もう一度きみと巡り会う

セラフィーナの十六の誕生日に、僕はふられた。
ゆるんだ雪がきらめく短い春で、僕らは一緒に図書館から帰っているところだった。ちらつき始めた粉雪が彼女の伏せられたまつ毛に積もるのを僕はぼうっと見ていた。彼女が目を上げ、不思議そうに僕を見たとき、僕は思わず彼女の手を握っていた。好きだと声に出すと、今までおぼろだったその感情がふいに輪郭を持った気がした。
ちょっと驚いたあと、ごめんなさい、と彼女は再び目を伏せた。お父さんがひとりになるのは心配だから、というのがその理由だった。彼女は父親とふたりで暮らしていた。つまり彼女は僕よりも父親を選ぶのだと思うと納得できず、お父さんに会わせてほしいと食い下がった。セラフィーナは、いいよ、とちょっと困ったように笑う。十六の娘にそんな心配をさせるなんて、一体どれだけ甘えた父親なのだろう。僕は約束を取り付け、丘のふもとの分かれ道で彼女と別れた。また明日ね、とセラフィーナは微笑む。
「セラフィーナ、誕生日おめでとう」
言うつもりだったのに言えなかったことを言うと、彼女は嬉しそうに笑って手を振った。

彼女は入学当初から目立っていた。点呼の時、名簿をめくって眉をひそめた教師の表情を僕は忘れることができない。咳払いをひとつして、教師は彼女の名を呼んだ。
「はい」
教師の態度を気にすることなく、彼女は涼やかな声で返事をする。生徒たちは彼女をちらりと窺った。セラフィーナなんて、なんとなく不吉な名前だった。二十年前に処刑された皇女と、綴りもまるっきり同じだった。
だから彼女は忌み子なのだとか、両親に愛されていないのだとか、根も葉もない噂が流れた。彼女はそんな噂を一切気にしていないようだった。気にしていないようだったのに、彼女はいつもひとりだった。彼女は本が好きで、放課後はよく図書館にいた。その時は別の学級だったけれど、僕は本を選んでいる時に彼女を見た。校外で見かけるセラフィーナは大人びて見えた。
「セラフィーナ」
彼女は驚いたように僕を見て、それから、ああ、と親しげに目元をほころばせる。一年の時同じ学級だったねと微笑んだ。
「本、好きなの?」
「うん、好き」
僕はこのとき、彼女が同級生から名前で呼ばれることに慣れていないのだとわかった。僕はあさましく、名前で呼べばすぐに距離を縮められると思った。ひとりぼっちで、それを気にしていない彼女が僕は好きだった。

セラフィーナの父親と会う日はすぐに来た。僕らはその日も図書館から一緒に帰っていた。丘に積もった雪が夕陽に照らされる晴れた日で、前を歩いていたセラフィーナが振り返った時は彼女が夕陽を背負っているように見えた。
「今日、お父さんが会いたいって」
僕は自分の心臓がどきんと鳴った気がした。セラフィーナの誕生日から、彼女の父親のことを考えていたが、こんなにあっさりと今日という日が来るとは思っていなかった。
「……ありがとう、僕も会いたい」
僕は自分の胸に静かに闘志のようなものが燃えるのを感じた。甘ったれの父親から、彼女の心を奪い取りたかった。

丘のふもとを西に行くとセラフィーナの家だった。彼女が玄関を開け、ただいま、お父さん、と部屋の奥に向かって声をかける。
「……おかえり、セラフィーナ」
ずり、ずり、と何かを引きずる音が聞こえ、現れたのはひとりの痩せた男だった。上背があるのに、姿勢が悪いせいでそうと見えない。左肘から先はなく、右足も義足のようだった。僕は何も言えずに彼女の父親を眺めた。
「外は寒かったろう、そんなところに立っていないでお入り」
男はセラフィーナに向けてかすかに微笑み、僕に声をかけた。はい、と上ずる声で返事をする。前を歩くセラフィーナの背を見ながら僕は、何を思えばいいのかわからなかった。

リビングに通され、僕はすすめられるまま椅子に座った。何か飲むか、と彼女の父親がキッチンに向かおうとすると、お父さん、私がやる、とセラフィーナが小走りに父親を止めた。
キッチンに向かったセラフィーナを眺め、大儀そうに椅子に座った彼女の父親は目を細める。僕は、この時が早く過ぎればいいという気持ちになっていた。闘志は萎み、居たたまれなさと、勝てるとわかっている戦いを挑んでしまった時のような罪悪感を感じた。
「ラウリさん」
僕は彼女の父親に声をかけた。彼女の父親は僕を見る。レナートでいい、と父親は答えた。深い森の、木々がざわめくような声だった。
「僕はセラフィーナさんが好きなんです、レナートさん」
僕は一息に言った。
「君の話はよく聞いている、君の話をする時は、あの子は安らかな顔をする」
レナートは静かに呟いた。君以外の話は聞かない、本が好きで、友達と遊ぶことが少ないようなんだ、と続ける。僕はレナートの伏せられた目を見ながら、一度は萎んだ闘志が怒りと共にゆらめくのを感じた。彼女に友達はいません、あなたがセラフィーナなんて名前を付けたせいです、と頭の中に浮かんだ言葉を振り払う。
「僕は彼女に一度ふられました……彼女は、あなたがひとりになることを心配しているんです」
レナートは驚く様子もなく息をもらして笑った。僕はそっとレナートの不自由な身体を窺う。セラフィーナがいなくなった後、この男がひとりで暮らしているのを想像した。雪が積もる日はどうするのだろう。風邪なんかをひいたら死んでしまうのではないか。セラフィーナのいない朝もひとりで起きて湯を沸かして、静かな丘にかすかに響く、義足と反対側の足を引きずる音……。
「気になるか?」
僕はふっと現実に返った。レナートと目が合い、気まずくなって目を逸らした。
「先の内乱でなくしてしまったんだ、君のような若者にはあまりぴんとこないだろう」
彼はひっそりと笑った。肉体のほかに、レナートがなくしたものがまだある気がした。
セラフィーナがキッチンから出てくる。春なのに、まだお湯が沸くの時間かかるね、と彼女は笑った。テーブルに三人分の紅茶を並べ、どうぞ召し上がれと微笑む。手のひらの中のあたたかな茶色を眺めながら、僕は胸に残った消化しきれない苦いものの存在を感じた。

僕はすっかり戦意を失って帰るはめになった。セラフィーナはキッチンで後片付けをするらしい。レナートに見送られながら、よかったらまた来てくれ、と彼の言葉を聞く。
玄関に飾ってある写真にふと目がとまった。図書館の前で少年と少女が写っている。少年はレナートのようだったので、僕はなんとなく気になってレナートに声をかける。
「この人は、セラフィーナさんのお母さんですか」
レナートの纏っている空気がふっと硬くなった。返事がないので、僕はレナートを見た。
「……いや、その人は、セラフィーナだ、俺の大切な……」
レナートの表情は暗い淵に沈むようだった。僕は何がなんだかわからずレナートを見つめる。キッチンから出てきたセラフィーナが、また学校でね、と手を拭きながら声を出す。僕はセラフィーナに手を振り、玄関を後にした。

辺りはすっかり暗くなっていた。やわらかな雪を踏みしめながら、僕は白い息を吐く。
セラフィーナの十七の誕生日には、彼女の心を動かすことができているだろうか。
粉雪がちらつき始め、僕は空を仰いだ。平和なこの国の夜空は、高く澄み渡っていた。

 


 

if未来捏造 ノベルゲーのバッドエンドじゃないんだからっていうね