アシュレイさんとウルフガングさん

あの時、追いかけてきたのがあいつだった。
空が高く晴れた日だった。入学式を終え教室に入ると、同級生数名の輪に手招きされる。当たり前だが全員が初めて見る顔で、俺は当惑した。教師が来るまで読みたかった本をそっと鞄にしまった。
名前は、と赤い髪の同級生がたずねる。表情には親しげな微笑みがあった。
「……アシュレイ、アシュレイ・セシル・ファリントンだ」
へえ、と同級生たちは首を傾げた。ファリントン家か、と曖昧に笑みを浮かべる。聞いたことがない、と、彼らの表情が言っていた。
「……あ、ファリントン家って、もしかしてあの……」
同級生たちはちらりと目配せをした。俺は自分がだんだん苛々していくのが解った。時計を窺い、いつになったら教師は来るのだろうと考えた。
「随分前に没落したとかいう」
赤い髪の同級生が言う。彼の瞳にはっきりと落胆が見て取れた。俺はがたんと音を立てて立ち上がった。
教室がしんと静まり返る。教室の中の人間の視線が俺に集中しているのがわかった。怒りというよりも蔑む気持ちの方が大きく、俺は同級生たちに背を向けた。
「……下らない、お前たちはずっとそうしているといい」
鞄を手にして教室を後にすると、一拍遅れて、ぎゃはははは、と笑い声が響く。せかせかと歩く教師とすれ違ったが教師は俺に気付かずに教室へ向かった。早足に廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。
「……アシュレイ君!」
俺は声のした方を振り返った。黒い髪の優男が立っていた。
「君すごいね、みんな初対面だろう、僕、なんだかすっきりしちゃったよ」
「誰だお前は」
あ、と男は照れたように笑った。自己紹介が遅れたね、と俺の目を見る。
「僕はウルフガング・アードレイ、大した家の出じゃないんだ」
「ウル……?」
俺が聞き返すと、男は鞄から手帳を取り出す。何かを書きつけ、ページを一枚破って俺に手渡した。
「ちょっと変わった綴りだから」
はにかみ、男は頬を掻く。じゃあ僕は教室に戻るね、とほがらかに言った。
俺は小走りに離れていく男の背をぼんやり眺めた。おかしな奴だ、と思った。しばらく眺めてから、ふと思い立って男に手渡された紙を広げて見る。彼の名前が書いてあるはずだった。
「……ウ、ウル……?」
俺は首をひねった。紙に書かれていたのはミミズののたくったような字で、読めたものではなかった。

「士官学校に妙な奴がいる」
「あらアシュレイ様、鏡でもご覧になりましたか」
洗濯物を畳んでいたジュディスがうたうように言う。じろりと睨んだのに、ジュディスは知らん顔で衣類を畳み続ける。俺の下着をつまみ上げ、わざと指先だけで手早く畳む。この使用人は俺が家を継いでからより辛辣になった気がする。というより、俺が幼い頃は、人並みには優しかった。
「入学式はいかがでした」
たずねるジュディスに、俺は返事をせず黙り込んだ。斜め下を見た俺をちらりと窺い、再び洗濯物に目を戻す。
「……家柄で人間を判断する、下らない連中の集まりだ」
ジュディスはしばらく黙っていた。やがて全てを察したように、小さくため息をついた。
「ああアシュレイ様、私はあなた様の寿命が心配です、どうか長生きをなさって下さいませ」
「ジュディス!」
言いながら、同級生と口論をしたこと、教室で教師の話を聞かずに入学式からそのまま帰ってきたことまでジュディスに見透かされたのだとわかった。憎まれ口を叩きながら、ジュディスが本当に俺を心配しているということも。それから廊下で俺を追いかけてきたおかしな男のことを思った。あの教室で、俺を笑わなかったのはあいつだけだった。

