こんな所に人が生きてそして死んだ話


 三時に目が覚めた。半分開けている窓から入り込む風を頬で受け止め、カミヤは上半身を起こす。暗い室内には隅々まで夜の気配が満ちていて、自分と夜の境界線がわからなくなる、と思う。
 隣にいるケンゴも目を覚ましているのが分かった。右手でケンゴの肩のあたりに触れる。おはよう、と息をもらすようにしてささやいた。この人は眠っていないのかもしれない、とカミヤは思った。
「……仕事行く」
 うん、とケンゴはむこうを向いた。幼い頃、ケンゴは父だった。やがて兄になり、今は同居人だった。カミヤは小さく息をつき、夜と自分を分かつべく立ち上がる。

 外はもう朝のにおいがした。斜め前の露店の老人と目が合い、小さく会釈をする。浅黒い肌に刻まれた皺をわずかに深くして老人は返事をした。薄暗い路地を進み、郵便配達の青年が違う人になっているのを見る。今度はカミヤより少し上だろうか。見たことのない顔なのでよそから来た人だろう。少しずつ動き出す人々の気配を感じながら水たまりを飛び越えると、目の前に人影が現れた。
「待ち合わせは墓場だったっけ」
 左腕の無い男がカミヤを見下ろしていた。大人達が、ウデナシ、と呼んでいる男だった。二つ目の鉄塔だよと返事をすると、ウデナシはふらふらと引き返して行った。駅だよと言う時もあるし変電所の方だよと言う時もある。黙ってカミヤの横を通り過ぎる時もあるし二言三言会話が続く時もある。害があるわけではないし、大人達もみな同じように返事をしていた。
 店の裏口から入ると、早えな、と店長が目を上げた。俺は今来た所だよ、とぼやく。
「……何か手伝えることがあるかと思って」
 へぇ、と店長は口角を上げた。ケンゴとはあまり似ていないが、この人はこの人でいい人だ、とカミヤは思っていた。冷蔵庫を開け、今日は肉を捌いてみるかと呟いた店長の背中に、はい、とカミヤは返事をした。

 仕事を終えて家に帰ると、ケンゴが窓際でうとうとしていた。開け放したままの窓を閉め、おはよう、と声を掛ける。
「……おはよう」
 ケンゴはぼんやりと呟いた。さっき降った雨の匂いが室内に入り込んでいた。
「雨が降ってたね」
「もう止んだよ」
 そうか、とケンゴは小さく笑った。この人は落ちぶれてもどことなく気品のようなものがある、とカミヤは思う。
「ご飯あるよ」
 カミヤは鞄から紙袋を取り出した。捌いた肉を店長が少し包んでくれたのだった。わあ、と頬を緩めるケンゴを見て、カミヤは胸のあたりが温かくなるのを感じる。

 退廃地区とか、貧民街とか呼ばれていることをカミヤは最近知った。そういう風に言うのは店で食事をしていく人達で、みな駅に向かうようだった。三つ先の駅に大きな市場ができたのだと身なりのいい客が話していた。退廃地区って何ですかと店長に聞こうかと思ったこともあるが、口にした時の客の表情を見て良い意味ではなさそうだったのでやめた。
 鶏肉を口に運ぶケンゴを眺める。ケンゴとは九つの時から一緒に暮らしている。それより前のことを殊更思い出すことは無いが、カミヤにとっての家族はケンゴだった。
 昔、ケンゴは格好良かった。ちゃんと働いていたし、ご飯も作ってくれた。けれどいつからか横顔に影が差すようになった。仕事に行っているのかそうでないのか、カミヤは今日まで訊ねられていない。
 晴れてきたね、とケンゴの声が耳に届いた。カミヤは現実に返ってケンゴの方を見る。ケンゴが窓を開けて両手を外に出していた。
「……外行こうかな」
 カミヤは呟いた。床に就くまでケンゴと二人でいるのは気詰まりだった。行ってらっしゃい、気を付けて、とケンゴは穏やかに言った。

