こんな所に人が生きてそして死んだ話
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雨だ、帰らなきゃ、とひとりの男の子が言う。カミヤは上を向き、洗濯物を取り込もうと人が出てくるのを見る。走り出した二、三名の背を眺め、屋根のある建物に駆け込む。お腹が空いたけどまだ帰るには早い時間だった。西日に照らされてうす赤く見える向こう側の建物を見、カミヤはしゃがみ込んで自分のつま先を眺める。
「雨だね」
カミヤは振り返った。建物の中に人がいた。大人の男で、壁に背を凭せて座り込んでいた。驚いて返事をできずにいると、この辺の子、と続けた。
カミヤは小さく頷いた。ふうん、と頷き、男は鞄からパンを取り出した。お腹空いてるでしょ、と言いながら半分ちぎってカミヤに手渡す。男がパンを口に運ぶのを見てカミヤもパンを食べる。普段食べるパンより柔らかく、かすかに甘かった。
「おいしい?」
「……うん」
男の目元が緩んだ。俺の家、おもちゃがあるよ、と続ける。カミヤは男を見た。
「……列車?」
「うん、列車」
「メンコも?」
「うん、メンコも」
カミヤは心がはずむのを感じた。来る、とたずねた男に、うん、と大きく頷く。座り込んだままの男の手を握って引っ張ると、男は顔をしかめた。
「……どこか、痛いの」
「少し前にね、もう治るところ」
ゆっくり立ち上がり、行こっか、と男は笑った。俺はケンゴ、とカミヤを見た男の手を握り、カミヤ、と小さく言う。わずかに右足を引きずるようにして歩くケンゴを見上げ、カミヤは雨上がりの匂いのする路地を歩いた。
目を開けると台所に立っているケンゴの背が見えた。カミヤは起き上がって辺りを窺う。コマや列車の模型やメンコが散らかっていた。ケンゴの家で遊んだまま眠ってしまったようだった。
「おはよう」
ケンゴは穏やかに笑った。カミヤは窓の下に駆け寄る。外はすっかり暗くなっていた。
「帰らなきゃ……」
カミヤは胃のあたりが冷たくなるのを感じた。それでも暗い路地を歩いたことはなく、俯いて自分のつま先を眺める。泊まって行ったら、と事もなげにケンゴは言った。
「……おとうさんに、怒られちゃう」
ケンゴはしばらく黙っていた。やがて、俺がお父さんに言っておいてあげようか、と口を開く。カミヤは顔を上げてケンゴを見た。窓際に歩み寄り、ケンゴはしゃがんでカミヤに目線を合わせる。
「……今日は暗いよ、ご飯にしよう」
「……うん」
カミヤは小さく頷いた。ぐうと自分のお腹が鳴るのが聞こえた。
次の朝に目を覚ますと、ケンゴがちゃぶ台の前に座っていた。深刻な顔をして、お父さん、具合が悪いんだって、と呟く。カミヤは何も言えずにケンゴを見た。
「それで、元気になるまでしばらく見てほしいって」
ケンゴは目を伏せた。暗い顔をしている様子になんとなく不安になってカミヤは俯く。それでもどう訊ねればいいのか分からず、うん、と聞こえないくらいの声で返事をした。
ケンゴは仕事をしているようだった。家にいる日もあればいない日もあった。ケンゴがいない日、カミヤは見よう見まねで食事の用意をするようになった。しばらく見てほしい、というのがどういう意味なのか、カミヤが理解したのはもう少し大きくなってからだった。けれどカミヤが親のもとに戻る日は来なかった。それ以降ケンゴがカミヤの親の話をすることはなかったし、カミヤの方からたずねることもなかった。ケンゴはご飯を作ってくれた。一緒に遊んでくれたし、買い物にも連れて行ってくれた。夜に外に出かけることもあった。何よりケンゴは、優しかった。
ケンゴと暮らし始めて五年が経っていた。ある時カミヤが夜中に目を覚ますと、ケンゴが座って窓の外を眺めていた。まだ起きている、と思いながら、寝てないの、と声をかけると、ケンゴは今カミヤの存在に気付いたような表情をした。
「ああ……さっき起きちゃって」
ケンゴは微笑んだ。ふうん、と頷いてカミヤは再び横になる。眠りに落ちそうになった時、玄関からケンゴが外に出て行く足音が聞こえた。
カミヤは仕事を始めた。働いているケンゴを格好良いと思っていたし、食事を作ることなら自分にもできると思った。カミヤが働き始めてからほどなくして、ケンゴの家にいる時間が長くなった。たまに微笑みに影が差すことがあり、どこを見ているのかわからない時もあった。それでも店から帰ればおかえりと笑ったし、夕方に散歩に出ることもあった。ケンゴが家にいる、と思うと、カミヤはちゃんと帰ろうと思うのだった。
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家に帰るとリュウがいた。立っていた彼が振り返ったのを見てカミヤは反射的に玄関を閉める。心臓が早鐘を打ち始めるのが分かり、ゆっくり呼吸をしてから再び玄関を開ける。
「……あんた、この辺の生まれだろう」
「家宅捜索だよ」
