こんな所に人が生きてそして死んだ話


 その日はケンゴがいなかった。早くに目が覚めてどこかで時間を潰しているのだろう、と思いながら薄明るい窓を眺める。駅の方の本がある店かもしれない。ケンゴは文字が読めた。
 仕事まで何をしようかと考え、建物の屋上に向かった。昔は暗くなるまで外をうろうろしたり、近くで出会った子供と遊んだりしていた。この辺りの子もそうでない子もいた。あの子達はどこに行ってしまったのだろう、とカミヤは不思議な感慨を抱いた。

 階段を上りきると、屋上の端の方に少女が座っていた。人がいることは今までなかったので、カミヤは内心驚きながらそっと近付く。膝に抱えた紙に何か書いているようだった。
 少女が描いているのは街の絵だった。夜の方が見るもんあるぜ、と声をかけると、少女は驚きもせず振り返る。
「あなた綺麗ね」
 少女の眼差しはカミヤをはっきり捉えていた。カミヤは面食らって黙り込む。絵の具を溶いた皿に筆を浸し、再び紙に目を落として手を動かす。
「……この辺の子じゃないだろ」
「ええ、住んでるのは大通り」
 でもこの辺りは綺麗、と手を止めないまま続ける。少女の見ている方を眺める。錆び付いた屋根と電信柱が連なっていた。綺麗ねぇ。カミヤは頭を掻き、仕事はないの、とたずねる。
「学校に通ってる、仕事は……させてもらえるか分からない」
 平坦に聞こえる声で少女は言った。返事をしかねていると、この辺に住んでいるの、と街の方に目を向けたまま少女は口を開く。
「そうだよ、昼から仕事なんだ」
 あの辺り、と屋上から店のあたりを指差す。へぇ、と少女は手を止めて立ち上がった。
「何をしているの」
「料理作ったり、皿洗ったり」
 カミヤは少女の横顔を眺める。同じくらいだろうか。少し年下かもしれない、と思いながら、なんていうの、と訊ねる。
「メイ」
 少女はカミヤを見た。まっすぐな瞳にカミヤは思わず目を逸らす。
「……おれはカミヤ、気を付けろよ、帰り」
 ええ、と返事をして、メイは再び屋上に座り込んだ。筆を動かし始めた彼女をしばらく見てカミヤは屋上を後にした。日が高くなり始めていた。

「そこの屋上に女の子がいた」
 ちゃぶ台で開いた冊子を読んでいるケンゴが目を上げる。ふうん、と頷き、この辺の子? とたずねる。カミヤは首を横に振った。
「大通りに住んでるって、おれを見て綺麗だって」
 ケンゴはじっとカミヤを見た。立ち上がり、カミヤの後ろに回り込んで背中側からシャツをたくし上げる。
「カミヤは前から骨がきれいだな」
 真面目そのものといったケンゴの声。背骨に触れるかさついた体温に、カミヤは居心地悪く目を伏せた。
「……骨のことじゃないと思うけど」
 そうか、とケンゴは笑った。後ろに手を回してシャツを下ろし、テラに行ってんの、とたずねる。たまにね、と背後で響くケンゴの声にカミヤは俯く。テラで何をしているのか、仕事には行っているのか、そんなことを訊ねることはできなかった。
「なに読んでんの」
 それで代わりにそう訊いた。内緒、とケンゴは微笑み、文字読んでみる、と続けた。
「……いい、明日も仕事だし」
 ややむっとして呟く。呑気なもんだと思いながら、でもケンゴが元気そうだと安心するのがわかった。ご飯つくる、と言いながら台所に立つと、俺がやるよ、と後ろでケンゴの声が聞こえた。

