こんな所に人が生きてそして死んだ話
ぬるい風が頬を撫でる。日が落ちて明かりの灯り始めた街並みを見下ろし、カミヤは屋上の端にしゃがみ込んだ。メイとしばらく会っていない、とぼんやり思っていると、階段の方で物音がした。屋上に来たのはリュウだった。
「へぇ、こんな場所があるんだ」
「……うるせえな、どっか行けよあんた」
カミヤは吐き捨てた。リュウは返事をせず、もう戻って来なかったりしてね、とせせら笑う。カミヤは黙っていたが、彼が近付いてくる様子はなかった。
「……何で警察官やってんの」
「寮があったんで」
カミヤは振り返ってリュウを見た。君もやる、と薄く笑ってたずねる。
「あんたと住むくらいなら公園に住む」
「ふうん、案外元気じゃん」
リュウは意外そうな声を出した。まだ泣いてんのかと思った、と続ける。カミヤは返事をしなかった。
「……良くないんだよここいらは、何があるか分かんないし、君みたいな子も見つかる」
「……おれみたいなって」
「身元のはっきりしない子」
リュウは階段近くにしゃがみ込み、大きくため息をついた。市場ができて良かったよね、と自嘲気味に笑う。自分はこの辺りが自分の一部のような気がする、とは口が裂けても言うまいと思った。
「……だいたい君、何であいつと住んでんの? いつから?」
「……あんたには関係ないだろ」
カミヤは街並みに目を戻す。黒いかたまりから橙の灯が漏れていた。
「文字が読めないから、都合が良かったんだ」
カミヤはいっぺんにかっとして、足元に転がっている石をリュウに投げた。石はリュウのしゃがんでいる右の方に転がった。彼は気怠そうに立ち上がり、何も言わずに階段を下りて行った。
カミヤは再びしゃがみ込む。ひどく息が乱れていた。頼りない自分のつま先を眺めながら、泣くもんか、と歯を食いしばった。
仕事を終え、静かに夜に近付く路地を歩く。朝、店に出向くと店長が目を上げ、休むんなら言えよ、と呟いた。リュウが家にいた次の日に一回行かなかったことを思い出した。小さく謝ると、店長は片手を上げて厨房に入った。
歩きながらカミヤは、テラの女が言ったことを思い出していた。次いでウデナシが喋っていたことを。あれが本当だとしたら、じゃあなぜケンゴはカミヤと暮らしたのだろう? リュウの言う通り、隠れるのに都合が良かったからなんだろうか……。街の匂いが少しずつ夜になっていくのを感じながら、カミヤはケンゴのことを思った。自分と暮らし始めた後も子供を攫っていたのか、遊んだりご飯を作ってくれたのは一体どうしてなのか。それでもカミヤには、ケンゴの優しさが嘘だとはどうしても思えなかった。
暗い路地の向こうで、座り込んでいる大人にウデナシが話しかけているのが見えた。カミヤは緊張しながらそっと近付く。待ち合わせは墓場だったっけ、と言うウデナシに、向こうの建物だ、と大人が面倒くさそうに返事をしていた。
ウデナシはふらりと路地を引き返した。カミヤの方を見ることなく横を通り過ぎる。遠くなっていく背をぼんやり眺めながら、テラの所で見たウデナシは何だったんだろう、と小さく息をつく。追いかける気にはなれず、カミヤは家に向かう方を曲がった。
家の前にたどり着き、リュウがいたらどうしよう、と思いながら鍵を開ける。がらんと薄暗く、誰もいなかった。ほっとしてごみ箱に目をやると、彼が捨てていった冊子がそのままになっていた。
カミヤは冊子に手を伸ばした。ぱらぱらと開くと、紙からテラの匂いが漂った。中にはびっしり文字が書かれていて、カミヤはしばらく眺めてから再びごみ箱に放る。ちゃぶ台に突っ伏し、何か夕飯を用意しなきゃな、と思う。
カミヤは再びテラに赴いた。扉を押して暗い室内に入ると、天窓から月明かりが差し込んでいるのがわかった。奥の方では女がむこう側を向いて立っていた。夜も開いているとは思わなかった、と思いながら静かに扉を閉める。
