子供

醤油がなくなりそうだったことを思い出した。あ、と小さく口に出す。振り返ったのは先生だった。
どうしたの左馬刻くん、とわずかに首を傾げる。曇り空の夕方の、水っぽい空気。照らされた先生の細い髪が金色にきらめいた。
前の方を歩いている乱数と一郎が立ち止まって振り返る。先生たちは先に帰ってて下さいと言うつもりだったのに、醤油を買って帰りますと口に出していた。先生はそうかと笑った。
「左馬刻くんは偉いね、気をつけて帰るんだよ」
ちいさく手を振って背を向ける。首をのばしてこちらを窺っている乱数たちの方へ向かった。強くて優しい大人の男を、生まれて初めて見たと思った。

先生と二人きりになることは少ない。たまにあっても、特に共通の話題はなかった。けれど沈黙は苦痛ではなく、あれこれと気遣うようなこともしない。知り合った人間に、妹とふたりで暮らしていると言うと、見えない薄い膜が作られる。けれど先生はそれを作らなかった。尊厳を守ってくれたのだと俺は思った。尊厳なんて難しい言葉を使っていたのも、もちろん先生だった。
「紅茶を淹れるけど、左馬刻くんも飲むかい」
いただきます、と俺は口に出した。ちらりと時計を見る。背を向けて湯を沸かす先生が、あと一時間はかかるだろうからね、と呟く。俺は返事をできず目を伏せた。この人は全部わかっているのだと思うと、心地よさと気恥ずかしさがわずかに滲む。
先生の淹れる紅茶は熱い。湯気の立ち上る澄んだ茶色をぼんやり眺める。滲んだ感情の正体に、俺は気付かないふりをした。

「左馬刻さあ、ジジイ好きなんでしょ」
乱数が俺の顔を覗き込み、呆れたように言う。ソファに寝そべったまま、尊敬してんだよ、と返事をする。さすがにこいつも二人きりの時を選ぶんだなと思った。面白そうに笑みを浮かべ、素直じゃないなあ、と呟く。
「僕はジジイみたいな父親、絶対嫌だけどな」
俺は言葉が出なかった。思わず乱数を見つめると、こわーい、と邪気なく笑う。
ドアが開き、先生と一郎が入ってくる。左馬刻さん来てたんすね、と笑う一郎の声。自分の心臓の立てる音が三人に聞こえている気がした。
「飴村くん、留守番を頼んでしまってすまなかったね」
乱数は返事をせず、俺の視界から外れる。ねーねー一郎、こないださあ、と言いながら一郎に抱きつく音がした。いつの間にか背中がじっとり汗ばんでいる。現実に打ちのめされ、俺は起き上がることができない。

 


 

恋愛感情と父親への慕情がないまぜになってるやつ 周りにばれてないと思っていることに限ってだだ漏れのやつ