a feeling of wrongness

今になって、思い出すことがある。何度も何度も、くりかえし。
「どうした里中、ぼーっとして」
後ろから声が聞こえて、あたしは振り返ってかろうじて微笑みを返す。慣れないタキシードに身を包んだ花村が立っている。急に高校生の時のおちゃらけた同級生だった花村が頭をよぎり、長い長い時間の流れにあたしは目眩を覚える。もう里中、じゃねえか、と花村は頭を掻き、ややあっていとおしそうに呟く。
「…千枝」
あたしと花村は、結婚することになった。

結婚式はとどこおりなく終了した。ささやかだけれど幸せな、八十稲羽での結婚式。仲村君や直斗君も来てくれて、りせちゃんも忙しいだろうに休みを取ってくれた。
「でもまさか、花村先輩と千枝先輩がね」
りせちゃんはそんな風に言い意味ありげに笑う。あたしが、何?その言い方、と言って怒った顔をつくってみせると、りせちゃんは、お幸せに、と言って笑った。
「次は先輩と雪子先輩かな」
あたしの耳もとに口を寄せてりせちゃんは言った。雪子と仲村君も付き合っているのだ。あたしは、どうかな、と答えて微笑む。
「あーあ、私の前にもいい人が現れないかなぁ」
りせちゃんはそんなことも言うのだった。

その小さな結婚式場の隣にある小さなホテル。あたしはベッドの端に腰かけぼんやりとしている。
「花村ー、まだー?」
シャワー室に向かって声をかけると、まだー、と返事が返ってくる。身体冷えちゃうっつの。あたしたちはここで、「初」でもなんでもない初夜を過ごす。

――わからない。
あたしは唐突に、そんなことを言ったことを思い出した。初めて花村とセックスをした日、雪子と電話をしたのだ。あたし達が付き合っているような関係になっていることはみんな知っていたし、雪子になら話してもいいと思った。雪子はまず、えええ、と言って、それからしばらく間をおいて、どんな感じだったかとか、聞いてもいいかな、と言った。
「わからない」
それであたしはそう答えた。本当になんだかよくわからないうちに終わってしまったし、あたしの中には説明のつかないわだかまりもあった。もう取り返しがつかないことをしてしまった、というような。そして、それは雪子と関係しているのだった。
「わからない」
雪子はあたしの言葉を繰り返して、千枝らしくないね、と笑った。

花村がシャワー室から出てきて、あたしの横に腰かけた。かすかな石鹸の匂いがする。
「こういう時、なんて言えばいいのかわかんねーけど」
花村はあたしの目をじっと見つめる。その視線があまりに切羽詰まっていて、あたしは目を逸らせなくなる。
「好きだよ、千枝」
花村はあたしをぐいっと押し倒した。その瞬間、あたしはあの時感じたわだかまりの正体をようやく理解する。雪子と関係している、取り返しのつかないわだかまり。それでもあたしにはこの状況を打開する手立てはなくて、大人しく花村に抱かれるべく目を閉じる。

花村、ごめん。あたし、雪子が好きだ。明日から、あたしと花村の愛の生活が始まる。

この前、千枝の結婚式に行った。千枝がよんでくれたのだ。結婚相手はなんと花村君(千枝と花村君は前から付き合っていたから、なんと、ということもないのだが、このことを思い出す度に私は何度でも新鮮な驚きを覚える)だ。私は高校生の時の微笑ましいふたりのやりとりを思い出し、ひとりでクスクス笑う。
「何笑ってるんだい、雪ちゃん」
仲居さんに笑いながら言われ、なんでもないの、と私は答える。
「(綺麗だったな、千枝)」
私はそんな風にも思う。しかし結婚式の時の千枝を思い出すと、何やらどこか違和感を感じる。その正体は私にはわからないが、何か一点が決定的に欠落している、というような。いつも明るくて男勝りだった千枝。そんな千枝がこれからは「奥さん」になるのだから不安もあるのだろうと思った。その不安が、私に違和感を感じさせただけなのかも。私は強引に結論付ける。
そうして、それとは別にまた自分の中にもやもやしたものを私は感じ、私はその正体もわからなくてひどく苛々する。さっきの微笑ましい気持ちはもうどこかへ行ってしまっていた。
「(考えるの、やめようかな)」
柄にもなく、ぼんやりとそんなことを思う。