 木で造られた白い扉を開ける。中は薄暗く、ひんやりとしていた。ケンゴがいたらどうしよう、と思ったが、子供が二、三人いるだけだった。
 奥の方に座っていた人影が近付いてくる。紺色の布を頭から被っていた。老婆だと聞いていたけれどまだ若く、大柄な女だった。
「……あなたのことね」
 カミヤを見て目元を緩め、冊子とパンを手渡す。返事をできずに受け取ると、女の衣服から香水の匂いが漂った。
「ここにケンゴが来ていますか」
 カミヤは思わずたずねる。名前は知りませんが、このごろ若い男性が来ていますよ、と女は穏やかに言った。
 自分の座っていたあたりに戻っていく女の背を見つめ、建物の中をぼんやり見渡す。狭い空間に椅子が並んでいて、前の方には冊子が積まれている台があった。白と茶色で造られていたが、全体にうすく煤けていた。
 受け取ったパンを口に運ぶ。冷えて固くなっているパンをもそもそと食べながら、ケンゴはここで何をしているのだろう、と思った。外と隔絶されたような空間で、パンを食べて冊子を読んで過ごしているのだろうか。
 隅の方で遊んでいた子供達がカミヤを窺っているのがわかった。カミヤは立ち上がり、女の方に歩み寄る。何かを飲んでいた女は伏せていた目を上げた。
「これはいいです、ご馳走様でした」
 冊子を返し、女に会釈をする。カミヤの返した冊子を開き、何も無い空間に一日ひとり、と女は呟いた。再び伏せられた顔を少し見て、カミヤはテラから出た。
「待ち合わせは墓場だったっけ」
 外の日差しに顔をしかめながらウデナシを見上げる。駅だよ、と返事をすると、そうか、とウデナシは呟いた。来た道を引き返していくウデナシの後ろ姿を眺め、カミヤは家路につく。

「テラの女はアル中だよ」
 カミヤは顔を上げた。客が少なかったので店を早く閉め、夕食を店長と数人で摂っている途中だった。ふうん、と店員の一人が返事をする。
「それで香水くせえんだ」
 頷く店員を見、カミヤは再び食事に目を落とす。炒められた米をスプーンで集め、アル中って何ですか、とたずねた。
「酒が切れると死ぬ病気」
 カミヤの方を向いた店員が、もっと食え、とカミヤの皿に肉を取り分ける。はい、と返事をしながら、カミヤはテラを思い出していた。何をする場所なのか、どんな人が出入りするのかも結局よくわからなかった。いやな感じはしなかったが、あまり行きたい場所だとも思わなかった。
「市場に行く客が増えたな」
 店長が呟いた。あー言われりゃそっすね、ともごもご言う声を聞きながら肉にフォークを突き刺す。忙しくなりますかね、と続ける店員に、かもな、と店長が面倒くさそうに返事をする。今日の胡椒はちょうどいい、と思う。
「何置いてんすかね」
「大したもんがあんだろうよ」
 会話を聞くともなしに聞きながら、カミヤは半分開けている入口の方を眺める。まだ人通りは多く、灯りの点いている店も多かった。こっそり深呼吸をすると、夜と煙と香辛料の混ざった匂いが肺に広がった。

 - - -

 確かに店に客が増え、以前より少し忙しくなった。休みは不規則になり、起きてから眠るまでケンゴと会わないような日もあった。カミヤはかまわなかった。役に立っているという感覚は快いものだったし、少し実入りもよくなった。市場に向かう客のほかに、物珍しそうに路地や店内を眺める客もいた。見せもんじゃねえぞと呟く店員もいたが、この辺りがにわかに活気づいたことにカミヤはかすかな高揚をおぼえてもいた。そうして、二ヶ月が過ぎた。

 昼まで降っていた雨が上がり、濡れた地面の匂いが立ち上っていた。伸びる建物の影を踏み越えながら駅へ向かう。たまには外でご飯を食べようかと言うので、仕事が終わった後にケンゴと待ち合わせをしたのだった。
 本が置いてある店にケンゴはいた。軒先に置いてある大判の本をめくっているケンゴに肩をぶつける。お、と呟き、カミヤをじっと見る。
「格好良くなったね」
 悪い気はしなかった。本を戻したケンゴが、今日は俺が出すよ、と言いながら歩き始める。カミヤはおどろいて、仕事行ったんだ、と口に出した。
「いつも行ってるよ」
 何でもないことのようにケンゴは言った。横顔を見上げるとケンゴは再びカミヤを見る。深い茶色は普段の通りに穏やかだった。嘘をついた、と思ったが、カミヤは黙っていた。

