雨降って地固めたい日の黒

理鶯を呼ぶのは初めてだという気がした。もちろん本当に初めてだというわけではない。けれど左馬刻は破る可能性のある約束を極力しない主義だったので、遠い日付の約束をしたことは無かった。
「兄貴、黒渋いっすね」
「……白だと血が目立つからよ」
ドアを開けた舎弟をちらりと見上げ、後部座席から降りる。鉛のように雲が垂れ込めていた。一雨来る前に終わらせたい、と思った。

後処理を舎弟に任せ、帰り着くと理鶯が部屋の前に立っていた。左馬刻を認識して、わずかに身体を傾ける。持て余し気味の体躯を見る度に、電信柱を連想する。
「……悪い、遅くなっちまった」
「構わない」
両手を広げ、彼が左馬刻を抱き締める。首のあたりに顔を埋めて息を吸うので、こら、嗅ぐな、と息をもらして笑った。
「雨には降られなかったか」
くぐもった声が耳に届く。わずかに頷いて返事をする。この男の匂いが漂い、自分が今一番欲しいものが分かった。

部屋の明かりを点け、寝室のベッドにうつ伏せに倒れ込む。立っている理鶯を気怠く見上げると、彼は従順にベッドの縁に腰掛ける。口元に笑みを浮かべ、理鶯の股間のあたりに手を伸ばした。風呂に入れとか食事を摂れとか言う日もある。けれど今日は言わないので、彼も今は左馬刻を求めているのだと思った。
「今日は」
「抱け」
かすれる声で呟くと、理鶯が左馬刻の背に覆い被さる。彼の匂いが濃くなり、左馬刻は安らかな気持ちで目を閉じる。彼の息を首筋に感じ、安らぎの奥に欲望が揺らめいた。
「理鶯、そんな嗅ぐな」
犬じゃねんだからよ、と囁き、自分で言ったことがなんだか面白い気がして静かに笑う。この男に求められることは悪くないので、気が済むまでやらせようと思った。
肩のあたりに鋭い痛みを感じ、左馬刻は身を固くした。歯を立てられたのだと解り、痛えよ、と首をねじって彼を見上げようとする。再び彼が噛みつくので、ん、と声を漏らして左馬刻は身を起こす。彼が全体重をかけていたら起き上がることはできないだろうが、そうではなかったので瞬時に揺らめいた不安が収まった。理鶯の静かな瞳を見つめる。無機質な部屋の明かりの下で、普段より青がくすんで見えた。
「……バカにしてんのかテメエは」
全身を毒のように駆け巡る何かを感じ、左馬刻は理鶯を突き飛ばして玄関から外に出る。こんなに恐ろしいことになるから、約束なんて慣れないことはしたくなかった。

銃兎の部屋のドアを叩く。彼がここにいなかったら死ぬような気がしたが、しばらくして玄関が静かに開けられた。お前インターホン見えないのかよ、と眠たげに目をこすり、銃兎はふと動きを止めた。
「……風呂入れ、その匂いのままここまで来んな」

銃兎の家の浴室は清潔だった。入るのは初めてだったが、他人の家で入浴するというのはなんだか落ち着かなかった。すりガラスの扉の向こうから、銃兎が誰かと電話をしている声が響く。よそゆきの声だから、左馬刻には関係のないことだと思って膝の間に顎を埋めた。
浴室の扉が開けられる。理鶯だ、と聞こえないくらいの声で囁く。左馬刻はふいと横を向いて目を閉じる。
「……ここには来ていませんよ、ええ、連絡もありません」
何かあったんですか、と心配そうな声を出す彼の背中を見つめ、左馬刻は泣き出しそうになる気持ちをこらえた。

風呂から上がると、銃兎がタオルを放ってよこす。頭を拭いていると、暗い気配が少し薄らいだ気がした。フローリングの上にあぐらをかいている彼が左馬刻をちらりと見上げ、酒でも飲むか、と呟く。
「……いらね」
「タオルその辺に投げ捨てんなよ」
銃兎を見つめると、彼は眩しいものを見るように顔をしかめる。
「お前のそんなひでえ面、久しぶりに見たわ」
左馬刻の胸のうちに不穏な何かがざわめく。押し付けるように手渡された服は左馬刻の着ていたものではなかった。
「……お前の服暗えな、ネズミ色かよ」
「理鶯の奴相当参ってたぞ」
彼を見下ろす。声から感情は読み取れなかった。知らねえよあんな奴、と言った自分の声がひび割れていて、その響きの暗さにうんざりした。
「……何でもいいが、謝ったらちゃんと許してやれよ、俺は寝る」
立ち上がった彼をぼんやり眺める。左馬刻の視線に気付いたのか、お前らと違って忙しいんだよ、と呟いた。