今日は雨だ。今年の梅雨は雨がよく降る。梅雨なので当然といえば当然だが、六月で雨だと旅館は暇になる。私は窓の外を眺め、今日は仲村君に電話をしてみようか、と思う。そうして千枝の「決定的な欠落」について話してみようか。それはきっと仲村君にはわからないことだろう。それでも仲村君ならきっと、わかってくれはしなくても微笑んではくれるだろうと思った。俺にはわからないけど、雪子がそう言うのならそうかもしれない、と。雨はまだまだ降り続いている。六月。幸せなことに千枝と花村君は六月に結婚したのだ。

ジューンブライドという言葉を覚えたのは小学生の時だ。
その頃私と千枝がよくしていた遊びに、「結婚式ごっこ」というものがあった。その名の通りふたりが結婚式を挙げるのだ。これを愛し、これを敬い、死がふたりを別つまで。どこかで聞いてきたその文句を呟いて。そんな時、千枝が言った。
「六月に結婚するとすごく幸せになれるんだよ」
私は、なんで?と訊いた。純粋に疑問だったのだ。千枝はややあって、何でだろうね、と答えた。
「わからないけど、でも昔からそう言うんだよ。ジューンブライドって」
そうしてその通りに千枝は六月に結婚した。幸せな花嫁、ジューンブライドとして。

その夜仲村君に電話をかけた。自分の部屋で、今さっき洗った髪を乾かしながら。仲村君の声が聞きたかったし、色々なことも話したかった。3コール待って仲村君は出た。
「もしもし、雪子」
低く穏やかな声が電話口から聞こえた。大好きな仲村君の声だ。私は自分の頬がゆるむのを感じる。
「声が聞きたくて」
私はたっぷりと幸福な気持ちで言った。仲村君が電話の向こうではにかんだのがわかる。仲村君は、そうか、と言った。幸せで泣きだしそうになり、あわてて話題を変える。
「千枝、綺麗だったね」
「そうだな」
私は少し考えて、でもちょっと嫌な感じがしてる、と言った。仲村君が私の言葉を待つ。
「うまく言えないんだけど、なんか千枝、変だったっていうか」
それから、私も、と心の中で付け足した。千枝の決定的な欠落と同時に感じた自分の中のおかしな感情。でもそれを言葉にしても嘘になってしまうだけだと思った。
「…雪子と千枝は、仲良かったからな」
仲村君はしばらく考えた風にそう言った。だから結婚してちょっと変な感じがするのかもしれない。花村に取られた、じゃないけど、と。
私ははっとして、それからみるみる怯えた。仲村君はいつもほんとうのことを言い当ててしまう。あるいはそれに近いことを。
「…そうかもしれないね」
声が震えないように気をつけながらかろうじて私は答える。

私はその夜遅くまで寝つけなかった。花村に取られた、じゃないけど。仲村君の言葉がよみがえる。もやもやの正体はそれ、だと一概には言えない。もっと色々、複雑に絡み合っている気がする。もしかしたら、私は千枝のことが好きだったのかも…。
そこまで考えて私は寝返りをうった。そんなはずはない。私は仲村君と一緒で幸せだし、仲村君のことが大好きだ。第一、そんなに簡単に言い表せる感情ではない気がした。
私は、近いうちに千枝に電話してみよう、と思った。さもなくば遊ぼう。そうしてようやく眠りにつく。

「あれ、どうしたの雪子」
あたしは玄関先に立っているこの友達を見た。来ちゃった、と雪子は笑って言う。あたしがあっけにとられていると、迷惑だったかな、と雪子は呟いた。
「ううん、全然。ね、よかったらこれからちょっと出ない?」
花村は仕事だからさ、とあたしは続ける。どうして急に、という言葉は飲み込んだ。心臓のどきどきも、悟られないように気を付けた。

あたしたちは川べりを歩いた。六月。曇っていて蒸すが川べりはいくらか涼しい。
「なんか、千枝とこうやって歩くの久しぶりかも」
高校卒業してから忙しかったしね、と雪子は言う。あたしは頷き、今は旅館は暇なの?と訊いた。
「暇、暇。オフシーズンだからね」
雪子は大げさにため息をつく。そうして、でも暇だとこうやって千枝と遊べるから嬉しい、などと言うのだった。

自分が雪子のことを好きかもしれないなんて、今まで考えたこともなかった。
将来は自分も他の女の子たちと同じように男の人と恋愛をして、なんとなく結婚して、子供を産むものだと漠然と思っていた。ただその隣には、いつも雪子がいるのだろうとも思っていた。雪子も誰かと結婚して、子供を産んで――。それがこんなことになるなんて、まったく大惨事だ。そしてそれは絶対に叶わないこともちゃんとわかっていた。

