ヴァレリ・ドラーク 好きなもの:平穏な夜 嫌いなもの:目立つこと

廊下に敷かれた絨毯は、歩いているだけなのに踏みしめる感覚を足の裏に残す。王宮の床を歩くことにドラークは未だ慣れない。国を白く覆う雪とも、もちろんドラークが今までいた村や街とも違う。ここは身分のある人間の暮らす場所なのだと、否が応にも思い知らされる。ドラークは身分のある人間ではない。けれどついこの間、この国の皇女と、文字通り命と引き換えに約束をしたのだった。あなたは今日から私の護衛官です、務めて下さいますね? ヴァレリ・ドラーク中尉――。
ドラークは立ち止まり、窓の外を眺めた。高く澄み渡る空には星が瞬いている。ドラークはここに来てから、夜になってようやく呼吸ができる気がしていた。皇王軍の目配せやさざめくような囁き合いを感じ取れないほどドラークは幼くなかったし、自分に向けられている悪意に声を上げるほどドラークは愚かではなかった。

王宮にいる皇王軍といえばいわゆる精鋭だった。顔合わせを済ませたのは二週間前で、ドラークはその時、現実感のない、薄い膜の向こうの出来事を眺めるような気持ちだった。皇女付きの護衛官だ、愛想はないが射撃の腕は一流だぞと近衛隊長に背を叩かれた時も、自分が発言を求められていることに気付くのにしばらくかかった。よろしくお願いしますとようやく口にすると、まばらに拍手が起こった。
ひょっとするとこれは現実ではないのかもしれない。自分はあの冷たい牢で正気を失って、皇女も今ここにいることも、全て自分の妄想なのかもしれない。そんなことを考えていた。

「ドラーク」
空を眺めていたドラークは声のする方を振り返った。少し離れたところに、ネグリジェを身に纏っている皇女が立っていた。ドラークはその場に跪いた。
「よいのです、畏まらないで」
かすかに笑みを含んだ声で、皇女――セラフィーナは言った。はっ、と返事をして立ち上がると、セラフィーナも窓の向こうの空を眺めていた。
「今日は空気の澄んだ夜ですね」
セラフィーナが言う。ドラークはちらりとセラフィーナを窺った。セラフィーナもドラークを見ていたので目が合い、気まずくなって目を伏せた。
「……眠れないのですか?」
ドラークが小さくたずねると、セラフィーナは、いえ、と囁くように言った。
「ドラークのことが気がかりで、探していたのです」
ドラークはどう返事をしていいのかわからず押し黙った。少しの距離を保って窓の外に目線をやったまま、セラフィーナは小声で呟く。
「慣れましたか? 不便なことはありませんか」
「問題ありません、皆よくして下さいます」
ドラークは静かに言った。セラフィーナの表情の奥に不安げな色が見えたので、少女を安心させるために微笑みかけた。セラフィーナは、それならよいのですが、とささやく。
「ねえ、ドラーク、そんな風にだって笑えるのに、普段はどうしてあんな表情をしているのですか」
ドラークは驚いてセラフィーナを見つめた。
「……普段の小官はおかしな顔をしていますか」
「どこにも寄る辺のない、ひとりぼっちの人間のする表情をしています」
セラフィーナの横顔は聖母のような慈しみをたたえていた。この少女の中の、あたたかな感情の湧き出る泉を想像した。ドラークは情けなさと恥ずかしさでいっぱいになる。その感覚は昼間にセラフィーナの少し後ろを歩いている時の居心地の悪さを思い出させた。ほらあれが皇女付き護衛官だ、ああ、あれが……。あんな田舎者の若造が一体どうやって皇女殿下に取り入ったんだ……。
セラフィーナがドラークの目元に手を伸ばす。ドラークは、自分はまたこの少女に救われたのだとぼんやりと感じていた。セラフィーナが、天の啓示のようにやさしい声でささやく。
「ドラーク、約束をして下さい、あんなに悲しい表情をもうしないこと。あなたはもう、ひとりぼっちではないのです」
ドラークはぎゅっと目をつむった。はい、と震える声で返事をする。命も、心でさえ、セラフィーナに救われてしまった。ドラークはこの夜が、自分の胸に輝くしるべになることを理解した。誰に何を言われても、自分は皇女付きの護衛官だ。窓の外を見ると、高い空にはあふれるほど星がきらめいていた。

 


 

エリート皇王軍に後ろ指さされるドラークに夢見ていた