花村×千枝

小西先輩のお墓はその墓地の一番奥にある。
八月。陽射しの眩しさに顔をしかめながら俺はその場所に向かって大股で歩く。今日は暑いが風がある日で、背の高い木に囲まれた小西先輩は少しだけ涼しげに見えた。風が吹いて木が揺れるせいで木漏れ日がちらちらと色を変える。俺は小西先輩のお墓の前で立ち止まった。今日は、お盆だ。
「(迷惑だったら、ごめん)」
心の中で呟く。俺は小西先輩のことを思い出すと決まって苦々しい郷愁に襲われる。郷愁の正体は判りきっているようにも何百遍考えてもわからないようにも思える。二年前。本当に色々なことがあった。
「(俺、あれからバイク買いました。今は時々彼女を乗せてる…今でもたまに、先輩のこと思い出します)」
つとめて明るく言った。小西先輩の裸を思い浮かべながらベッドに潜っていた頃のことを思い出す。今もそんな時は彼女ではなく小西先輩の裸を思い浮かべていることは言わないでおいた。
「(でも、俺はもう大丈夫だから)」
言いながら俺は、そんなことを小西先輩に報告するなんて甚だおこがましいことだと思った。もう大丈夫だから、だなんて。死んだからこんな風に話しかけられる、というのも、なんだか自分を薄ら寒い気持ちにさせた。
「(また来ます)」
俺はなんとなくばつが悪くなり早めに話を切り上げた。歩きはじめて、小西先輩のお墓が遠ざかる。あんなところに朝も夜もたったひとりで…。俺は後ろ髪を引かれそうになり駆け足になる。そうして小西先輩のことを思った。おっとりした、放っとけないお姉さんみたいな小西先輩。でももう俺より年下なのだ、と思い、その事実に俺は愕然とする。

汗がぽたりと落ち、今日は暑い、とあらためて思う。背中に、小西先輩の無表情な視線を感じた。

「ただいま」
花村の声がしてテレビで映画を見ていたあたしは振り返る。おかえり、と言って、また映画に目を戻した。この映画はもう何度も見たものだ。
「どうだった、お墓参り」
映画を止めてあたしは訊いた。どうってこともねえよ、とシャツを脱ぎながら花村は言った。普段は服の下に隠れている白い上半身があらわになる。二の腕と肩の肌の色のコントラストを見て、あたしはなんとなく切ない気持ちになった。
「今日あっちーな、シャワー浴びてくるわ」
「ちょっと、ここで裸にならないでよね」
ズボンを脱ぎ、下着まで脱ぎそうになる花村をシャワー室に押し込み、あたしは居間に戻る。

あたしと花村が一緒に住みはじめて一年とちょっとになる。
それまでなんとなく付き合っているような関係になっていたあたしたちは、高校を卒業して花村がジュネスに就職したのをきっかけにそのままずるずると一緒に住み始めたのだ。幸いあたしは花村の両親に気に入られていたし、千枝ちゃん、ここで一緒に住めばいいじゃないかと言ってくれたけれど、花村が二人で暮らすと押し切ったのだった。
あたしは花村がそんな風に思っていてくれて嬉しかったし、二人きりの生活に少なからず夢見るものもあった。炊事は花村がしてくれたが洗濯と掃除は二人で分担して、それからセックスもたくさんした。
「千枝…」
花村はセックスの時、たびたびそんな風にあたしを呼んだ。普段はあたしのことを苗字で呼ぶのだけれど。あたしは初めて名前で呼ばれた時まずぎょっとして、それからうっとりと目を閉じた。でもあたしは、花村のことを「陽介」とは呼ばなかった。

花村がシャワー室から出てくる。申し訳程度に腰にタオルを巻いていて、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。ぷはー、と息を吐いて、お前はオッサンか、と突っ込みたい気持ちをあたしはこらえる。だいたい花村には恥じらいというものが欠如しているとあたしは思う。そりゃあ一緒に住みはじめた最初の頃は居間で全裸になることなんてなかったし、親父みたいに麦茶を飲むこともなかった。一度花村にそれを指摘したら、「お前だってもう屁すかすのやめたじゃん」としゃあしゃあと言われて腹が立った。時間が全てを変えていくのだ。

