ラブコメ

意識の遠くで呼ぶ声がする。ラシェルは大きく伸びをして、二、三度瞬きをした。ぼんやりする頭で辺りを見渡す。見慣れた自分の部屋で、隣でラシェルを呼んでいる男も見慣れた人間だった。
「ラシェル……、責任を取る」
青ざめた表情の見慣れた男――アルベルトは裸だった。ラシェルは自分がゆうべ何をしたのかようやく思い出す。楽しいからもう少しからかってやろうと思い、女の子だったら考えている名前があると囁いた。アルベルトはベッドサイドに置かれた自分の眼鏡をかけ、眉根を寄せて片手で頭を抱えた。

初めはほんの些細な言い合いだった。ふたりで酒を飲んでいた。女性を抱くことが得意ではないというようなことをアルベルトが言い、ラシェルはぷっと吹き出してじゃあ男性なら抱けるのかとたずねた。アルベルトはややむっとして、そうではないと答える。そこから先は売り言葉に買い言葉で、得意にさせてあげるわ望むところだと気付けばベッドの中で朝を迎えていた。
けれどラシェルの記憶では、ゆうべはちゃんと抱かれていない。彼が挿入できる状態にならなかった。それでも朝になって狼狽えるアルベルトがなんとなく可愛らしく、ラシェルはそのことを黙っていた。

アルベルトがラシェルの家で暮らすようになって一ヶ月が過ぎた。ラシェルは朝起きると食事のできている生活を生まれて初めて味わっていた。今日は非番なので早く起きなくてもいいのだが、だらだら寝ているとアルベルトが怒るのだった。
「ラシェル、もう朝だぞ」
「ふあ……休みなんだからもう少し寝かせてよ」
「飯ができている」
ラシェルはのろのろと上半身を起こした。アルベルトの作る食事は文句なくおいしい。今日はなんだろう、と思いながらベッドから下りる。
「顔を洗ってくるといい」
アルベルトはかすかに微笑んだ。起き抜けの化粧をしていない顔を見られることにも慣れた。アルベルトは必要のないことを言わない人間だったので、眉毛がないとかクマができているとか――内心思っているのかもしれないが――いやな指摘をすることもなかった。
今日は焼いたパンと目玉焼きだった。頬張りながら正面に座っているアルベルトを見る。目が合うと、今日はどこかに行かないかと呟いた。
「どういう風の吹き回し」
「……二人で出かけることがなかったからな」
「いいわね、楽しみ」
ラシェルは笑った。なんとまあ、律儀な男だろう。どう高く見積もってもラシェルの好きなタイプではなかった。乱暴にされることが好きだし、少しくらい雑に扱われてもラシェルは平気だ。けれどアルベルトがそんなことをするとは思えない。ラシェルは少しの物足りなさと不思議な胸のあたたかさを感じながらパンを咀嚼した。

アルベルトがラシェルを連れて行ったのは花壇のある公園だった。心地よい風に目を細め、アルベルトはたずねる。
「体調はどうだ」
「なんともないわ、生理は来てないけど」
アルベルトはちょっと驚いてからうつむいた。面白いからからかうつもりだったはずなのに、ラシェルはかすかに悪いことをした気持ちになり、でもちょっとくらい遅れることもある、と付け足した。
「そういうものなのか」
アルベルトは真面目そのものといった表情で頷いた。ラシェルはふいにアルベルトが愛おしくなり、そっとアルベルトの左手を取る。アルベルトがラシェルを見つめた。
「何を」
「手を繋いだことがなかったからな」
アルベルトの口調を真似てラシェルが言うと、アルベルトはきまり悪そうに空いている右手で眼鏡を上げた。ラシェルは、こういう遊びも意外と悪くないと思った。ラシェルがアルベルトの子を孕んでいないことに、アルベルトが気付くまでのささやかな遊び。果たしてアルベルトはそれに気付いたときなんと言うだろう。騙していたなと怒るだろうか。怒られることは好きだったけれど、アルベルトを傷付けるのは本意ではない気がした。

アルベルトがラシェルの家で暮らすようになって三ヶ月が過ぎた。ラシェルの肉体は健康にリズムを刻んでいた。潮時を感じ、ふたりで寝ているベッドの中でラシェルは口火を切った。
「ねえ……、ほんとはね、お腹の中には誰もいないの」
アルベルトはラシェルを見なかった。聞こえていないのか、横たわったまま壁の方を向いて背を丸めた。
「聞いてる?」
ラシェルが重ねてたずねると、アルベルトはくぐもった声で呟いた。ラシェルは、彼は半分寝ているのだと思ったが、低い声が明瞭にラシェルの耳に届いた。
「俺がおまえと暮らしているのを、本当に責任を取るだけのためだと思っていたのか?」
ラシェルは驚いてアルベルトを見た。アルベルトは振り返り、気だるげにラシェルを眺める。
「あまり男をなめるものではない」
ラシェルは顔から火が出るのを感じ、アルベルトの頬を張った。アルベルトは怯む様子もなくずり下がった自分の眼鏡を上げる。ラシェルはうつむき、じゃあ言うことがあるでしょうと震える声で呟いた。アルベルトはふっと息をもらして笑った。
「ラシェル、俺と一緒になってほしい」
ラシェルは返事をすることができなかった。からかって遊んでいただけのはずだったのに、これは一体どうしたことだろうと思った。好みなんかじゃなかったはずなのに、この気持ちは一体どうしたことだろう。

 


 

ヴィオラの存在を知る前に書いた アルラシェがビジネスライクに寝ることがあると思っていた