リュウはうっすら笑った。でもこの辺の生まれってのはそう、と続ける。
「しけた場所だよね、本当に」
どうでもよさそうに言い、リュウはちゃぶ台にどっかりと座る。あと四年でここいらの悪い奴を捕まえなきゃならないんだ、と呟いた。
「……警察官? 本当に?」
「はぁ? 見せたでしょ手帳」
うんざりしたようにリュウは声を出す。カミヤはだんだん苛々しながら、明日も早いんですけど、と後ろ手に玄関を閉める。
「……君、名前は?」
「カミヤ……」
「下の名前」
カミヤは押し黙った。下の名前、というのが何なのか分からなかった。
「……君の名前が分かるものが無いんだ、ちょっと書いてもらえる、十五くらい?」
リュウはカミヤを少し見てからノートと鉛筆を手渡す。十六です、と答えながら筆記用具を受け取る。鉛筆を受け取った手が震えているのがわかった。
「あの……」
「文字が読めない」
カミヤはリュウを見上げた。彼の瞳には軽蔑というよりも同情の色が浮かんでいた。
「……じゃあいいや、あいつが戻って来ても隠さないでよ」
リュウは小さく息をついた。これ捨ててっていい、と呟いてポケットから筒状になった冊子を取り出す。無造作にごみ箱に放り、リュウは玄関を開けて暗い路地に出て行った。
カミヤはへなへなと座り込んだ。ぎゅっと目をつむると熱い涙が流れた。どうしてこんなことになっているのか分からなかった。
屋上は深い夜で、星は遠くに見えるだけだ。帰る時に降っていた雨が上がり、濡れた木材のような匂いが辺りに立ちこめていた。仰向けに寝そべると、シャツの背中に雨水が染みるのが分かった。
親に名前で呼ばれたことはなかった。おい、とか、お前、とか呼ばれていた。親が街の人からカミヤと呼ばれていたので、自分もカミヤと名乗った。それだけだった。
カミヤは寝そべったまま横を向く。目線を下に動かすと、灯りの消えた街並みが黒いかたまりのように見えた。しけた場所だ、という言葉が脳裏に響く。リュウと話してから、自分は何も知らない、という無力感がじわじわと身体を侵蝕していた。
ケンゴに会いたい。会って話がしたい。今までのことは何かの間違いで、四年したら引っ越そうかと言ってほしい。再び仰向けになり、かすかに明るくなり始めている向こう側の空を見る。けれどケンゴがそんなことをするはずがないと思うのと同時に、リュウの言っていることは本当のことで、彼にはいきなり現れて嘘をつく理由がない、とも思うのだった。
カミヤは一人でテラに向かった。
奥に座っていた女が顔を上げた。眼差しがカミヤを捉えたが、何か表情が浮かぶことはなかった。
「彼は戻りましたか」
女の目は据わっていた。カミヤは目を伏せ、小さく首を横に振る。
「あなたは彼を信頼しているのですね」
カミヤは俯いた。入口近くの椅子に腰掛け、わからないです、とやっとの思いで口にする。
「……昔、大変なことをしていて……、追っ手を線路に突き落とし、隠れている」
カミヤは顔を上げた。女の目線は少し下を見たまま動かなかった。
「今は子供と暮らしていて、この頃眠ると恐ろしい夢を見る」
女はぼんやりとカミヤを見た。カミヤは身を固くした。それ以上聞くことは耐えられないと思ったが、女は何も言わなかった。
「それは……」
「……彼は……、道を見つけたのではないでしょうか……」
カミヤの声が聞こえなかったのか、女は深く息を吐いて続けた。そのまま机に突っ伏し、寝息を立て始める。女が座っている机の下に酒の瓶が転がっていた。
カミヤはしばらくその場所に座っていた。女が目を覚ます気配はなかった。天窓からかすかに明かりが差し込むのを見て、朝が来たことを知る。そっと立ち上がり、薄汚れた扉を開けてテラから出た。
外は日が射し、路上の温度をぐらぐらと上げていた。テラの斜め前に錆び付いた椅子が数脚置いてあり、そこにウデナシが座っていた。久しぶりに見た、と思いながらウデナシを眺める。隣の椅子に座っている老人に話しかけているようだった。
「……今夜も墓場だろうって俺は言ったんだ、そうしたら今日は駅だって言うから、何でまたそんな所にって」
「はぁ、あんたは駅から来たのか」
カミヤは視線を外すことができなかった。立ち止まり、滑らかに喋っているウデナシを見つめる。
「駅なんて人目についちまう、そう言ったんだが聞き入れないもんで、まぁこないだまでガキだった奴だ、いざとなりゃ……」
「あんた、そっちの腕はどうしたんだ」
大して気にしている様子もない老人の方を向き、油断したんだろうなぁ、とウデナシは続けた。喋り終えると不意に立ち上がり、ふらふらと路地を曲がっていった。カミヤは椅子に座っている老人に駆け寄り、あの人、喋れるんですか、とたずねる。
「ええ、私は喋れますよ」
老人はカミヤを見て首を傾げた。しばらくして、暑いですね今日も、とぼんやり笑う。
全身から力が抜けるのがわかった。薄暗く蒸し暑い路地で立ち尽くしながら、カミヤは信じていた何かが崩れ始める気配を感じた。