に襲われる。たゆたっている左馬刻の身体を抱えて水面に顔を出すと、澄んだ夜空に星が瞬いていた。
「……さみい」
「……当たり前だ、戻って風呂に入ろう」
「俺様が死ぬつもりだと思ったろ」
理鶯は返事をできずに左馬刻を見た。水分をたたえた赤い瞳は静かだった。
「……思っていない、左馬刻は渇いているだけだ」
「俺は海で死にてえ」
腕の中におさまった左馬刻を見つめると、理鶯は不穏な欲望が胸のうちに小さく芽生えるのを感じた。月明かりに照らされ、白い髪は仄青く見えた。
「海だったらどこで沈んでもお前が来んだろ」
水面から上半身だけ出してゆらりと揺れる。理鶯の胸にぺたりと寄せられた頬は変わらずしっとりとしていた。左馬刻は理鶯を見上げてにやりと笑い、でかくしてんじゃねえよ、と囁く。
「……それ、は」
理鶯が言葉を紡ぐより先に、左馬刻が理鶯に口付けた。理鶯はためらうこと無く左馬刻の後頭部を抱き寄せる。触れ合った皮膚から混ざり合って、ひとつになるようだった。海で沈むのが、なぜ今ではだめなのか。なぜ今、世界が終わってはくれないのか。

「……お前の出したやつ、全部中に留めておけねえかな」
浴室に反響する左馬刻の声に、理鶯は伏せていた目を上げる。シャワーで身体を流しながら、左馬刻は首を傾げていた。
「……理鶯、なんとか言えよ」
「それは困る、留めておかれたら注げない」
左馬刻は理鶯を振り返らなかった。理鶯も左馬刻の表情を見ずに再び目を伏せる。そうかよ、と息をつき、左馬刻はシャワーを止める。頼むわ、と聞こえないくらいの声で呟いた左馬刻の背中は、普段よりもほんの少しだけ血色がよかった。

 


 

運命の相手