「雪子は、仲村君とは最近どうなの」
雪子の脇腹を肘でつつきながらあたしは言った。雪子は、えっ、と言ってみるみる顔を赤くする。あはは、とあたしは笑う。可愛いなぁ。でもそう思うと同時に、切なさがこみあげてくるのも感じていた。
「昨日、電話した…けど」
けど、の続きをあたしは待った。けれど雪子はそれ以上は何も言わずに黙っていた。川面に夕焼けが反射してきらきらと光っている。あたしは、そろそろ帰ろうか、と言った。

家に帰ると花村がもう帰っていた。ただいま、とあたしが言うと、おかえり、どこ行ってたんだ?と花村は言った。
「ちょっと雪子と遊んでた」
天城か、そんならいいけどさ、と花村は言う。あたしは拗ねたような目をしている花村を見る。
「心配、してくれてたとか」
できるだけ軽く聞こえるようにあたしは言った。けれどそれは明るくというより探るように響いてしまい、私は内心うろたえる。花村は目を伏せた。
「心配、つーか…よくわかんねぇ」
あたしは花村に対してひどく申し訳ない気持ちになる。花村は寂しかったのだ。花村はあたしを愛している。あたしは心臓をぎゅうっと掴まれたような気持ちになり、花村を抱きしめた。そうする以外に、方法はなかった。
「ごめんね、花村」
聞こえないくらいの声であたしは言った。花村のことは好きだった。けれどあの結婚式の日、気付いてしまったのだ。花村はしばらくじっとしていたが、やがて腕に力をこめてあたしを抱きしめ返してきた。そうしてベッドに移動することもできずにあたしたちはその場で愛し合う。あたしの頭は冴えきっていて、雪子は今頃何をしているだろう、というようなことばかり考えていた。

今日は久しぶりに晴れた。朝早くにセットした目覚ましを止め、私は幸せな気持ちで顔を洗う。今日は、仲村君に会えるのだ。仲村君はずいぶん遠くに住んでいる。私の旅館の方はどうせ暇だし、土日なので仲村君の大学も休みだ。私たちは、ふたりだけでお泊りをする。
そこまで考えて、私は自分が少し緊張していることに気付く。考えてみれば仲村君とセックスしたことは無いのだ。私は、ああ、とため息をつき、ふと、昔に千枝からあった電話を思い出した。今日さ、花村んち泊まったんだ。うん、初めて。千枝はあの時、「わからない」と言った。わからない。大好きな男の人と寝て、何がわからないことがあるのだろう。千枝はあの時何を思っていたのだろう…。それは幸せなことではない何かのような気がして私は怯えた。雪ちゃん、忘れ物は無いかい、と仲居さんが呼ぶ声が聞こえる。

電車がホームにすべりこみ、仲村君が荷物を携えて待っている。仲村君は片手を上げて微笑み、私も手を振って微笑む。ホームに降り、ふわりと仲村君の匂いがしたかと思うとそっと抱きしめられる。私は最初何が起こったのかわからなかった。頬が熱くなるのを感じ、えっ、と呟いた声はひどく弱々しく響いた。
「会いたかった」
仲村君が感極まった声で言う。風がそよぎ、髪をなびかせていく。背の高い木がざわりと揺れ、私はおどろいて口もきけなかった。

好きな人と一緒にいると、何でもきらきらと輝いて見える。食べるものもおいしい。私はご飯をおかわりして、微笑んだ仲村君と目が合い赤面した。だってお腹空いちゃったんだもん、と言い訳のように呟く。私たちのくだらなくも美しい、そして充分に幸せな時間。

そうしてその夜、私は仲村君に抱かれた。順当に、予定通りに。私はすっかり緊張してしまい、ずっと目をつぶっていた。仲村君が私の耳もとで囁いた時も、仲村君が私の中に入ってきた時も。仲村君、と私は呼びかけた。仲村君は、ん、と言って微笑む。

