その、名を呼ぶ声を

黒が似合うと言ったのは父さんだ。俺はその時、雪の中に埋めた魚を夕食のために取りに行こうとしていたところだった。俺の背中を見ながら父さんは言った。おまえは黒が似合うな、また背が伸びたんじゃないか?
俺はもちろんまだ伸びるつもりだと笑い、ちょっと行ってくるから寒くないようにしていてほしいと言った。父さんは微笑んで手を振った。こんなことばかり覚えているのは、それきり父さんと会うことがなかったからだ。俺が魚を手に家へ戻ってくると父さんはいなかった。夜になって、崖の下から事切れた父さんが見つかった。切れた薪を取りに行き足を滑らせ、崖の上から落ちてきた雪に埋もれてしまったようだった。
気の毒だとか運が悪かったとか、一人息子に寒い思いをさせたくなかったのだろうとか、街の人間たちは好き勝手なことを言った。街の人間にも我慢ならなかったが、俺が一番許せなかったのはこの不条理な世の中だった。薪のストーブなんてものを使っていなければ、父さんが雪に埋もれることもなかった、と思った。

俺は自分の両肩を抱いて震えた。右足をくじいてろくに歩けなかった。軍の食料を調達しに雪山に入り、ゆるんだ雪に足を滑らせた。夜になって吹雪いてきて、瞬きをする度に自分の凍ったまつ毛が音を立てるようだった。
どっちに行けばキャンプの方なのか、もはやわからなくなっていた。肉体よりも気力が萎えてしまい、とうとうその場にしゃがみ込む。俺は父さんのことを思い出した。俺のために薪を取りに行って死んだ父さん。俺も父さんのように死ぬのだと思った。

俺はゆっくり目を開けた。木で造られた見慣れない山小屋で、野菜を煮ているような匂いがする。俺はベッドに横たわっていた。むこうを向いて台所に立っている人影にかすれた声で話しかける。
「ここはどこだ?」
人影が振り返った。背の高い男だった。俺より少し年上に見える。白いセーターがよく似合っていた。
「目を覚ましたか」
男は投げやりに聞こえる声で呟いた。台所から皿を運んでくる。パンとあたたかなスープが載っていた。
「起き上がれるか」
俺はむっくりと上半身を起こした。少しの目眩を感じ、片手で頭を支える。男を見ると、その瞳の奥にかすかに心配そうな色が見えた。
「俺は雪山で、足をくじいて」
「ああ、倒れていたから、俺がここに運んだ」
俺は思わず男を見た。掛布をめくって自分の右足を見る。丁寧に包帯が巻かれていた。
「……ありが、とう」
小さく礼を言うと、俺の腹が鳴った。男が木のスプーンを俺に手渡す。パンは硬くなっていたが、スープは優しい味がした。
外はまだひどく吹雪いていた。時計を見ると、もうすぐ夜明けのようだ。俺は手持ち無沙汰になり、男に話しかける。
「あんたは吹雪の中で何をしていたんだ」
男はかすかに首を傾げ、このところ増えた獣の退治と、おまえみたいに遭難している者がいないか見回っていた、と笑った。ほころんだ目元に、ちいさな泣きぼくろがあった。
「……そうか」
俺は男をぼんやり眺めた。父さん以外に、おまえ、と呼ばれたことが初めてのような気がした。けれど不思議といやな感じはしなかった。
「吹雪が止んだら帰るといい」
男が微笑んで言う。俺はベッドに横になった。男は俺の掛布に手を伸ばし、そっと首もとまで持ち上げた。
「その黒いシャツ、よく似合っているな」
男は目を伏せて、やはり投げやりに聞こえる声で呟いた。俺は苦い郷愁に目が眩みそうになり、強引に目を閉じる。疲労のためかうとうとと眠りに落ちるのにそう時間はかからなかった。

目を覚ますと日が高く昇っていた。俺は山小屋の扉が開けられる音に意識を覚醒させられた。ロザーリアが駆け込んできて、俺の肩を揺すぶった。
「レナート、こんなところにいたの」
俺はロザーリアのあんなに狼狽えた瞳を初めて見たと思った。ベッドから下り、食料を持ち帰れなくてすまなかったと謝る。
「そうじゃないの、皆あなたを心配していたわ、キャンプへ戻りましょう」
俺はロザーリアの背を眺めた。心配をかけて悪かったと小さく謝った。ロザーリアは俺の前を歩きながら、このあたりはもう皇王軍が見回りなんかをしている場所だから、充分気をつけて帰りましょうと感情の読み取れない声で言った。

あれ以来あの男に会うことはなかった。あの山小屋でのできごとは過去となり、時折ふと思い返す記憶になった。世の中はどんどん不平等さを深めていった。いつしか父さんを思い出すとき、俺は同時にあの男を思い出すようになった。雪山で死にかけていた俺を助け、俺が眠っている間にそっと帰っていった心優しい男。俺は懐かしく思いながら、男が心の中に灯る暖かなしるべとなるのを感じていた。

その日はとうとう作戦の決行日だった。皇女と話をするために俺たちは何ヶ月も前から準備をしていた。そっと小屋を抜け出してロザーリアの声のする方を見ると、皇女の隣に白いコートを纏っている男を見た。
俺は言葉がでなかった。見間違えるはずなどなく、雪山で俺を助けたあの男だった。獣のような瞳をロザーリアに向け、散弾銃を派手に撃つ。そこから先はスローモーションのように見えた。地響きが聞こえ、大きな雪崩が三人を飲み込んだ。俺の脳裏にあの男の微笑みがはっきりと映る。次いで雪に埋もれて死んだ父さんの姿が。
俺は男の名を叫ぼうとした。けれど音にはならなかった。男の名前を知らないということに、俺は初めて思い当たった。
地響きが止まる。辺りは一面雪で、静かな鳥の声が聞こえるばかりだった。

 


 

レナドラの幻覚を見ていた頃の