朝になっても左馬刻は帰って来なかった。理鶯は固くなった自分の身体を伸ばして窓を開ける。肺を満たした空気があまり綺麗ではない気がして、理鶯は胸が静かに圧迫される錯覚に陥った。
殺風景な部屋は、彼がいないとがらんどうだった。単に物に執着しない人間なのだと思っていた。けれど今理鶯が眺める左馬刻の部屋は、彼そのもののようで薄ら寒かった。

銃兎の部屋のインターホンを鳴らすと、少しして眠たげな銃兎がのっそりと扉を開ける。理鶯を見上げ、来ると思いましたよ、と小さくあくびをした。
「でも今はいません」
銃兎の様子に挑戦的な気配を感じ、理鶯は彼から目を逸らすことができなかった。それは、と呟くと、知りませんよ、朝起きたらいなくなっていました、と澄ました声を出す。
理鶯が何も言えないでいると、銃兎は暗い瞳を理鶯に向けた。理鶯の知らない何かを彼らは見ているのだと解った。
「……左馬刻はまるでガキです、理鶯は知らないでしょうが、こんなに一人の男に固執するのは初めて……」
そこで言葉を切り、いかにもいやらしく眉根を寄せる。
「……いえ、あなたで二人目でした」
銃兎をそれ以上見ることに耐えられず、理鶯はくるりと背を向ける。心臓の鼓動が速まるのがなぜなのか、理鶯はわからないふりをした。マンションの外階段を駆け下り、汚れた空気を思いきり吸い込む。深呼吸をする度にどんどん呼吸が浅くなる気がして、自分は彼の何を知ったつもりでいたのだろう、と思った。

彼が理鶯の前に現れたのはそれから四日後の夜中だった。その時理鶯はぼんやりとしていて、とうとう自分は死んだのだと思った。
「……お前人んちの前で何してんだ」
静かな彼の声に、ゆっくり目を開ける。左馬刻を待っていた、と呟く。確かな彼の気配に、これは生きた現実だと確信した。
座り込んでいる理鶯の横を無感動に通り過ぎ、彼は自分の部屋の玄関を開ける。理鶯は立ち上がり、細い背中に声をかける。
「左馬刻、すまなかった」
「……お前は俺がどうでもいい奴にもほいほい股を開くと思ってんだろ」
震える彼の声に、底の見えない危うさを感じた。失敗は許されないのだと理解した。
「小官は左馬刻の全部を独り占めしたい」
彼が何も言わないので、理鶯は何かに追い立てられるように続ける。
「今、左馬刻を満たすのは小官の役目だ」
部屋に上がる彼に追いすがるように声をかける。からっぽの部屋に彼がなじんだら、その時に世界が終わると思った。
「喉が渇いたら教えてくれ、危険な任務の時は呼んでくれ、食料が尽きて、腹が減ってどうにもならなくなったらその時は」
彼が振り返る。その瞳は生き生きと燃える赤だった。
「そっから先は許さねえ、二度と考えるんじゃねえぞそんなこと」

ベッドに倒れ込み、痩せた肉体を抱き締める。彼の存在を感じながら、疑ってすまない、と途切れ途切れに絞り出す。
「わかりゃいいんだよ」
甘やかな彼の声に突き動かされるように、理鶯は薄い胸板に頬を寄せる。
「キスしてもいいか」
「いちいち訊くなバカ」
左馬刻を見下ろす。彼のシャツが普段の色ではないことに気付いた。
「……その黒いシャツ、とても良いな、新しいものか?」
「……お前さ、マジで普段どこ見てんだよ」
「左馬刻だが」
「は……可愛いから今日は抱かせてやるよ」
理鶯は静かに目を閉じる。彼が今、生きてここにいることが、ただひとつの現実だった。ほのかな温かさを感じていると、頭を両手で掴まれる。
「こら理鶯、眠いふりしてんなや」
「……三日三晩、貴殿を待っていたからとても眠い」
彼が息をつく。しょうがねえ奴だな、そういうことにしといてやると囁いた声はひどく安らかだった。

「銃兎、仲直りした」
電話の向こうは喧噪に満ちていた。機械を通すと普段とはまるで違う響きに聞こえることに、理鶯は時々驚く。
「知ってるわいちいち教えてくんな、お前だって二人目は不満だったんだろが」
「……銃兎、カルシウム不足か」
不思議に思い問いかけると、彼は電話の向こうで一瞬黙る。
「は? ……ああ、元がこっちなんだわ」
「……そうか」
理鶯はうっすら笑みを浮かべる。彼らに自分が自然になじむことを想像した。
「あんま左馬刻を追い詰めんなよ、今それができるのはお前だけだからな」
「……善処しよう」
電話を切り、理鶯は小さく息をつく。生きることと死ぬことは、そう違わないのかもしれないと考えた。そうだとしたら、本当の恐怖とは何だろう。そんなものが存在するとは、今の理鶯には思えなかった。

 


 

生死の境を彷徨いがちなMTC