ナサニエル・アボットの見る夢は

「たんじょうび」
「そうだ、ママのだ」
小さく首を傾げたジャスティンを僕は見つめた。誕生日という言葉を初めて聞いたのか、僕を見上げてにっこり笑う。こいつは昔から、自分の知らないことに出会うと嬉しそうに笑った。こいつがもっと小さい頃は、知らないことを知るのが嬉しいから笑うのだと思っていた。けれど今はにこにこ笑えば周りの人間が教えてくれることを知っているから笑うのだと思った。
「僕はママのお仕事の役に立つものを探しに行く」
今から? と問いかけるジャスティンに背を向け、そうだ今からだ、と答える。日はちょうど空の真上にあり、これだけ時間があれば夕方までには見つかると僕は思った。
水を汲み、肩から掛けるかばんに水筒を入れる。出かける準備をしてしゃがんでいる僕の背中に体重がかかった。後ろを向くと、泣き出す直前の顔をしたジャスティンが、おにいちゃん、と声を出した。
「お前も来るか?」
「行く!」
ジャスティンはぴょんと飛び跳ねた。こいつに留守番なんてできないだろうと思った。僕はジャスティンの右手を握る。鍵もかばんに入れて、玄関のドアを引いて外に出た。

昔はパパもいた。あまり覚えていないけれど、ママとは違う大きな手のひらはよく覚えている。その頃日に日にお腹が大きくなっていたママが、ある時から家に帰ってこなくなった。ママは、とおそるおそる尋ねると、パパはしゃがみ込んで僕の頭に手を置いた。ママはじきに帰ってくる、帰ってきた時はおまえの弟か妹も一緒だよと微笑んだ。それからはパパとおまえで家族を守るんだ、と僕に教える声は優しかった。うん、と僕は頷いた。
けれどママと弟が帰ってきてすぐにパパは死んだ。弟を産んだからというだけではなくママは痩せた。きれいだったママの髪はぼさぼさになった。ジャスティンという名前の弟はよく泣いた。火が付いたように泣くジャスティンを抱いて静かに涙を流しているママに駆け寄り抱きつく。パパとおまえで家族を守るんだ、と優しい声が耳の奥で響いた。
ママは僕の存在にようやく気付いたような目で僕を見た。泣くもんか、と思いママを見上げる。今僕が泣いたら、ママの支えになることなんてできないと思った。ママは僕を力いっぱい抱き締め、ごめんね、とささやいた。
ありがとう、ナサニエルに救われたわ、とママは静かに笑った。うつむくと、僕の目からこらえきれずに涙が流れた。こんなに満ち足りたことを、僕は他に知らない。

ご機嫌なジャスティンの右手を引きながら、僕は舗装されていない道を歩いた。おにいちゃん、たんじょうびってなに、と笑う。やっぱり知らなかったんだなと思いながら、生まれた日のことだと僕は答える。
「どうしてうまれた日にものをあげるの」
「その人が生まれてきて嬉しいからだよ」
「ぼくママにきれいなビー玉あげる。ぼくの宝物だから」
「宝物って何か分かって言ってんのか」
わかってるよ、とジャスティンは頬を膨らませた。僕は隣のジャスティンをちらりと窺う。ママがおにいちゃんとぼくに思ってることだよとジャスティンは呟いた。
「ナサニエルとあなたがママの宝物よってだっこの時言ってる」
僕は返事をできずにジャスティンから目線を外した。今日も暑い日だった。舗装のされていない乾いた道はまっすぐ伸びていて、遠くの方は空気が揺らめいている。左手に握っているジャスティンの手が汗ばんでいた。
「……それでね、おにいちゃんのたんじょうびには二つ目の宝物のセミのぬけがらあげるね」
「……お前の宝物、なくなっちゃうぞ」
少し考えてから、そうだね、とジャスティンはへらっと笑った。僕はかばんの中から水筒を取り出す。ジャスティンのこめかみに汗が伝っていた。蓋になっていたコップにぬるい水を注いでジャスティンに手渡すと、ジャスティンはおいしそうに水を飲んだ。ナサニエルとあなたがママの宝物よ。おにいちゃんのたんじょうびには二つ目の宝物をあげるね。