「ファリントン、ちょっと」
俺は振り返った。その日の授業を終え、帰ろうとしているところだった。俺に声をかけたのは昨日廊下ですれ違ったやつとは別の教師だった。
「……はい」
「昨日はどうした」
大して心配しているようでもない教師の様子に、俺は斜め下を見た。入学式の日にそのまま帰ってきたことが早くも教師の間で共通の認識になったようだった。俺が黙っていると、教師はため息をつく。
「入学早々目立つ奴だよ、出自が知れるというものだ」
俺はすっと心が冷えるのを感じた。生徒が生徒なら教師も教師だ。すっかり軽蔑した気持ちで教師を見上げると、後ろから遠慮がちな声が聞こえた。
「先生、彼は昨日、僕を医務室に連れて行ってくれたんです」
俺は驚いて隣に立った男を見る。昨日の黒い髪をした優男だった。
「アードレイ、そうなのか」
教師が疑わしげに言う。おい、と口を開きかけると、男は俺に片目を瞑ってみせた。あっけにとられて俺は男を見る。
「はい、足をくじいて、歩けなくなってしまって」
「そうだとしたら随分貧弱だな」
男は顔を伏せ、悲しげに呟いた。
「その……僕は生まれつき、骨が、ちょっと……」
教師は目を瞬いた。やがて諦めたように息をつく。わかった、無理はするなよと言い、背を向けて廊下の向こうに歩き去った。俺は隣にいる男をそっと窺う。
「骨、弱いのか」
「人並には」
男は笑った。俺はきまり悪くなり、不機嫌だと自分でわかる声色で言う。
「助けてくれなんて頼んでない、それに医務室なんて、どうしてそんなすぐにばれる嘘をつくんだ」
「あの教師、信じてないよ」
俺は再び男を見つめる。男の横顔は俺より少し大人びて見えた。
「医務室が本当かどうかなんてどうでもよくて、君を挑発して退屈を紛らわせようとしたんじゃないかな、ろくでもない教師もいたものだね」
俺ははらわたが煮えるのを感じた。教師も生徒たちもこの男も、何もかもが不愉快だった。
「……帰る」
低く呟くと男は仕方なさそうに笑った。アシュレイ君、もっとうまくやるんだ、今に足元をすくわれるよと忠告のようにささやく。
「うるさい!」
俺は男を置いて廊下を走り去った。今に足元をすくわれるよ、と言った男の声が耳に残った。どうしてあいつは平気なんだろう。血統がすべてを決めると信じきっている見下げた連中に笑いかけて、一体どうしてあんなに平然としていられるんだろう。あの男には理想も望みもないのかもしれない。のらりくらりと安穏に生きてゆければそれでいいと、そう思っているのかもしれない。

屋敷に帰り着くと、ジュディスの姿が見えなかった。何かを飲んで一息つきたかったのに、必要な時にいない。舌打ちをしてキッチンに向かい、茶葉を探したがどこにあるかわからなかった。
「あらアシュレイ様お帰りなさいませ、何か召し上がりたいのですか」
「緑茶」
言い、ジュディスに背を向ける。あらあら、今日のご主人様はご機嫌斜め……と彼女の呟きを聞きながら、使用人にまで八つ当たりする自分に心底うんざりした。同級生や教師への怒りがあるだけのはずだったのに、いつの間にかジュディスやあの男にまで不満が募っている。士官学校に入るまで、自分はこんな人間ではなかったと思った。あの男の忠告めいた言葉を思い出し、俺はいっぺんにかっとして声を荒げた。
「あの男が学校の連中から俺をかばうんだ! 何なんだあいつは」
後ろのキッチンでジュディスが振り返る気配を感じた。そのまま彼女が何も言わないので、俺はジュディスを振り返る。ジュディスの驚いたような瞳はまっすぐに俺を見ていた。
「……何だその顔は」
ああいえ、とジュディスは口ごもる。いつになくうろたえた様子に、俺は不思議に思い彼女を見た。
「アシュレイ様が他人に興味を持つなんて、随分久しぶりのことだと思っただけですわ」
緑茶を載せたトレイを持ち、俺の横を通り過ぎる。テーブルにそっと置くと、さあ、冷めないうちにどうぞといつものように微笑む。満ちていた怒りが、疑問に取って代わっていた。興味。俺があいつに対して抱いているこれは、果たして興味なのか。