花村に新しいシャツを放ってやると、それを着ながら花村はあたしの横にどしんと座った。
「映画見ねーの?」
「いいや。もう何度も見たやつだし」
鮮やかな赤のシャツ。それは花村にすごくよく似合っていて、悔しいけどあたしはかっこいいと思わざるをえないのだった。

今日は仲村が来た。お盆に堂島さんと菜々子ちゃんに顔を見せに来たのだろう。前日、急に電話があったので驚いて出ると、今どこにいると思う、と悪戯めいた声が聞こえた。懐かしいあいつの声で、俺は自分の頬がゆるむのを感じた。
「え、電話、仲村君?」
話していると察した千枝に代われとせがまれる。代わってやると千枝は楽しそうに話しはじめた。うん、うん、マジ?えー、じゃあさ、明日にでも遊ぼうよ。うん、花村も。
しばらくして千枝は電話を切った。あーっ、俺まだ話すことあったのに、と盛大にため息をつくと、千枝は無視して、
「明日遊ぼうって。いいよね?あんたも会いたいでしょ?」
と言った。俺は、もちろん、と答えた。

まずジュネスで昼飯を食べて、俺たちは仲村を家によんだ。どうせ遊ぶところなんてない田舎の町だ。それに仲村は少し俺たちに遠慮しているようだったので、遠慮など必要ないことを示したかった。言葉にしたら余計に泥沼にはまるということがこの世にはある。俺はうすく切ない気持ちになりながら、できるだけ自然な風を装って「これからうちに来いよ」と言った。
「いいのか?」
これには仲村も千枝も驚いたようだった。千枝は一瞬何だかわからないという顔をしたが、うんいいね、来なよ、と笑いながら言った。

俺たちは仲村を家に招き入れる。おじゃまします、と律儀に仲村は呟き、遠慮がちに部屋の中を眺めた。俺は麦茶をコップにみっつ注いで出す。
「いつまでこっちに居るんだ?」
俺が訊くと、明日まで、と仲村は答えた。えー、じゃあすぐじゃん、と千枝が言う。
「菜々子ちゃんとか喜んでたでしょ、仲村君が来て」
べったりだ、と満更でもなさそうに仲村は言った。微笑みながら麦茶に口をつけるのを見て、俺は自分が三人分の麦茶を持ってきたことを思い出す。

なんとなく、ほんの少しだけ、ぎこちなかった。それは歳月がもたらしたものなのか、俺と千枝が恋人同士で、仲村もそれを知っていたからなのかわからなかった。きっとその両方だろうと俺は思う。千枝もそのことについて後で文句を言った。
「なんで仲村君にうち来いよって言ったの?」
仲村君緊張してたじゃん、と千枝は続ける。俺が黙っていると、掃除もしてなかったしさ、と千枝は言った。仲村を呼ぼうと思った瞬間は呼ぼうと思った理由があったはずだったが、千枝の拗ねたような声を聞き大きな瞳を見ていると、なんでだったか忘れてしまった、というような気がした。それで千枝をそっと抱きしめ、
「忘れちまった」
と言った。細くやわらかい身体を抱きしめ髪に顔を埋める。かすかに汗の匂いがして、俺は久しぶりにムラムラした。離してよ、とくぐもった声が俺の胸板に直接響く。
「信じらんない」
俺が腕の力をゆるめると千枝は恥ずかしそうな顔をして言った。話してただけなのに、普通する?そういうこと。
「夕飯の準備してよ、あたし掃除するから」
じっと見つめると千枝は、そんな顔しても、今日は疲れちゃったもん、と横を向いてふくれっ面で言った。