赤い夕陽が沈みかかっていた。ママへのプレゼントを見つけられずに半日歩き回り、僕とジャスティンはくたくただった。すっかり言葉少なになってしまったジャスティンは、それでも泣くことなく僕の左手を握り歩いていた。ママにあげるものを見つけなければ帰れないと僕は思った。
おにいちゃん、とジャスティンが小さな声を出す。ここはどこ、と不安げに言うので、僕は立ち止まり辺りを見渡した。見慣れない景色で、どっちに行けば家の方なのかわからなかった。
僕は怯えた。小さい頃に読んだ本の、迷子になった兄弟が魔女に食べられる話を思い出した。僕が返事をしないので、ジャスティンがべそをかき始める。油断すると僕も泣いてしまいそうだった。ママとジャスティンを守るって、パパと約束したのに。情けなさにぎゅっと目をつむると熱い涙が流れた。
上り坂の上の方から、君たちどうしたのと声が聞こえた。僕は目を開ける。記憶の中のパパくらいの年齢の男の人が僕に笑いかけた。歩み寄る彼の少し後ろの方に、女の人とジャスティンよりも小さな男の子も見えた。
「あの……」
僕は夕陽を背負うようにして歩く男の人に何かを言おうとしたが、感情がもつれて上手に言葉にならなかった。水筒の水はとうに飲み干してしまっていて、喉もひりつくような渇きに痛んだ。
「おうちはどこかな」
静かで優しい声に、ジャスティンが泣き止む。僕は突き動かされるように家の住所を口にした。ああ、それなら向こうの方だよと男の人は坂の下の方を指差す。
「兄弟? よく似ているね、気を付けて帰るんだよ」
僕は男の人にお礼を言おうとした。くちびるを震わせると、みじめに空気が漏れた。
「よく頑張ってるね、弟の手ちゃんと握って、えらいね」
僕は我慢できずにとうとう声を上げて泣いた。驚いた様子の男の人を視界の外れに見ながら、宝物という言葉の意味を考えていた。ジャスティンが僕の左手をぎゅっと握る。ママとジャスティンが、僕の宝物だった。

「ナサニエル、ジャスティン、おかえりなさい、冒険していたみたいね」
玄関先でママは穏やかに笑った。ジャスティンがぴょんとママの腕に飛び込む。
「あのね今日ね、ママのたんじょうびだからね、ママにあげるものをさがしてたの」
「ジャスティン!」
僕は恥ずかしさに胸のあたりがひやりとした。結局プレゼントを見つけることはできなかった。ママは一瞬きょとんとして、そう、覚えててくれたのね、と笑った。
「ママ、でも僕たち何も見つけられなくて」
ママは微笑み、僕の後頭部に左手を回した。顔を埋める形になった二の腕の皮膚はやわらかく、ふわりといい匂いがした。
「ナサニエル、あなたは思いつめすぎるわ、あなたたちが今年も一年、元気で仲良く暮らしてくれればそれが一番の誕生日プレゼント」
しみじみと言ったママの声が、僕の乾いたところにやさしい雨のように沁みた。僕はぎゅっとママの服を握る。
「ひとりでママとジャスティンを守ろうなんて思わなくていいのよ、私たち三人は家族なんだから」
「ママ」
僕は口を開いた。呼んだ声は切羽詰まって響いた。
「…………だ、だっこ……」
ママは笑って僕を両腕で抱き締めた。ジャスティンが僕の背中にぎゅっと抱きつく。パパが死んでからはりつめていた心が、ゆっくりと解きほぐされるのが分かった。僕はこの温かさを、きっと生涯忘れないだろう。

 


 

過去捏造 ナサニエルの存在しんどくて無理