「……ひとり、怪我に気付いた子供がいた」
カミヤは女を見た。背を向けている彼女に振り返る様子はなく、黙ったまま女の背を見つめる。
「売るつもりだったその子供と暮らしているうち……弟を思い出し……なぜこんなことをしているのだろう、と思った」
カミヤは身を動かすことができなかった。
「それから……売った子供の夢を見るようになり、それが恐ろしくて眠れない」
今はもう、いつ死んでもいいと思っている、と女は続けた。それきり何も言わず、カミヤの方を向くこともなかった。女が振り向いたり口を開いたりする前に、カミヤは暗い部屋から立ち去った。
裏口から店に入ると店長がいた。早えな、と口角を上げる店長を見て、外がまだ薄暗かったことを思い出す。厨房の椅子から腰を上げる店長に、四年後の話なんですけど、と声をかける。
「せっかくなんですけど、分からないです」
店長はカミヤを見た。誘ってもらったのはありがたいです、とカミヤは続ける。少しの間黙ってから、分かった、と店長はふっと笑った。カミヤは何となくほっとして、父が戻らなくて、と口に出す。
「戻らねぇって……どこ行ってんだよ」
「分からないです」
「おいおい……」
店長がカミヤを横目で見る。案外肝が据わってんだな、と続けた。
「……戻らないんですけど、待ってようと思っていて」
「へぇ……」
冷蔵庫から取り出した肉に塩を振りながら、まぁ飯作れりゃ死なねえだろ、と呟く。
「……体に気を付けろよ」
はい、とカミヤは返事をした。食器棚からスプーンやフォークを取り出しながら、待っているけれど、もうケンゴが戻らないことを知っている、と思った。
屋上に続く階段の下に紙が貼られていた。両側の壁に板が打ち付けてあり、もう登れなくなっている。紙には文字が書かれていた。カミヤはしばらく立ち尽くし、引き返そうとすると階段の脇に茶色い紙袋が目に入った。
カミヤの腰のあたりまである袋にそっと手を伸ばして中を覗く。メイが描いていた絵が入っていた。屋上から見える青紫の夜、鉛筆で下書きをしていた街並み、それと全体に薄黄と水色の、夕方に雨が降っている絵が一枚。一緒に手紙も入っていたが、全部が文字だったので諦めて袋にしまった。
カミヤはふいに、四年後のことが現実味を帯びた気がした。工事が始まって、建物が壊されて、この辺に人はいなくなる。跡地は公園に整備されて、いずれは人が住んでいたことすら忘れられる……。
紙袋を抱え、カミヤは建物を後にした。朝の匂いのする路地を家の方に向かい、今日も早めに仕事に行こう、と思う。
家に帰ると玄関の鍵が開いていた。誰かいる、と思いながらそっと扉を開ける。ケンゴがちゃぶ台に向かって何か書き物をしていた。カミヤは言葉がでなかった。
「おかえり……」
ケンゴは返事をしなかった。普段と同じに、ただ一日空けて帰ってきたかのような様子だった。紙から目を上げないまま鉛筆で何かを書き続ける。
「カミヤが文字を読めるようになると、これは困ったことになる」
カミヤは絵の入った袋を床に置き、突き動かされるようにちゃぶ台の前に座る。どこに行っていたのかとかケンゴがいない間のこととか、話したいことが山ほどあった。ぐっと飲み込み、あのさ、と呟く。出した声が震えていた。
「今日……ご飯、何にする」
ケンゴの瞳がカミヤを捉えた。普段のように笑うことはなく、何も言わずに静かに立ち上がる。
「めでたいガキだな、もうお前と住む必要はないんだよ」
カミヤは耳を疑った。何も言うことができずケンゴを凝視する。ケンゴのあんなに冷たい目を見たのは初めてだった。
それ以上何も言わず、ケンゴは玄関から出て行った。カミヤは立ち上がることもできず、しばらく玄関の方を眺めていた。窓を開けたり外に出てきたり、朝を迎えた路地からは人の動き出す気配がしていた。