「えっ、本当?仲村君来たの?」
電話口で雪子は驚いた声を出した。あたしは、そうそう、と言う。
「私も会いたかったな、あ、でも忙しいから今年は無理かもしれないけど…」
雪子はあれから、旅館を継いだ。今は引き継ぎなどで忙しい時期だろう。雪子はもう女将さんなのだ。今度は冬にでも仲村君来れるといいよね、とあたしは言った。
「でもさー聞いてよ、花村のやつ、掃除とか全然してないのに仲村君うちにあげたんだよ」
仲村君が緊張していたらしいことは伏せた。電話口で雪子が言葉を探している気配が伝わる。やがて雪子は微笑をもらして、
「なんか千枝、どんどん奥さんって感じになるね」
と言った。なんかちえどんどんおくさんってかんじになるね。その言葉を反芻し、あたしは心の底から怯えた。
「やだ、やめてよー」
あはは、と笑いながらあたしは言った。今の説明のつかない恐怖を、雪子に悟られないように気をつけながら。
「また遊ぼうね、花村君も一緒に」
雪子は邪気無く言ってのけるのだった。

あたしはその日急に思い立って小西先輩のお墓を見に行った。思いついたらじっとしていられない性質なのだ。あたしは花を買って、この町にはひとつしかない墓地へ向かった。
墓地に着いたはいいが小西先輩のお墓を見つけるのに随分手間取ってしまった。なんせ一番奥にあるのだ。あたしは強い陽射しにさらされながら、一体自分は何をしているのだろう、と思った。小西先輩のお墓の前で立ち止まる。
「(どうも、花村の彼女です)」
あたしはとりあえず挨拶をした。挨拶したはいいが、何を言っていいかわからなかった。
「(えーと…花村は今でもあなたのことが好きです)」
あたしの心に鈍い痛みが走る。彼女はあたしだけど、花村が今でも一番好きな人は小西先輩だ。小西先輩は死んでるけど、あたしは生きてる。つまりそういうことだ。
「(ほんとです、だって、セックスはあたしとするけど、ひとりでする時は、)」
余計なことまで喋ってしまいあたしは赤面する。一、二度しか見たことのない先輩にあたしは何を話しているのだろう。セミが遠く鳴いている声が聞こえる。
「(え、と…)」
あたしはすっかり困ってしまう。
その時、墓地の階段を登ってくる足音が聞こえた。

墓地には千枝がいた。それも小西先輩のお墓の前だ。無表情に千枝は俺を見つめる。
「あんた、仕事は」
「今日は早番だって言ったよな」
俺はよくわからない不愉快な感情が心を満たすのを感じた。ふてぶてしい千枝のせいなのか、それとももっと別の何かなのか俺には判断がつかなかった。
「ここで何やってんだよ」
俺は呟くみたいに言った。その言葉が自分に向けられて刺さることに気付かないふりをしながら。べつになにも、と千枝は言った。
「それに、別に花村がまだ小西先輩のこと好きでも怒らないよ」
目を伏せて言った千枝の、おそろしく静かな横顔。俺はうすっぺらな紙みたいにびりびりと音を立てて自分の心臓が引き裂かれるのを感じた。
「なんだよ、それ」
口の中がカラカラに渇いている。寒気がして、そういえばもう夕方だなと思う。千枝は俺をぼんやりと眺める。ねえ、と言いかけた千枝の言葉に重ねて、俺は、好きだよ、と言った。
「千枝が、好きだよ」
小西先輩のお墓の前で俺は言った。うわごとのように聞こえたかもしれない。そのくらい聞き取りづらく小さい声だと自分でも思う。それでも俺は、千枝に聞こえているとわかった。
「…帰ろう」
千枝はぽつりと呟いた。辺りは暗くなってきている。俺はぎこちなく微笑み、千枝の手を取った。千枝は嫌がるそぶりも見せずおとなしく付いてくる。
「帰るか」
俺は言った。小西先輩のことは好きだった。けれど彼女は死んでしまった。千枝は生きている。そうして俺を好いてくれている。俺はぬるい風を睫毛で受け止めながら思う。
小西先輩は俺の永遠の片思い相手だ。
俺はその考えが気に入った。後ろを向くと、いつものように無表情な小西先輩が涼しげに立っていた。微笑んでいるように見えたのは、俺の気のせいだったかもしれない。

 


 

P4やった当初に書いた 花村を何だと思っていたんだ