ともだち

ラシェルの元気がない。しばらく前からなかった。それでも普段なら、元気がなくても少しすれば立ち直っていた。干渉をしなければ立ち直れないほど彼女は子供ではないのだし、アルベルトはラシェルの底抜けの明るさを信頼してもいた。けれど今回はそうではないらしかった。ノックの音に扉を開けたアルベルトは驚いて、立っていたラシェルを眺める。今まで夜中にラシェルがアルベルトをたずねたことなんてなかった。
「こんばんは、アル」
微笑んでいるのに目元が腫れていて痛ましかった。入れ、と言うと、ラシェルはありがとうと小さく呟く。こんな風に簡単に夜中に男の部屋をたずねるのは、彼女とアルベルトがお互いに性的興味の介在しない友人だからなのだとアルベルトは思った。アルベルトは女に勃たないし、ラシェルは男に濡れない。つまりそういうことなのだ。

「綺麗にしてるのね、想像通りだけど」
部屋を見渡したラシェルが口を開く。彼女にソファを勧め、アルベルトは台所に立った。
「何を飲む、ココア、ミルク、カモミールティー」
「カモミールティー」
言い、ラシェルは小さく笑い声を漏らす。アルベルトがちらりとラシェルを窺うと、ラシェルもアルベルトを見ていた。
「ぱっと女にその三択を出せるの、本当に満点だわ」
どう返事をしていいのかわからず、アルベルトは黙ってカモミールティーに目を戻した。沸いた水に茶葉を入れ、あたたかな金色に染まる湯を眺める。
「こないだもまた知らない女の子から何かもらってたでしょう」
おもしろがるような声色。ラシェルの前にカップを置き、アルベルトはラシェルの隣に腰かけた。
「そんな話をしに来たんじゃないんだろう」
息をつき、アルベルトはラシェルの顔を見ずに言った。沈黙が下りる。窓の向こうからかすかに犬の遠吠えが聞こえた。
「さっきヴィオラの夢を見たの」
ラシェルはぽつりと呟いた。ヴィオラ、という名前をアルベルトは頭の中で転がす。ラシェルのルームメイトで、親友だったと聞いていた。軍医をしていて、命を落としてしまったと――。
「ショッピングをして、オペラにも行って、二人で一日中遊んで、ああ楽しかったって手を繋いで寝て、明日の朝ご飯は新しくできたサンドイッチ屋さんにしようねって言ったの、起きたら真っ暗だった、今住んでるところのベッドには私ひとりで、サンドイッチ屋さんは燃えてなくなったことを思い出して、これが現実なんだって思ったの」
ラシェルの髪の毛がかすかに震えていた。アルベルトは何も言えず、丸まったラシェルの背にそっと手を置く。ラシェルが小さくしゃくり上げる声が聞こえた。
「こんなことになるなら、ちゃんと好きって言えばよかった」
アルベルトは目を閉じた。友人に好きだと言うのがどれほど難しいことか、アルベルトにはよく解った。
「……泊まっていくか」
こんな時間に女を放り出すことも、ラシェルが今日ひとりの部屋で夜を明かすことも、アルベルトには耐えられそうになかった。ラシェルにしてやれることがあるとすればこのくらいで、それはアルベルトにしかできないということも理解していた。

ラシェルをベッドに寝かせ、うとうとと目蓋を閉じたのを見届ける。空いたふたつのカップを流しに下げ、洗うのは明日にしよう、と考える。クローゼットから掛布代わりの自分の上着を持ち出すと、アルベルトはにわかに疲れを感じた。ソファに横たわって眼鏡を外す。今日はもう寝てしまおう。明日にしよう。そう明日に。明日になったら少しでも、ラシェルの表情が明るくなっていればいい。ぬるい闇がとろんと部屋を満たす。こんなことになるなら、ちゃんと好きって言えばよかった――。アルベルトはラシェルのために胸を痛めた。そうしてそれと同じ分量で、身につまされるような、それが自らの上にも起こりうる現実感を伴っているのがわかった。アルベルトはゆっくり目を閉じる。これが現実なんだって思ったの。こんなことになるならちゃんと好きって言えばよかった。

翌朝出勤すると、ユーグがアルベルトを見てふいと目を逸らした。どうかしたのかと尋ねると、ユーグは声を低める。
「いやいや……まさか君たちがそういう関係だったなんて、君も隅に置けないな、と思っただけだよ」
ラシェルとは時間をずらして出勤した。見られたわけではないはずだ。アルベルトが動揺を悟られまいと返事をせずにいると、リディアがそっとアルベルトに近付いてきて耳打ちする。今朝ラシェルからアルベルトの匂いがしたわ、自分で気付いてないみたいだからラシェルにはまだ言ってない、と微笑む。
「で、いずれは籍を入れるのかい? こんな危ない仕事だし、よく考えてからにする予定?」
片手で頭を抱え、目を輝かせているユーグを横目にため息をつく。リディアに、ラシェルは元気だったか、とたずねる。
「元気かって、あの子はいつも元気じゃない」
リディアは不思議そうに首を傾げた。そうかと返事をしてアルベルトは二人に背を向ける。彼らの誤解を解くことは、今までのどんな任務よりも難しい気がした。もう、大事なことひとつも言わないんだからとリディアの声を聞きながらアルベルトは部屋を出る。仕事に向かおう。終わったらラシェルに声をかけよう。アルベルトにしかわからないように、ゆうべはありがとう、と言うだろう。

 


 

ゲイとビアンの友情