こんな所に人が生きてそして死んだ話
薄紫に暮れる空を眺める。住居から漂ってくる夕食の匂いに、今日のご飯は何だろう、と思う。日が落ちて涼しくなり、路地には人通りが増え始めていた。歩きながらカミヤは、にわかに落ち着かなかった心がゆっくり凪いでいくのがわかった。少し遠回りをして帰ろうか、と考えていると、ひとりの青年がカミヤをじっと見ているのに気付いた。
青年はテラから出てきた様子だった。この頃あまり見たことのない人がこの辺りを歩いていることがある、と思いながら青年を見つめる。上背はあるがやや猫背ぎみで、瞳が暗く濁っていた。
目線を外し、青年は外れの方へ歩き去る。よその人もテラに行くのか、と思い、カミヤは少し迷ってから白い扉を開けた。
以前のように女が奥の方に座っていた。のっそり立ち上がって近付き、カミヤを見て微笑む。
「これはいいんでしたね」
手渡そうとした冊子を下ろした女を見上げる。懐かしいものを見るような眼差しに、カミヤは居心地悪く目を逸らす。
「……ここは、何をする場所なんですか」
パンを受け取り、カミヤは薄汚れて灰色に見える室内を見渡して言った。ここは迷い子が道を捜す場所です、と女は冊子を開いてささやいた。返事をしかねていると、すこし笑ってから自分の座っていた方に戻っていった。
立ち去ったあとから香水の匂いが漂い、テラの女はアル中だよ、と店員が言っていたことを思い出す。酒が切れると死ぬ病気。カミヤは遠くに座った女をしばらく眺めていたが、そっと扉を開けて外に出た。
どこからか揚げ物の匂いがし、何もないかもしれないからケンゴに何か買って帰ろう、と思う。店に明かりが灯るのを見ながらカミヤは家路につく。夕闇が濃くなり始めていた。
鉛筆を動かす音が響く。カミヤは首をねじってメイの方を見た。この間から座る場所を変えたりして何枚も下書きをしているようだった。鬼気迫る後ろ姿を見つめ、再び仰向けに戻って空や雲なんかを眺める。いつも朝早くにいるのは学校に行っているからだ、とカミヤはぼんやり思う。
「ねえ」
メイが口を開いた。カミヤは上半身を起こし、メイの方を見る。鉛筆を置いて足を伸ばしていた。
「カミヤと住んでる人って、どうして一緒に住んでるの」
メイの瞳は興味深げに光っていた。ほとんど訊かれたことのない質問にカミヤは黙り込んだ。メイに悪気がないことは分かったので、親がいないから、とだけ答える。
「そう」
メイは俯いた。あ、気にすんなよ、とカミヤは呟く。よそから来た子と話すのは本当に久しぶりだった。
「メイはお父さんやお母さんと住んでるの」
「ええ、それとお兄ちゃん」
ふうん、とカミヤは頷いた。メイは再び鉛筆を取り、電線や鉄塔に目線をやる。黒鉛で街が形取られている紙を少し離して眺め、また紙に鉛筆を走らせる。
「……仕事はしなくていいんだって」
カミヤは目を上げた。伏せられたメイの表情は見えなかった。
「学校の子は卒業したら仕事をするって言ってるけど、私は家の人の面倒を見るんだって、今もう夕ご飯は私が作ってる」
鉛筆の芯が折れる音がした。カミヤは何も言えずメイを見た。カミヤはどうしたい、と穏やかにたずねたケンゴのことを思い出した。
「……ごめんなさい、今日は帰るわ」
息をひとつ吐いて立ち上がり、紙と鉛筆を鞄にしまう。埃を払った手が震えていた。早足で階段に向かうメイの背を見つめながら、カミヤは何かが重苦しく胸を塞ぐのを感じた。
洗い物をしているケンゴの背を眺めながら、カミヤは朝を思い返していた。お父さんやお母さんがいても、部屋が何個もある家に住んでいても、あまり幸せではないのだな、と思いながらちゃぶ台に突っ伏す。
「ケンゴ」
うん? と手を止めて振り返る。区画整理したら引っ越すの、とたずねると、うーん、と言いながら洗い物に目を戻した。カミヤは立ち上がり、おれ、もっと働くから、文字も読む、と言い募る。
「カミヤ、俺は……」
振り返ったケンゴの表情は何かを恐れているように見えた。思わずケンゴを凝視すると、はっとして普段のように少し笑う。そうだね、と静かに呟いた。
「……読んでみようか、何か用意するよ」
けれどケンゴが文字を読むものを用意することはなかった。というより、次の日から帰って来なくなった。一日二日会わないことは今までもあったが、五日ケンゴの姿を見なかった朝、カミヤはケンゴを探してテラに赴いた。駅前の本屋かテラか、それくらいしかケンゴの行く場所について知っていることは無かった。
扉を開けると、女の座っている近くに青年が立っていた。二人が顔を上げてカミヤを見る。空気が張りつめたのを感じ、カミヤは何も言えないまま二人を眺める。
「今日は飯屋はないの」
青年がカミヤに話しかけた。どこかで会っただろうかと思いながら青年を見る。暗い瞳をカミヤに向け、つまらなさそうに笑った。
「……昼から、ですけど」
青年は返事をしなかった。女は冊子に目を落として何かを飲んでいた。何となく目を逸らせずにいると、君と住んでる男どこに行ったの、と青年が口を開く。
カミヤは何がなんだかわからず青年の顔を見る。黙っていると、探しているんだ、と面倒くさそうに呟いた。
「……知り合いですか」
「うん」
カミヤは青年をまじまじと見た。なんだか嫌な感じがしたし、ケンゴから知り合いの話を聞いたことはなかった。それにこの青年はケンゴとは違う人間のような気がした。
「……信じていないね、僕はリュウってんだけど、彼の昔のことを知っていてね」
カミヤは思わずリュウを凝視した。女が、やめなさい、と咎めるように言う。リュウは返事をせずにカミヤの方に歩み寄る。鈍く光る瞳を見、テラから出てきた青年だ、とカミヤはふと思い出す。
「……旅をしていて、一つ下の弟がいて」
「へぇ、それ信じるのすごい」
リュウは片頬を歪めるようにして笑った。何も言えずにリュウを見つめると、昔はもっと子供がいたでしょう、と感情の読み取れない声で続けた。
「あの子達、どこに行ったと思う」
女が立ち上がるのが見えた。ふらついて机に手を突き、しゃがみ込んでリュウの背を睨む。何かを言おうとして大きく咳き込んだ。女のあんなに恐ろしい顔を見るのは初めてだった。
「皆あいつがどこかに売っちゃった、知り合いってのは嘘、僕は警察官」
リュウは懐から小さな手帳を取り出した。表面に小さく文字が書かれていたが、何が書いてあるのかカミヤには分からなかった。