きっと、恋だった

女王陛下が子を産んだ。
窓から月明かりが差し込んでいた。人気の無い王宮の廊下を小走りに駆け、向かう先は彼らのもとだ。星の瞬くしずかな明るい夜で、絨毯を踏みしめるかすかな自分の足音さえ耳に届く気がした。伝令をよこしてくれたのは彼だ。ああ、幸せなのでしょう、今にも泣き出しそうな表情をしていました――アシュレイ殿下は。
彼らが夫婦となった日のことが、まるで昨日のことのように目蓋の裏に浮かぶ。ふたりを祝福して集まったたくさんの人々、割れるような拍手、晴れた広場に舞うたくさんの風船。彼らなら戦争も終わったこの国をよりすばらしいものにしてくれる、そんな確信を僕も日だまりのような幸福と共に抱いていた。
寝室の扉をそっと叩く。内側から扉が開けられた。部屋の中には彼らのほか数名の侍従がいた。来てくれたんだな、ウルフガング、と陛下の子どもを抱いていた彼は涙声で囁いた。
「女王陛下、おめでとうございます」
ありがとう、と陛下はささやく。横たわったまま薄く目を開けた陛下の頬はばら色で、この世のものではないような神々しさと、目を逸らしたくなる奇妙な照れを感じた。それが母親となった女性から発せられる気配なのだとわかったのは、もっとずっと後のことだった。
後ろの方にいたジュディスがわっと泣き出す。アシュレイ殿下、こんなに、こんなにご立派になられて、ジュディスは幸せでございます……。顔を両手で覆った彼女のえりあしから出た後れ毛が、数本白くきらめいていた。
僕は彼に歩み寄り、腕の中の子どもを眺めた。布にくるまれていて、かすかに甘い匂いがした。ちいさな手をぎゅっと握りしめていた。僕はどうしてもその子どもに触りたくなり、指先でそっと頬に触れた。子どもはすこやかに寝息を立てていた。
抱いてみるか? と彼が僕に声をかける。僕は彼を見上げ、首を横に振った。子どもに触った瞬間、僕は何かを喪失した。その感覚に名前を付ける術も知らなかった。かわいいねとかよかったねとか、そんな言葉もかけられず、僕はその場に立ち尽くした。
アシュレイ、眠くなってしまったわ、と陛下が呟く。赤い目をしたジュディスが、さあ、殿方はそろそろお帰り下さいませ、と普段の調子を取り戻して言った。
「ウルフガング、来てくれてありがとう」
はにかんだ彼の表情はもう人の親だった。彼と肩を並べて過ごした果てのない戦いの日々を思い出す。わずかに頬をひっぱって笑みを返す。僕は人でなしなのだと思った。

緑のきらめく庭を、彼らの娘が駆けている。蝶かなにかを追っているのか、スカートをひらひらさせていたかと思えば、突然しゃがみ込む。
「ウルフガングのおじちゃんも手伝って!」
甲高い声で僕を呼ぶ。今年で五つになるのだそうだ。はいはい、と苦笑して僕は椅子から立ち上がる。
「こら、あまり手伝ってもらうな、ウルフガングだって疲れてしまうだろう」
「どういう意味だい、アシュレイ」
僕は王宮から庭に出てきた彼を振り返る。彼は僕に片目を瞑り、娘の方に走り出す。少女がきゃーっと声を上げて彼に抱きつくと、そのまま彼がぐるぐると回ってみせる。
庭に仰向けに倒れ込んだ彼らのもとに向かい、僕は声をかける。
「アシュレイ、ここ最近で一番多く回ってたよ」
新記録だね、と笑うと、娘がきゃっきゃと笑い声を上げる。荒い呼吸をしている彼の満足げな表情や紅潮した頬を眺めると、えも言われない郷愁が再び湧き上がるのを感じた。そっと蓋をして、そろそろおやつの時間じゃないかい、と娘に声をかける。
「おやつ!」
ぴょんと立ち上がった娘に手を握って急かされ、彼は体を起こす。今日のおやつは何だろうな、と彼は笑った。
「ジュディスのプリンがいいな」
うたうように言った彼らの娘の左隣に立つと、きゅっと右手を握られた。僕はおどろいて娘を眺める。彼女の右手は父親の左手を握っていた。
自分の胸が正体の知れない感情でいっぱいになり、思わず上を向いた。ウルフガング、お前も食べていくだろう? と彼が笑う。僕はあんまり切なくて、返事をすることができなかった。うっぐとおかしな声が出て、娘がきゃきゃと嬉しそうに笑う。おじちゃんもプリン、泣いちゃうほど食べたいのね、おいしいもんね、と笑う声がこだまのように耳に届いた。

彼は僕の憧れだった。
陛下を守るためにふたりで暗躍した日々、その頃の彼は研がれた牙を持つ獣だった。ふるい記憶に僕は微笑む。鋭い眼光、怒った時の震える声、そして僕に向けられていた信頼と友愛。彼を思って過ごした夜も、数えきれないくらいあった。今の彼は、ほんとうの守るべきものを得て、平和になった国で、幸せに過ごすひとりの男だった。目も眩むような錯覚に僕は目を伏せる。彼の幸せを何よりも祈っていたはずなのに、これは一体どうしたことだろう。胸の奥にわだかまっているものの正体を僕は見極めたくなかった。

夕刻を過ぎ、風が冷たくなってきた。僕たちは王宮の中で彼らの娘の人形遊びに付き合っていた。一日はしゃぎ回っていたせいか、僕の膝に乗っている娘はうとうとと眠たげだった。
「ほら、おねむならベッドに行くぞ」
彼が娘の肩を揺すって促す。彼らの娘の高い体温を感じながら、ね、アシュレイが困っているよ、ベッドに行こう、と声をかけた。彼らの娘はむにゃむにゃと口を開く。
「ウルフガングのおじちゃんはお父さんが大好き」
僕は言葉を発することができなかった。
「わたしも、お父さんが大好き、お母さんも大好き……」
もう夢を見ているな、と彼が笑った。僕はうつむいて目を伏せる。これが彼の守るべきものだった。
今までずっと見ないふりをしてきたものの正体を、僕は静かに見つめた。
きっとこれは、恋だった。

 


 

人の親となってしまったアシュレイへの憧れと劣情をうまく消化できないウルフガングの話