記憶を失ったマルチェロをククールが拾った話

飯だよ兄貴、と口を開きかけてやめた。台所から顔を出した俺にかすかに笑いかけ、マルチェロは暖炉の前から立ち上がる。まだ右足を引きずるので、俺は小走りに食卓に向かいマルチェロの椅子を引いてやる。すまないな、不自由な体で、とマルチェロは申し訳なさそうに顔をしかめた。
「そんなのいいよ」
マルチェロが椅子に座ったのを見届け、俺は台所からシチューを運んだ。所在なげにぼんやり俺を見ていたマルチェロは、俺と目が合うとふいと目線を逸らす。俺は目線を逸らしたことに気付かなかったふりをして、今日のはうまくできたんだ、とマルチェロに笑いかけた。
「本当だ、美味いな」
シチューを口に運んだマルチェロがにわかに弾んだ声を出す。食事の前に祈るということをしないマルチェロに俺は未だ慣れない。よかった、と返事をしながら、俺はマルチェロを盗み見る。ちらりと目を上げ、「ククールは食べないのか」と不思議そうにたずねた。
「あ……ああ、食べるよ、マルチェロ」
スプーンを取り、ひとくち口に運ぶ。兄貴、と呼んだこともある。その時マルチェロは俺の目を見つめ、私と君は兄弟なのか、と単純な疑問を問いかけるように首を傾げた。俺は頷くことができなかった。マルチェロの態度にというより、頷くことのできなかった臆病な自分に嫌気がさし、それら全てに蓋をするように二度と兄貴と呼ぶことをしなかった。俺は胸につかえる苦いものをシチューの野菜と一緒に飲み込んだ。

俺が拾ったマルチェロは記憶を失っていた。俺の存在や俺を憎んでいたことなんかは綺麗さっぱり忘れていた。話しかければ返事をするし、無愛想だがぎこちない笑みを見せるときもある、ごく普通の人間になっていた。ひどい怪我をしていたので手当をして面倒を見た。マルチェロは、君は親切なのだな、すまないなと弱々しく笑った。俺は世話をしながら、かつてのマルチェロを思い出して泣き出しそうになる気持ちをこらえた。あんなに望んだこの人の笑顔が、こんな形で手に入るなんて夢にも思わなかった。
けれどそのとき同時に、俺の心に巣食って俺を支配していたマルチェロが死んだのがわかった。俺の一番やわらかい部分にあてがわれていた刃を、いつでも引くことのできたマルチェロはもういない。今のマルチェロは、片足を引きずり、俺に世話をされ、すこやかな寝息を立てるマルチェロだった。胸の奥の、なにかを喪失した感覚に名を付ける術を俺は知らなかった。

食事を終えて、ソファで本を読むマルチェロの横に座る。本を覗き込むともちろん聖書なんかではなく、風景の写真集だった。
「世界には色々な場所があるのだな」
ページを繰り、俺が覗き込んでいることに気付いたマルチェロは呟いた。俺は、そうだね、と返事をした。しばらくあってマルチェロが、次のページに行ってもいいかと目で問いかける。俺は胸がいっぱいになる。こんな風に自然に、あんたと一緒に本を読める日が来るなんて思っていなかった。
「いつか行ってみたいな、右足が治ってからだな……」
「兄貴」
マルチェロは自分が呼ばれたことにしばらく気付かなかったようだった。俺をゆっくり振り返り、不思議そうに見つめる。
「その、兄貴というのは私のことか」
「俺の兄貴、あんた以外にいないだろ」
マルチェロは返事をしかねて、俺の次の言葉を待っているようだった。俺はマルチェロを見つめる。震えた声は異質にぽっかりと宙に浮かんだ。
「やり直したいんだ、兄弟を」
マルチェロの返事を聞くより先に、自分の瞳に涙がうかぶのが解った。マルチェロが右手を伸ばし、俺の目元をそっと拭う。泣くな、とマルチェロは困ったようにささやいた。俺は伏せた顔を上げることができない。こんな気持ちになるのは初めてのことだった。

 


 

夜明けのククマル