下半身不随ネタ

いかないでくれ、と呟いた声は震えていた。俺は今まで自分の声というものを意識して聴いたことはなかったが、今回は、震えている、とはっきりわかった。口の中がからからに渇き、ひどい頭痛がする。おまえはもう一度、はっきりと言った。
「いいえ、さようなら」

昨日、つい昨日まではおまえはそんな素振りなど見せなかったのに。俺たちはおまえのつくった朝ご飯を食べ、その辺りを散歩した。俺からはおまえの表情は見えなかったが、いつもの通り穏やかなのだろうと俺は信じていた。夏の始まりの緑は猛々しく、少し暑いなと呟いたらおまえは木陰で止まってくれた。俺が、すまん、と言うと、おまえはまつ毛を伏せてうすく微笑んだ。

悪い夢を見て夜中に目を覚ました時、月明かりしか差し込まず暗い部屋の中でおまえの名前を呟こうとして俺は息を呑んだ。感覚が遮断された部分が、ひどく痛んだ。真夏だというのに寒く、俺は自分の両肩を抱いて震えた。階段を軋ませ降りてくる音が聞こえ、俺はもう一度おまえを呼ぼうとしたが恐ろしくて声が出なかった。
「どうかしましたか?大きな音がしましたけど」
おまえは眠たげに目をこすっていたが、やがて俺を見て言った。
「やだ……ひどい汗」
今タオル持ってきますね、と言って台所に行こうとしたおまえの服を思わず俺は握った。不安げに俺を見下ろす大きな瞳。おまえはしゃがみ、俺の手を取った。そうしておまえは天の啓示のようにうつくしい声で、大丈夫ですよ、と言った。
「足が、ちゃんと動いて、俺は魔物と戦って、それで」
おまえの表情がさっと翳る。俺はおまえの顔を見つめた。おまえは視線を外し、小さい声で、そうですか、と言った。

俺は、ずっとつきっきりで世話をしてくれるおまえに、死んでしまうほどの申し訳なさと、その申し訳なさと同じくらいの好意を抱いていた。今になって思えば、おまえを神格化してしまっていたのかもしれない。ハントマンとして冒険していた頃は、控えめで目立たず、ほんの子どもだったおまえ。そんなおまえに恋焦がれる日が来るなど思いもしなかった。俺は口元を歪める。苦しかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」
おまえの泣き声が意識の遠くで響いている。また注射の失敗でもしたのだろうか。おまえは治癒士としてあまり出来のいい方ではなかったから。俺は夢の中で、泣くな泣くな、とおまえの頭に手を置いた。呟いた声は端から泡となって反響する。おまえはなおも泣き続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、全部私のせいです」
おまえの涙は嘘のようにうつくしかった。俺はおまえが子どもだからうつくしい涙を流すのだろうと思った。大人しいおまえをそんなに悲しませているなんて、いったいどういう人間なのだろう……。俺はおまえが自分の名前を呼んだ気がして、ゆっくりと目を開けた。
俺をじっと見つめている碧の瞳。浮かんでいる表情はまぎれもなく恐怖だった。俺はおまえの名前を呟く。
「そんなに泣くんじゃない」
おまえはぼろぼろと涙をこぼした。消え入りそうな声でまた、ごめんなさい、と言う。俺は夢の中でしたようにおまえの頭を撫でようとして、自分の身体がベッドに固定されていることに気付いた。手でバンドを外して立ち上がろうとすると、足が動かない。医者が部屋に入ってきて、ああ、動かないでください!と叫んだ。医者はすっかり怯えて固まっているおまえを気の毒そうに見やり、俺のバンドを固定した。俺はなにがなんだかわからずに医者を見上げる。医者はちらりと俺を見て、言いにくそうに言った。
「あなたの下半身は、もう動きません」

俺は気付かなかった。おまえの心はあの時のままだと思っていたのだ。人の心は移ろい変わっていくものなのに……。俺は愚かだった。子どもだったおまえはいつの間にか背も伸び、何でもできるようになって俺のもとから離れていく。

「責任を取らせてください」
意思的で、ある種もの悲しいような目をして俺の面倒をずっとみると言ったおまえ。冬の初めで、窓の外には枯れ木が風に吹かれていかにも寒そうだった。俺は、ああ、とも、うう、ともつかない返事をした。おまえは、俺の足の代わりに自分の未来を差し出すと言ったのだ。それが理にかなっているかかなっていないか、その頃の俺にはまるでわからなかった。仕方ないことだったとはいえ、急に身体の自由を失った俺は混乱して、絶望していた。

いかないでくれ。もう一度言った。車椅子を自分で動かし、いつかのようにおまえの服の裾を握る。小さな子どもにでもなったような気持ちだった。なぜだか子どもの泣いているおまえが脳裏に甦り、その姿に車椅子の俺が重なる。それでは、大人のおまえは俺の頭を撫でてくれるのだろうか……。俺が恐る恐るおまえを見上げると、死んだ犬でも見下ろすような目をしたおまえと目が合った。俺はその瞳の冷たさに息を呑み、ゆるゆると裾を握っていた手を離す。
「お元気で」
ドアを開けるおまえの姿がゆらゆらゆがみ、俺は自分が涙を浮かべていることに気付いた。一筋頬を伝い、またおまえの姿がはっきりする。おまえは俺の頭に手を置き、完璧な後ろ姿で去っていった。

 


 

多分2010年頃 ナボコフのロリータみたいだな