朝。私は眠っている仲村君の横に座ってまっすぐ前を見ている。ゆうべの余韻がまだ部屋の中に残っていて私はうすく微笑む。紛れもなく幸せだった。それでも私の中にある、このよくわからない引っかかりは一体何なのだろう?なぜだか千枝のことが思い出され私はうろたえる。そうだ、千枝。…千枝も花村君と寝た時こんな気持ちになったのだろうか。
私は目を閉じる。千枝のことを最初はもっと別な理由で思い出した気がしたが考えたくなかった。信じられなかったのだ。私は仲村君のことが大好きなのに、千枝と寝たらどうなるかなどと思っているだなんて。そして、私がそれを望んでいるかもしれないだなんて。私は心底怯えた。そりゃあ千枝と仲はいいがそんな目で見たことはないと信じていた。私は自分があばずれにでもなったような気持ちになる。こんなのは、嘘だ。
「嘘だ」
口に出して呟く。いつの間にか起きていた仲村君が、なにが、と言う。

意識の遠くで電話が鳴っている。あたしは寝ぼけたまま、ううん、と寝返りをうちながら電話に出た。画面には天城雪子と出ている。もしもし、と寝起きで少し不機嫌に聞こえる声で言った。
「起こしちゃったかな」
雪子は言った。あたしは、別にいいけど、と言ってベッドの横に置いてあるペットボトルの水を飲み干した。そうして、どうしたの?と訊く。
「今日、暇?遊べない?」
「何?旅行ののろけ?」
あたしは笑いながら言う。雪子はこの前仲村君と旅行に行ってきたのだ。まあそんなところ、と言って雪子も笑う。
「じゃあね」
雪子は電話を切った。でも、こんなに朝早く電話かけてくることないのに、とあたしは不思議に思う。

あたしたちは川べりを歩いた。(なんかこないだもこんなことした気がする、と雪子は言った)今日はこないだとは違って陽射しが眩しい。もう七月になるのだ。外で遊ぶのは失敗だったかなぁ、とあたしは思う。
「で、どうだったの?お泊りデート」
あたしは話を振った。雪子は、うーんと、としばらく考えるそぶりを見せる。
「ホームに降りたら急に抱きしめられて、ご飯がおいしくて、夜は一緒に寝た」
あはは、とあたしは笑った。雪子も恥ずかしそうに笑う。そして急に神妙な顔つきになり、それでさ、と言った。
「千枝が花村君の家に泊まった時、私に電話かけてきたの覚えてる?」
あたしは心底びっくりした。
「…覚えてるよ」
そっか、と雪子は言った。あたしは心臓がはちきれそうにどきどきしていて、自分は今すごく怖い顔をしているのかもしれないと思った。
「あの時千枝、わからないって言ったけど、私もわからなかったなって」
「…うん」
それだけだろうか。言外に意味は含まれていないだろうか。あたしは普段使うことの少ない頭で必死に考える。雪子は声をひそめて続けた。
「なんかさ…その時私思ったんだけど、なんか、変なの…」
あたしは心の底から恐怖した。雪子もあたしと同じ気持ちを味わったのだとすぐにわかった。言っちゃだめだ言っちゃだめだ。言ったら何もかも全て失われてしまう。花村も仲村君も、あたしと雪子の関係も。雪子は必死な目をしている。
「あたし、千枝と、」
「だめ」
あたしは雪子の口を手でふさいだ。そうしてゆっくりと首を横に振る。
「だめ」
消え入りそうな声でばかみたいに繰り返す。雪子はいつの間にか泣きだしそうな顔をしていて、あたしはもう少しで、あたしも、と言ってしまいそうになる。
「あたしらはさ、きっとずっと一緒に居すぎたんだよ」
かろうじて微笑む。雪子も力なく微笑み、あたしは胸を締めつけられる。
「…うん」
そうかもしれないね、と雪子は言った。あたしは、でも、きっと嘘じゃなかったよね、と呟く。

雪子のことが好きだった。それから雪子もあたしのことが好きだった。それでもあたしたちは、愛し合うには失うものがあまりに多すぎる。あたしは目を閉じて思う。隣では雪子が無言で歩いている。あたしは、雪子もあたしと同じことを考えているのだろうと思った。
「(好きだよ、雪子)」
口に出さずに心の中で言う。嘘じゃなかったらいいと、思う。悲しくも辛くもないが、ひどくせつなかった。
「帰ろうか」
「うん」
もうすぐ夏が来る。季節が一巡りする頃には、この気持ちにも折り合いをつけられるようになるだろうか…。
そうして、あたしは家に帰る。あたしを愛している花村が待つ家に。

 


 

P4無印をプレイした当初に書いた すごく江國香織に影響受けてるなーって感じ