突然教師から呼び出されたのはその一週間後だった。俺が同級生を殴ったというのがその理由で、それを教師に訴えたのは赤い髪をした同級生だった。間抜けのように広い部屋の中、俺はテーブルを挟んで教師と向かい合う。
「きちんと謝っておけよ、今ならまだ懲罰室送りにはならないからな」
無実を訴える気も失せ、俺は窓の外をぼんやり眺める。教師が説教めいた何かを話している間、俺はこの一週間のことを思い出していた。あの男はいつも、穏やかな影のように周囲に溶け込んでいた。つかず離れず俺を見ているのが解った。なじんでいるのに、俺が面倒を起こしそうになるとすっとどこかから来て、俺の隣を陣取った。あの男には、俺の感情が乱れる気配がわかるのだと思った。俺をかばい、微笑んで廊下を歩き去る後ろ姿はいつでも完璧だった。
「ファリントン、聞いているのか」
俺はふっと現実に返った。はい、とほとんど機械的に返事をすると、教師が深く息を吐いた。
「……これだからな、野蛮な没落貴族は」
動く教師の歪んだ口元を眺める。本当に手が出そうになった瞬間、部屋の扉が大きく開けられた。入ってきたのは赤い髪の同級生とあの男だった。
「先生、僕を殴ったのはファリントン君じゃありません」
赤い髪の同級生が慌てたように声を上げる。俺はあっけにとられて二人を眺めた。あの男と目が合うと、いつかのように片目を瞑った。
「しかし、金髪の男だと」
教師が俺をちらりと見る。まずいことをしでかしたような表情をしていて、俺は教師がその情報だけの思い込みで俺を部屋に呼び出したのだと理解した。
「先生、金髪の男なんて、この学校にどれだけいると思いますか」
あの男がくすりと笑ってかすかに首を傾げる。教師は目を泳がせた。おもむろに立ち上がり、最初からちゃんと言えと赤い髪の同級生をじろりと見る。
「では先生、ファリントン君は授業に戻ってもよろしいでしょうか」
涼しい声であの男が言う。ああお前たちは授業に戻れと吐き捨てるように教師は言った。あまりの鮮やかさに俺は、夢か何かを見ているようにくらくらした。

「…………助かった、礼を言う」
授業の最中で人気のない廊下を歩きながら、俺は隣を歩いている男に話しかけた。あの男は穏やかに微笑み、あの赤毛の子も最初は君を陥れたかったようだけどね、と呟いた。
「本当に教師がそう思い込んで君が呼び出されて、怖くなったみたいなんだ」
それで彼から僕に声がかかった、と続ける。俺は男の声を聞きながら目を伏せた。ずっと気になっていたことを、今なら聞くことができると思った。
「お前は、どうして俺を助けるんだ」
「君が本当は争いを望まない人間だっていうことがわかるから」
俺は思わず隣を歩いている男を見た。男の目線は俺をはっきりと捉えていた。争いが嫌いなのかとたずねようとして、間抜けな質問だと思ってやめた。
「君の理想、まだ全部はわからないけど、僕はそれに賭けてみたいんだ」
男の横顔は意志を宿していた。血筋と家柄がすべてを決めるこの国が俺はずっと嫌いだった。けれどはっきりと、腐ったこの国を変えたい、と思ったのは今が初めてだった。
「…………そうか、頼りにする、ウル……」
「ウルフガング」
男は笑った。俺はばつが悪くなり、お前の字、読めないぞ、と仏頂面で言う。よく言われるよとウルフガングは気にする様子もなくほがらかに笑った。
あの時、教室を出る俺を追いかけてきたのがあいつだった。前を行き後ろを行き、今は隣に立っている。きっとこれからも、肩を並べて過ごすことになるという予感めいた思いがあった。 俺が他人に興味を持つのが久しぶりだというジュディスの言葉を思い出す。興味、か。俺はちいさく息をもらして笑い、廊下の窓から空を眺める。雲ひとつない、高く晴れた青空だった。

 


 

シナリオにおけるアシュレイの目上の人間のあしらい方はウルフガングから学んでいるとかだといいなってやつ