 食事を終えると外はすっかり暗くなっていた。蒸した魚というものを食べるのは初めてだった。胃の中に残るあたたかい感覚に、カミヤは満ち足りた気持ちで歩を進める。
「暑いね」
 ケンゴが口を開いた。ケンゴは暑がりだ、とカミヤは思う。暑いのはいつものことだ。
「雨が降るといいね」
 駅の周りにある店を眺めながらカミヤは言った。食器や石鹸なんかが並んでいる店に、小さなガラスの置物があった。透明な球体の中に藍色の染料が流し込まれ、鉄塔や列車が入っている。夜を閉じ込めたような置物に目を奪われ、カミヤは思わず立ち止まった。
 ふいにケンゴが手を伸ばしてその置物を手に取る。店の人と少しやりとりをしてから紙袋を受け取った。カミヤに置物の入った袋を手渡し、聞こえないくらいの声でささやく。
「あげる」
 カミヤはおどろいてケンゴを見た。紙袋を見、再びケンゴを見る。
「欲しいって思ったでしょ」
 前を向いたままケンゴは呟いた。うん、と小さく返事をしながら、胸のあたりがじわりと温かくなるのを感じた。こんな風にしてもらったことはなかった。
「……親がさ、仕事行かなくなってから暴れるようになって、暗くなるまで外にいてさ……」
 うん、とケンゴは頷いた。駅の周りは少し明るく、歩いている人もみな忙しそうに見える。
「ケンゴのとこに行ったあと一回だけ見に行ったら、鍵が壊れてて、もういなかった」
 それで戻ってきた、と続ける。ケンゴが何も言わないので隣を見上げると、ケンゴは黙ってカミヤの手を取った。右手から伝わる体温を感じながら、守られている、とカミヤは確かに思うのだった。

 屋上に辿り着くとメイがいた。他の建物もあるが、板が打ち付けられていたり扉が開かなかったりして、屋上まで上れる建物は今はこの場所くらいだった。絵を描いている紙を後ろから覗き込み、今日は夜だ、と声をかける。
「あら、カミヤ」
 手を止めてメイは振り返った。青や紫の絵の具が載せられたパレットを見、そうね、と頷く。
「空想で描いてんの」
「まあ、そんなところ」
 区画整理するって言うから見納めに、とメイは続ける。区画整理、と呟くと、この辺に住んでるのよね、と不思議そうにカミヤを見上げた。
「あと四年で工事が始まるんですって」
 郵便見てないの、と単純な疑問を問いかけるように首を傾げる。忙しくて見てなかった、と目を逸らす。そう、とだけメイは言い、紙に筆を走らせる。区画整理って何だ、と思いながらカミヤは塗装の剥がれた家並みを見下ろす。
「……四年もしたら、もう大人かしら」
 メイがぽつりと呟いた。カミヤは黙ってメイの後ろ姿を眺める。大人になりたいの、とたずねると、わからない、と言って紫の絵の具を溶く。大人になったメイも、大人になった自分も想像がつかなかった。
「カミヤはひとりで住んでるの」
 ふいにメイがたずねる。大人と二人で住んでる、と返事をすると、へぇ、と意外そうにカミヤを見る。
「仕事してるって言うから、一人暮らしかと思った」
 一人暮らし、という言葉を頭の中で繰り返す。一人で暮らすなんて考えたこともなかったが、そう見えたと思うと新鮮だった。
 ぽたり、と頬に水滴が当たる。瞬く間に雨が降り始める。下りよう、と声をかけると、メイは紙とパレットを鞄に入れながら頷いた。階段の下までたどり着き、徐々に強くなる雨の音を聴く。少ししたら止むと思う、とメイの方を見ると、雨に濡れる街並みをメイはじっと見ていた。

 しばらく雨宿りをしてから家に帰り着き、ちゃぶ台に突っ伏してうたた寝しているケンゴの肩を揺らす。おはよう、と寝起きの声で囁くケンゴに、区画整理ってなに、とたずねた。
「……建物を壊したり道を整備することかな」
 郵便来てる、と訊きながら外に出て郵便受けを開ける。重なっているチラシや封書を室内に持ち込んでちゃぶ台に広げると、こんなに来てたんだ、とケンゴが上半身を起こす。一枚の封書を手に取り、区画整理のお知らせ、と呟いた。
 封書を開いたケンゴの表情が曇る。なんて書いてあるの、と訊ねると、うーん、とケンゴは眉根を寄せた。しばらくして、駅からこの辺まで工事するんだって、と言いながらカミヤを見る。
「……市場ができたからじゃないかなぁ」
「工事するとどうなるの」
「今ある建物をあらかた壊して、公園にするらしい」
「……引っ越すの?」
 たずねると、うーん、と再びケンゴは目を閉じた。そのままふらりと玄関から外に出る。カミヤはしばらくケンゴの背を見つめていたが、少ししてちゃぶ台の前に座った。置いたままの封書を眺める。確かに文字の間に公園の絵が描いてあった。
 あと四年で工事が始まるんですって、と言ったメイの声が脳裏に響く。四年もしたらもう大人かしら。ここを出て他の場所で暮らすことも、大人になることも、まるで遠い出来事のような気がした。