 瓦礫や廃材を踏み越え、階段を上る。人が住んでいるのかいないのか分からない建物の屋上にたどり着き、カミヤは仰向けに寝そべる。赤紫に藍を流し込んだような夜の向こうにかすかに星が見えていた。ぬるい風が頬を撫でるのを感じながら、ようやく呼吸ができる心地で目を閉じる。
 ケンゴはよそ者らしかった。この辺りで生まれた人とよそから来た人がいること、他の場所から色々な人が流れ着くこと、そんなことをカミヤは店で働くようになって知った。むやみに人のことを詮索する人は少なかったし、聞かれてもはぐらかす人も多かった。
 カミヤはここから出たことがなかった。店はそういう人が多く、不器用ながらも気にかけてもらっているのを感じていた。よそ者を良く思っていない人もいるし、特に気にしない人もいる。いろいろだ。
 背中がじわりと汗ばむのを感じ、息を吸って目を開ける。昼よりは涼しかったが雨が降ったせいか空気が湿っていた。ケンゴはいま具合が悪いのだ、とカミヤは思っていた。自分が働いているのだし、それでいい。のろのろと立ち上がり、屋上の端の方に行って下の景色を眺める。トタン屋根や伝った電線の間から橙の灯りが漏れていた。カミヤはたまに、この場所が自分そのもののような気がする、と思うのだった。

 最後の客が帰ると夜遅くを回っていた。油と煙のにおいが染みついたエプロンで皿を洗った手を拭う。入口を閉めていた店長が、お前んちの男をテラで見たぞ、と呟いた。
「兄貴か」
「血の繋がりはないです」
 へぇ、と店長は返事をした。テラというのは外れの方にある白い建物だった。よそから来た老婆が本を配ったり、子供に食べ物を食べさせたりしていた。
「あんな所で何してんのかね」
 カミヤは押し黙った。テラに入ったことはなかったし、ケンゴがテラに行っていることも初めて知った。厨房の棚から煙草を取り出し、椅子に腰掛けて深く息を吐く。カミヤが何も言わないのをどう受け取ったのか、まぁいいけどよ、と店長はくぐもった声で呟いた。
「……閉めてくから、上がっていい」
 はい、と返事をしながら店長を盗み見る。下を向いた眉間に皺が寄っていて、テラを良く思っていないのか、ケンゴがテラに行っていることを良く思っていないのだとカミヤは思った。裏口から外に出ると、路地に座り込んでいる大人にウデナシが話しかけているのが見えた。

 家に帰るとケンゴが台所に立っていた。ご飯あるよ、と微笑み、黒パンとスープをちゃぶ台に置く。ぐうと自分の腹が鳴るのがわかり、カミヤはきまり悪くなって目を逸らした。
「……お腹すいた」
 うん、とケンゴは返事をしてちゃぶ台の前に座る。カミヤが座るのを待っているケンゴを見て、この人と自分は違う人間だ、とぼんやり思う。

 建物のあいだに垂れている電線を眺める。昔あの電線を伝って向こうの建物に行けないかと考えたことがある。その時は建物の入口を入った所にいた大人と目が合ってやめた。随分小さな頃のことだ。
「夜だね」
 隣を歩いているケンゴが朗らかに言う。夜だね、とカミヤは返事をした。電線の向こうの空はもう少しで朝になる夜で、街はひっそりと寝静まっていた。
「帰るまでに暑くなっちゃうね」
 今日のケンゴはご機嫌だ、と思いながらカミヤはケンゴを見上げる。お風呂に行こうかと言うので、食事の後に外に出たのだった。
「手、つなぐ?」
「……やだよ、暑い」
 そうか、とケンゴは頷いた。この人はいつまでも自分のことを子供か何かだと勘違いしている。店の人がケンゴをテラで見たってさ、と口を開きかけたが、店長の眉間に皺が寄っていたことを思い出してやめた。
「昔さ、あの電線にぶら下がって向こうの建物に行こうとしたんだ」
 うん、とケンゴは返事をした。街はしんと静まり返ったままだ。
「それでこっち側の建物に入ったら、大人が仰向けに寝てて、その人が目を開けておれを見たから出てきた」
 ふうん、とケンゴは電線を眺め、やんちゃだったんだね、と神妙に頷いた。うん、とカミヤは返事をする。この人と自分は違う人間だが、それでも自分はこの人が好きだ、と思う。