そうしてそれきり、二度とケンゴと会うことはなかった。
- - -
列車がトンネルに入り、窓に張りついて外を眺めていた息子が椅子に座る。退屈そうに足をぶらぶらさせ、持ってきた車のおもちゃを窓のへりに乗せて動かす。
「まだ? 公園」
「もうすぐ」
振り返った息子にカミヤは返事をする。トンネル終わったら車しまうんだよ、と声を掛けると、うん、と息子は再び車を動かし始める。カミヤは目を閉じ、列車の走る音に身を委ねた。
公園に下りると息子は走り出した。芝生の辺りでしゃがんだのを視界の端に捉えながらカミヤは深呼吸をする。空気は湿った緑のもので、もうあの街や路地の匂いはしなかった。まばらに歩いている老人や子供を眺め、カミヤはそっとベンチに座る。
あのあと、一度だけリュウが家に来た。ケンゴが何か書いていた紙をしばらく眺めてから、君はここで暮らす、とカミヤにたずねた。小さく頷くと、四年あるから働いて金貯めな、とカミヤの方を見ずに呟いた。街にはあちこちにロープが掛けられて入れない場所が増え、あまり見ない人が歩いていることも多くなった。役人がうろついてんだ、と店員の一人が言った。
カミヤは仕事に身を入れるようになった。金が必要なのは実際にそうだったし、働いていれば気が紛れた。四年間働き、閉店する頃には街には開いている店の方が少なく、最後の日にはまた店長と数名で夕食を摂った。テラに行くことはなくなり、ケンゴのことを思い出すことはないまま、カミヤは大人になった。
息子が背の低い木に頭を突っ込んでいるのを見る。虫か何かを見つけたのだろうなと思い、カミヤは少し笑う。今やカミヤはあの頃のケンゴよりも年上になった。思い出すことのなかったあの辺りのことやケンゴのことを、この頃折に触れて思い返すことが出てきた。それに今になって分かることもあった。
「お父さん、雨」
息子が振り返る。カミヤは空を仰いだ。頬に水滴が当たり、瞬く間に本降りになる。息子がカミヤのもとに走ってきて左手をきゅっと握った。屋根のある方のベンチに二人で走りながら、カミヤは雨の降る街の匂いを思い出していた。
ケンゴはカミヤを守ったのだった。
最後の日、ケンゴが書いたのは恐らく、カミヤもかつて攫った子供であること、カミヤはケンゴについて何も知らないこと、それにもしかしたら、ケンゴの向かう先……。区画整理の話を知ってから、いずれ警察か役人が来ることが分かっていたに違いない。リュウが持って行ったあの紙の内容も、今となってはもう知る術はない。
屋根の下に駆け込み、鞄からタオルを取り出す。息子の頭を拭きながら、温かな気持ちが胸の奥から湧いて出るのを感じた。最後の日のケンゴの様子、あれはきっと、間違ってもカミヤがケンゴを探さないようにするためだったのではないかと、この頃になって思う。
「……お父さん、昔この辺に住んでたんだ」
「公園に?」
息子は目を丸くした。昔は建物やお店があって、人が住んでたんだよ、と笑いかけると、へぇ、と雨の降っている公園をきょろきょろと見渡した。
「今日、ご飯なに」
「卵かな、それと野菜」
ふうん、と息子は自分のつま先を眺めた。不満だったのか、お母さんは、とたずねる。今日は仕事、と答えると、仕事かぁ、と言いベンチに座った。
「帰ったらご本読む?」
「読もうか、どの本がいい?」
「恐竜の出るやつ」
カミヤは足をぶらぶらさせている息子を見る。少し前から、息子と一緒にカミヤは文字を読み始めた。読んだ本は七冊目になるが、恐竜の話が息子はお気に入りだ。
雨が上がり、息子が芝生に走って行くのを見る。遠くなる後ろ姿を眺めながら、カミヤはふっと雨上がりの路地を思い出す。柔らかなパンをもらったこと、ケンゴの大きな温かい手。呼吸をひとつして瞬きをすると、もうあの街はふるい記憶の中だけのものだった。